神はあなたを知っておられる

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神はあなたを知っておられる

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
139:3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
139:4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
139:6 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。
139:7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
139:9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。詩編 139篇01-12節

■説教


「①主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。②あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。③あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。④わたしの舌にまだ一言もないのに、主よ、あなたはことごとく知っておられます。⑤あなたは後ろから、前からわたしを囲み、わたしの上に御手をおかれます。⑥このような知識はあまりにも不思議で、私には思いも及びません。⑦わたしはどこへ行ってあなたのみたまを離れましょうか、わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか。⑧わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。⑨わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、⑩あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右手はわたしをささえられます。⑪「やみはわたしをおおい、私を囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、⑫あなたには、やみも暗くなく、夜も昼のように輝きます。あなたにはやみも光も異なることはありません。」 


 詩篇139篇の1節から12節の御言です。本日はこの御言に聞きいてまいりたいと思います。なお、もともとは18節までを考えておりましたが、予定よりかなり長くなってしまいましたので、本日は12節までとし、13節から18節は次回に、第2として進めさせていただきたいと思います。今朝はこの139篇の前半から、神さまの全知について、神さまの御遍在ということについて、そして恵の契約について聞いてまいりたいと思います。


 まず、詩篇139篇は、詩篇の第五巻に含まれます。第五巻は107篇以降、最後の150篇までとなっています。詩篇は2月の月報で説明いただいておりましたが、元々讃美歌という意味です。実際にこの詩篇をもって祭儀・礼拝おいて主を讃美していたものですが、この讃美が神の言とされているわけです。つまり、この内に真理がある。正しい教理が示されている、福音があるということです。


 讃美自体、神さまの恵に対する人間の応答ですが、ここに聖霊が働かれ、御心に適う応答、信仰告白、神認識、神さまへの態度が、示されるわけであります。多くの詩篇が信仰告白として交読文にされています。


 この第五巻はその中でも、おもに「讃美について」。讃美とはどういうことか、をさらに五つの讃美で教えてくれます。5種類の小歌集がまとめられていると言えます。通じて示される原則は、ハレルヤ、これはハレル・ヤー=つまり主を褒めたたえよということですが、この讃美の源は主なる神ご自身であるということです。


① 107~118篇は  讃美は感謝である


② 119篇は     讃美は御言による


③ 120~134篇は  讃美は礼拝に伴うものである(都のぼりの詩篇)


④ 135~145篇は  讃美は神の御業からくる


⑤ 146~150篇で  ハレルヤの渦となり詩篇が締めくくられます。 


 139篇はこの4番目にあります。神の御業による讃美。最後の146~150篇はハレルヤ、ハレルヤと、ハレルヤの大合唱で詩篇が終わっていくのですが、135から145篇までは、ハレルヤを讃美するための私達の理由、神さまのいろいろな御業が、どちらかというと教理的なテーマ別に讃美されて行っていると思います。例えば137篇は暗黒の捕囚の滅びの中から、呪いの詩篇です。そこで、心の中に神さまの希望の御業があることが讃美されて始まります。また138篇は、神さまの御言の御業が讃美されます。御言の御業が私達の礼拝を生み、私達の魂に力を与え、私達を宣教に進ませるということ。その後半は、その御言による神さまの救いの御業が讃美されます。


 そうやってハレルヤの詩篇の準備がなされていきます。私達がなぜ神さまにハレルヤというのか、主を褒めたたえるのか、その理由が数えられていきます。


 139篇は、いよいよ私達の、主を褒めたたえるその源は、神さまご自身にもちろんある、ということ。そのことです。結局、そこに至る、そこに戻ってくる。私達は神さまがお創り下さった人間として、神さまご自身を知ることこそが、人生の一番大きなことのはずです。私達の人生の色々な目的がありますが、結局それらのものは、最終的に神さまを、私達が本当に知るということの中に入ってきます。他のことは尽き果てていっても、神さまを知るとういうこと。神さまの前にひれ伏して本当に神さまを知るということ、そこに真理があります。


 カルヴァンがジュネーブ信仰問答の第一問で「人生の目的は神を知ることだ」と言っていた通りです。詩篇の73篇は、他のものは全て尽き果てていっても、神さまを知ることこそが私の喜びです、といいました。ウェストミンスター小教理問答では「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」と答えています。栄光を表すために、喜ぶためにはまず神さまを知らなければなりません。箴言では「神を知ることは知恵の始め」と言われます。しかし、同時に第一コリントの1章21節にあるように人の知恵では、神を知りえないことが明言されています。即ちこの神を知るこの知恵は人間の知恵ではなく、聖霊による知恵であるということ。神を知らしめる。新約時代に生きる私達にとっては、御言をとおして働かれる聖霊が、私達にイエス・キリストを救い主として受け入れさせ賜い、そのイエス様を通して神を知らしめるということであります。それを受け入れる。


