■オンライン礼拝式次第
開式の辞
1.奏楽 Arioso from St. Paul-主おのれの者を知り給う
https://www.youtube.com/watch?v=6L5mGxMxJSI
2.主の祈り
3.讃美歌30番 1、2節 「あさかぜしずかにふきて」
4.牧会祈祷
5.聖書朗読 創世記3章1~10節 (旧約聖書3頁)
6.説教 「あなたはどこにいるのか」 滝田善子 教師
7.讃美歌285番 1、2節 「主よ、みてもて ひかせたまえ」
8.献金・献金感謝祈祷
9.讃美歌285番 3、4節 「主よ、みてもて ひかせたまえ」
10.祝祷
11.後奏 「NUN DANKET ALLE GOTT 全ての者よ神に感謝せよ」
https://www.youtube.com/watch?v=OnaLXMxiePA
■ 説 教 「あなたはどこにいるのか」
「主なる神は人に呼びかけて言われた「あなたはどこにいるのか」。今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
今日は人が罪を犯し堕落したというのはどういうことか。人が堕落した状態の悲惨とは何であるか。そして神様は、罪を犯し堕落した人をどのように取り扱われたかということを、み言葉に聴いていきたいと思います。
3:1 人が神様の言いつけを守り、神様に従って歩もうという時、サタンは必ずそれを妨害しようとします。ここでサタンは、もの言う蛇として現れました。女を与しやすしと取ったサタンは、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神がいわれたのですか」と、問いかけました。「どの木からも」「ほんとうに」と、巧妙な言葉です。「全部ダメなのか」「ほんとうに神様がそんなことを言ったのか」と、女の意識を禁じられた木の実に向けさせ、神様の言葉への、疑問や反発を呼び起こそうとしています。
3:2-3 女の答えは、蛇の言葉に引き寄せられています。「これに触れるな」という付け加えがなされ、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう(必ず起こる未来の出来事)」が、「死んではいけないから」と、微妙に緩められています。神様の言葉によけいな付け加えをしたり、み言葉の意味を緩めたり、ずらせたりすることは、服従するものの態度ではありません。そこには、神様より自分の判断を前に置く、不信仰が兆しています。
3:4 蛇は、必ず死ぬという神様の言葉を、死んではいけないからと、自分の解釈で緩めた、女の隙に乗じてきました。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」
3:5 神様は、あなたがたがこの木の実を食べて、ご自分のように賢くなると、知っておられるのですよ、そうなることを嫌っておられるのですよと、まるで神様が人がご自分のように賢くなることに嫉妬しておられるかのように吹き込みました。
3:6 蛇にそそのかされた目で木の実を見ると、それはいかにも美味しそうで美しく、食べれば賢くなりそうでした。女は取って食べ、共にいた夫にもそれを与えました。
3:7 神様のように賢くなれると思って、善悪を知る木の実を食べた二人が見たものは、自分たちの裸の姿でありました。もちろんお互いが衣服を着けていないという意味で、裸であったことは、わかっていたことです。しかし、今やそれが恥ずべきこととなりました。彼らは確かに目が開け、今まではわからなかったことを知りました。しかしそれは、自らの恥ずべき姿だったのです。
これが、人が罪を犯し堕落したいきさつであります。神様に従おうというとき、必ずそれを阻むものが現れます。神様から目をそらせ、神様に疑いを抱かせ、神様の命令よりも自分の欲望を優先するよう、そそのかすものが現れます。そのときに、「退けサタン」と、毅然として言うならば、サタンの誘惑を退けて、神様に従うことができたでしょう。しかし、心の中にある欲望がサタンの言葉を受け入れ、神様に背く道へと進ませてしまったのです。
ここではもの言う蛇でしたが、私たちの生活では、親であったり、友人であったり、学校の先生、医者、科学者、様々な人の言葉が、神様に従って生きることを邪魔します。それが必ずしも妨害の意図を持っていない、むしろ善意であったり、世間の常識であったりするのですが、巧妙にサタンに用いられてしまうのです。私は神様に従うという意志を明確にして、常にみ言葉を武具として、不信仰への誘惑に立ち向かわなくてはなりません。