 そこで、この詩篇139篇では<私達が神さまを知るということの中で、まず「神さまが私達を知っておられる」ということを、深く知る>というところから始まります。神さまが私達のことをどんなに深く知っておられるか、ということです。


「①主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。②あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。③あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。」


 神さまが、私達を、私達の本当に全部知っておられる、全知の、全てを知られるご存在でいらっしゃるということが、ここであらためて思われます。私達の行動も、私達が立っている時も、座っている時も、全部ご存じです。私達の思いも!表れる行動だけでなく、心の思いも。神さまが遠くにおられるように私たちが思っても、全部「わきまえておられる」これは、「読み取っておられる」「悟っておられる」ということです。私達の色々な歩みや道、働きや生活も、歩くのも伏すのも見守って、全部を知り抜いておられます。ですから、私達は神さまがすべてを知っていらっしゃる存在である、ということを、私を知っておられるということを知って、御前でひれ伏して。本当に畏れてひれ伏して、そして主を褒めたたえます。ハレルヤは、私達の神さまへの畏れから、本当の神さまの前にただひれ伏して畏れる思いから、最も告白されると言えます。


 続いて4節のところから、私達の神さまが全知のご存在であるだけでなく、神さまが全てを知っていらっしゃる、その神さまご自身の知識というものの、その凄さをあらためて私達は覚えます。


「④わたしの舌にまだ一言もないのに、主よ、あなたはことごとく知っておられます。⑤あなたは後ろから、前からわたしを囲み、わたしの上に御手をおかれます。⑥このような知識はあまりにも不思議で、私には思いも及びません。」


 いつも私達が何か言う時、全部神さまが聞いていらっしゃって、そして私達を見ていらっしゃるということを覚えましょう。神さまが全てを知っていらっしゃるその知識。それを畏れて覚えましょう。私達の一言が舌にのぼる前から、もう、神さまはその意図から、全部解っていらっしゃいます。私達の前から後ろから私達を取り囲み、そして御手を私達の上において見てらっしゃいます。この、神さまが私をすべて知っていらっしゃるという、全知の神さまの知識。全知の神さまのご存在と共に、全知の神さまの知識。それはあまりにも不思議とは、私達を超えてあまりにも高くて、及びもつきませんという意味です。このような全てを知られる存在の前に、畏れてただひれ伏す。そこが私達の人生の一番中心点だということです。ただ、ひれ伏して畏れるということから、本当に主を褒めたたえるという讃美が生まれてくる、ということを覚えたいと思います。


 この139篇を含む第5巻の後半は、全体的にダビデの讃美の中から、テーマ別に取り上げてあると思います。神学的なテーマの讃美が多いです。139篇は特にそうです。7節からは神さまのご遍在、ということです。1節から6節は神さまの全知、全てを知っていらっしゃるというということで、7節からは神さまのご遍在ということを讃美して、褒めたたえるのですが、しかしこの御言を読んでみると、単にこの遍在の教理の、いわば理論、概念といいますか、それだけから讃美しているのではありません。そこが今日のところの、とても大事なところだし、素晴らしいところです。6節までのところも実は、本当はそうだったんです。神さまが全てを知っていて下さる。結局私達自身が、私達自身をまず、神さまが知っておられるということを知ることから、讃美が始まるということを先に言いましたけれど、即ち全知、全てを知ってらっしゃる、そこにもこの詩篇の御言の意味があったのです。もっと恵があったのです。それが、このあとのところで益々はっきりと出てきます。


 少し、それるかもしれませんけれども、コーネリウス・ヴァン・ティルという弁証学の学者がいます。このところは、神学的な教理的背景がある讃美だと言いましたけれど、神学館でヴァン・ティルを学んだ際は、元々の哲学的思考に加えて、翻訳の難解もあり、なかなか苦しんだのですが、ヴァン・ティルは、ここで、エシカルとメタフィジカルという区別をしています。これは哲学用語ですから、メタフィジカルというのは形而上学的な事実です。エシカルは倫理的、契約的というか関係。ざっくりいうと、メタフィジカルは頭で理解する観念、理論。エシカルは倫理。実際心に感じる、行動につながる基準、という風に考えていただければいいかと思います。少々荒っぽいですが。


 神さまのご遍在というのは、ある意味でメタフィジカル:聖書から論理的に考えることができます。神さまが本当にどこにでもいらっしゃる。ただそれは、では、神さまが空気みたいなものかというと、そうではない。神さまは超越していらっしゃいます。ヴァン・ティルは「創造者と被造物の明確な区別というのが大前提だ」というところから全てみていきますが、それはとても大事なことです。神さまを、被造物の中に神を見るということ、どこにでもいる。どこにいるかな?といって、被造物の中に見るというというのは、間違いです。どこにでもいらっしゃるということは、全てを超越した、その、霊なる神とはそういう意味です。日本人の考える霊とか八百万とは全然違います。全てを超えた、超越した神さま。ですから目を閉じるとき、そこに神さまは本当にいらっしゃいます。しかし、神さまの、いと高き御座にいらっしゃるんですが、それは我々を超越しているから、いと高きところにいらっしゃるけれど、今、ここにいらっしゃると言えるのです。それは超越しているという意味です。


 形而上学的な領域での神さまの遍在ということを考えますと、三位一体論にも関係があります。神さまは何ものにも依存しない、完全に、全て独立自存の方でいらっしゃいます。また、神さまの単一性という教理があります。神さまは単一の方である。三位一体の大前提になっています。それは被造物から全く超越した、神さまだけが最初にいらっしゃったという、そのことを表現しているわけです。その神さまの御前に出る。神さまはどこにでもいらっしゃる。そういう超越した、本当にすべてを超えた、被造物を創る前の、創造主としての単一なる、しかしその単一のうちに愛の交わりをももたれている方という神さまの御本質、意味が遍在性の背景にあります。今のところを読むと確かに神さまの御遍在のことが書かれてあります。


「⑦わたしはどこへ行ってあなたのみたまを離れましょうか、わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか。⑧わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。」


 神さまはどこにでもいらっしゃるというわけです。ですから、教理的には神さまの遍在のことを言っています。だけど、ここを読むためには、ヴァン・ティルが言うように、メタフィジカルだけではなく「エシカル」な倫理的なニュアンスが入っているのです。


 それがどこから来るかというと、恵の契約から来ています。恵の、つまり神さまと人間は特別な関係にあるのです。人間は特別なものとして創られました。神のかたちとして。だから、その神さまとの関係において、全てが創られ、保たれ、動くようにされた、これが契約です。


 この神さまの御遍在ということを考える時に、全てに、神さまの御遍在ということを、三位一体的に、深く、聖書的に考えることはもちろん大事ですけれど、ここの文脈はそれだけでは読めません。ここは、その方が私達人間とどのように関わりあっていらっしゃるか。それでヴァン・ティルは倫理的。人間にとって本当に神さまとの関わりという意味です。恵の契約で神さまが愛の基準を出されます。それに私達が従うかどうか、ということが言われます。神さまと人間との関係ということです。ここを見ていきましょう


「⑦わたしはどこへ行ってあなたのみたまを離れましょうか、わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか。」


 どこへ私は行くのでしょう。また私はのがれる。逃げればいいのでしょう。あなたの御霊から離れて、あなたの御顔から離れて。これは単に神さまはどこにでもいらっしゃるから、我々には逃げ場が無いっていうだけの事実を言っているのではありません。そうではなくて「恵」を言っているのです。


 「あなたの御霊」というのは、神さまが私達と共にいて下さる聖霊のことです。恵の契約故の。恵の救いの御霊から、離れてどこへも行けません。あなたの愛と栄光の裁きの御顔から離れてどこへも行けません。ですから、ここの「御霊から離れて」「御前を離れて」というところに、たくさん恵が入っているのです。ここに。単なる神さまの御遍在ではないのです。神さまはどこにでもいらっしゃる時に、どこでも私達と愛と恵の契約の関りを、愛の絆をもって関わっておられます。


 これは単なる遍在の理屈だけで歌われている歌ではありません。愛の恵の契約から私達はどこにも行けない、いや、どこにも行きません。そこから逆説的ですけれど、神さまの愛から逃れることなんかできません。   これは、あのカルヴィニズムの5特質、TURIPでいうところの「I」ですね。不可抗的恩寵ということになります。神さまがとらえて下さっている。だから私達はどこへも行きません。どこにも逃げられません。「逃げたい」と思うことは、罪びとだからあるかもしれないけれど、どこにも逃げられません。あなたの愛のうちにいます、というような告白です。


 このように、ここは単なる神の御遍在じゃなくて、共にいて下さるという、共在。恵の契約のうちにおかれているという告白が入っているということが見えないと、本当のこの言葉の深みが見えません。そして、その彼方に、恵の契約の履行者、完成者としてのイエス様が望まれてきます。次はさらにそうです。