さて3-8 園に神様が来られたことを知った男と女は、神様の顔を避け、身を隠しました。これが罪人の姿であります。罪を犯す前の二人にとって、神様は何ら恐れること無く近づくことのできる方でした。共にいることが喜ばしい、慕わしい方でした。しかし今や神様の叱責を恐れ、こそこそと身を隠すしかないのであります。ウエストミンスター小教理問答書の問19「人が堕落した状態の悲惨とは何であるか」の答えの冒頭には、「全人類は、堕落によって神との交わりを失い」とあります。人は堕落によって、神様との交わりを失ったのでありますが、それは神様から交わりを絶たれる前に、人自らが神様を避け神様を離れ、神様から身を隠したのであります。ヨハネによる福音書3:20に、「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」とある通りです。神様の前に立つという人が本来あるべき姿をとれない、神様が恐ろしく、神様から逃れようと身を隠すのが、罪を犯し堕落した人の姿であります。
3:9 神様は、隠れている人に向かって「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか」と問われた神様は、決して人の姿を見失ったのではありません。神様はすべてを知っておられます。「あなたはどこにいるのか」それは出てきなさい。私の前に立ちなさい。ということであります。人は神様のみ前にいるべきものです。それが今や神様のみ顔を避けて隠れ潜んでいる。どこにいるのかという神様の呼びかけは、彼らにとってどれほど恐ろしいものであったでしょうか。どれほど恥ずかしいことであったでしょうか。しかし、神様の言葉にあらがうことはできません。
3:10 二人は神様の前に出て「裸だったので、恐れて身を隠したのです」と言い訳しました。神様が人を造られた時、二人は裸でありましたが、そのことに何の恐れも感じてはいませんでした。まさに、神様がお造りになって「はなはだ良かった」と言われた姿でありました。しかし今は、自分たちの姿が恥ずべきものと自覚され、神様のみ前に立つことができない姿と自覚されたのです。それが、神様の命令に背いて善悪を知る木の実を食べた結果でした。
神様は、二人が為したことを知っておられました。二人が身を隠したことも知っておられました。先に小教理問答書から、人間が堕落した悲惨の状態として、神様との交わりを失ったことを上げました。堕落した人は、自ら神様を避けて隠れ潜みます。しかし神様は、「あなたはどこにいるのか」と、呼び求めてくださいました。神様がご自分に背いて罪を犯した人を、見捨てたもうたのであれば、隠れ潜んだ人をそのままに放置することもできたのです。彼らは神様との完全な断絶の中に滅びていったことでしょう。しかし神様は、そのようにはなさいませんでした。神様は隠れた二人に「あなたはどこにいるのか」と呼ばわり、無理にもご自分の前に立たせてくださいました。
人は、自分たちの犯した罪のゆえに裁かれ、楽園にいられなくなりました。神様との親しい交わりも絶たれました。しかし、命をつなぎ、やがてくる回復の日を待つことが許されたのであります。
「あなたはどこにいるのか」今も私たちは、神様のみ声を聴きます。それは在るべき場所、神様のみ前にいるのかという問いかけであり、私の前にいなさい、隠れているなら出てきなさいという促しであります。
今、コロナ禍の中で、私たちは先の見えない不安、現状すら把握できないもどかしさ、自分や家族の健康のこと、経済的なこと、教育、社会常識、あらゆることが揺さぶられています。何がどうなっているのか、これからどうなっていくのかという不安に苛まれることもあります。しかし、神様は決して私たちを、ご自分の民を見捨てられません。いつも「あなたはどこにいるのか」と、呼び求めてくださる、私の前にいなさいと言ってくださいます。世の中がどのような状態であっても、神様は私たちを見ていてくださいます。私たちひとり一人に注がれる神様のご愛を信じて、思いと言葉と行いによって、神様の民、神様の子どもであることを証しする生き方ヘと歩んでいきたいと思います。 (説教 : 滝田善子 教師)