「⑧わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。⑨わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、⑩あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右手はわたしをささえられます。」


 のぼっても。天に召されたらもちろん天に神さまはいらっしゃいます。それはもちろんです。しかし、その次に陰府に自分の床を設けても、つまり私が死んで死人の中にいても、神さまはそこにいらっしゃいます。つまりどこにでもいらっしゃるということを、単に譬えるために天とか地とか言っているのではないのです。これは、本当に意味があるのです。私達が天に召された、もちろんそこで神さまの救いの栄光に包まれます。だけど、死んでいても、そこにも神さまはいらっしゃるのです。「死の陰の谷を歩く時にも、」と詩篇23篇が言っている通りです。死の中でもいて下さるというところ。そこにあなたはおられるという、二つ目の「あなたは」の前に「見よ」とヘブル語では入っています。だから強調してありすま。天ではもちろんいらっしゃるのですけど、黄泉では「見よ、あなたがそこにも!」ということです。


 そして、「あけぼのの翼をかって海の果てに住んでも」ここではさらに強調されます。「そこでも」。そこでも、なんと、なお一層あなたの御手が私を導きます。「なおいっそうあなたの御手が」。つまり一番遠い、もう、全て何も関係が無いような遠い所に離れたと思っていても、なんとあなたの御手は、私をしっかりささえられます、これは「にぎっておられる」「とらえて下っている」という意味のことが言われています。


 ですからこれは遍在の教理だけではないのです。遍在の深~い、神さまがどこでも、三位一体の神さまが、私達が目を閉じていてもそこにいて下さるということは、聖書の教える事実で、それを認識するのも大事ですけれど、それと共に、恵の契約に基づいて我々がどこにいても愛されている、というエシカルな面、心に感じる福音的な面が、常にここで謳われているわけです。そして、ですから遍在の教理は、むしろ「恵の契約による共在の教理」インマヌエル(イエス様がこう呼ばれると予言されたのがインマヌエルですね)神さまが共にいて下さる、これを共在の教理といいます。遍在の教理は、神さまが恵の、共にいて下さる教理の、いまや引き立て役だ、ということができるかもしれません。


 神さまがどこにでもいて下さるということは、神さまが私達と共にいてくださるということが、どこにでもなんだ、いつでもなんだ、ということを強調する引き立て役になっている、ということです。教理、教理と言うと難しそうなことも、高野豆腐を出汁で戻すように、御言に浸して、深く御言にきくことで、本当に栄養になり、信仰の健康を支えてくれます。


 それから11節と12節ですけれどもこの


「⑪やみはわたしをおおい、私を囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、⑫あなたには、やみも暗くなく、夜も昼のように輝きます。あなたにはやみも光も異なることはありません。」


 「やみはわたしを覆い・・」「覆い」のところは「覆え」とも訳すことができます。「覆う」と「覆え」では二つ状況が違います。あんまり辛いから、「もう全部やみでおおってくれ」というくらい辛い場合。また、「ああやみが私をおおってくる」という恐怖。その両方、恐怖であるにしても、絶望であるにしても私達がやみの中に覆われていく時に、その時に「私を囲む光は夜となれ。」と言っても、つまりもう、夜は私にとっては光だ、やみはもう私にとっては、私の回りでは光になってしまっているということです。11節の「私を囲む光は夜となれ。」なんと、いっそうあなたから、もう闇も闇を生み出さない。どんな闇も闇を生み出さない。全て光になってしまう。あなたにおいて、私の中では。だから「夜も昼のように輝きます」夜は光のように輝いている。暗闇も光も同じことだ。神さまの「遍在の宣言」それがここではなされています。


 しかし、世界に神さまが遍在なさっているということは、それは恵の契約の救いがどこでも、この光のある方が私達と共にいて下さるという、この共在の、恵の契約による救いの宣言にもなっているというわけであります。


 「⑫あなたには、やみも暗くなく、夜も昼のように輝きます。あなたにはやみも光も異なることはありません。」


 神さまはどこにでもいらっしゃいます。ただ、単にどこにでもいらっしゃるわけじゃない。神さまは私達にとって、夜を闇をすべて消して光としてくださる方として、私達と共にどこにでもいらっしゃる、恵の契約によって、ということがここで謳われております。


この光のところを読みますと、おのずとヨハネによる福音書が見えてきます。1章の「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。そして8章「私は世の光である。私に従ってくるものは、闇のうちを歩くことなく、命の光を持つであろう。」


これを心に留め、思いを巡らせてまいりたいと思います。(以上:土井 浩)


 

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