世の光 イエス・キリストの約束

問い合わせ

神戸市のプロテスタント教会 日本キリスト住吉教会のホームページへ戻る

世の光 イエス・キリストの約束

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」ヨハネによる福音書 8章12節

Jn8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」 


 今朝は、ヨハネによる福音書812節の御言から聞いてまいりたいと思います。教会員の方でしたら、よくご存じの有名な箇所です。ここから、あらためてイエス様が何をおっしゃったのか、この短い1節がどのような意味をもって、私達に迫ってくるのかを聞いてまいりましょう。


 最初にまず、ヨハネの福音書は、四つの福音書の中で最後に書かれたものです。ほかの三つの福音書。いわゆる共観福音書と呼ばれる、マタイ、マルコ、ルカの福音書とは、少々趣が異なります。共観と言われる通り、ほかの三つは、イエス様のご生涯でのエピソード、場所、お話に共通した場面が大変多く記述されています。しかし、ヨハネが記したこの記録では、他の福音書と共通するエピソードが少なく、イエス様が活動された場所として、エルサレムを中心とした舞台が大半を占めています。この福音書がどのような目的で記されたか、その、おもに伝えたかったことは何であったかについて、ヨハネ自身がこの福音書の中で、簡潔に言明してる箇所があります。そこをお読みいたしましょう。ヨハネによる福音書203031節(177頁)です。


Jn20:30-31「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」


「イエスは神の子キリストと信じるため」であると、明言されています。「神の子キリスト」という場合、その言葉の中には、二つのことが言われております。一つは「神の子」、すなわち子なる神様。三位一体の第二人格であられる神としてのイエス様のご本質を表します。次に「キリスト」。これは救い主という意味ですから、何をなさってくださる方かということです。もう少し詳しく言えば、キリストとは油注がれたものを意味します。これは、預言者と祭司と王のことを指します。それも天においても地においてもすべての権威を父なる神から授かっておられる、真の最終の預言者、祭司、王としての職務を、私たち滅ぶべきものを救うために果たしてくださるお方であるということ。さらに、この救い主はダビデの子孫で、真の人であるとういうこと。これをわずかこの二言「神の子キリスト」は表現しているわけであります。


大崎先生がよく、キリストがどのような方かを覚えるために、「二性一人格、三職、二状態」と覚えなさいと繰り返しおっしゃっていたのを思い出します。最初は、良く分からず、何か少々お堅いというか、受験対策の暗記方法みたいやなぁ・・と思っていました。ところが、じつはこれ、本当に大切な教えだということを、学び始めてからやっと気づかされました。キリスト教がキリスト教であるための、本質的な教えであり、神の奥義なんですね。これを外れると異端になってしまう、ということなんです。聖書、特に新約聖書が、正典と認められて行く過程において、三位一体とともに二性一人格は、どちらもそのような言葉は聖書には出てはまいりませんけれども、聖書が教える、真に証しする事柄として、欠くことのできない内容、要素であったということ。ただ、億義ですから、罪ある人間の限られた知恵、理性では理解できません。それが聖霊によって導かれ、明かされたということも覚えたいと思います。


 


さて、この福音書ではイエス様が神の子であり、真の神であるという点を証しする出来事を多く語りながら、同時に受肉された一人の人、人間そのものであられたこと。そしてこの方が聖書、当時は聖書と言えば旧約聖書ですね。聖書に予言されたメシヤ、救い主その方であることを証しするために、その記録、イエス様の教え、御業、ご活動の記録、その証言が示されていきます。ここ、8章12節では、特に前者。イエス様が神である、ということに重点が置かれます。


 その理由は、ひとつは、この福音書でのイエス様の活動される舞台が、共観福音書と違い、エルサレム中心で聖書の知識がある、メシヤを待ち望んでいるユダヤ人、パリサイ派の学者や祭司とのやりとりが多いこと。もう一点は、当時、グノーシス主義という、キリスト教の皮をかぶった誤った教えが、すでに教会内に侵入してきていたことがその背景にあります。彼らは、ギリシア哲学や、異教の教え、伝承を取り込んで、人間の能力に頼り、キリストが神であることを否定し、三位一体の神とかキリストの二性一人格といった、キリスト教の基本的、正統的な教えを壊していました。それを同じ聖書を使って説いていたり、元は教会の役職者だったりしたものですから、教会にとっては、大変な脅威でもあったわけです。逆に、このような異端と戦うために、信仰告白や教理といったものが、聖霊の導きの元、教会内でまとめられていったといえます。ですから、この福音書では、イエス様の行われた奇跡やお言葉が、神学的な教義と密接に結びつけられています。


つまり、共観福音書では、イエス様の歴史的存在としての事実、その記録が記され、そこに教えが含まれていた。ヨハネ伝では、そこから汲み上げられた教義から、逆に歴史的なイエス様の活動を回想しているということが言えます。三つの福音書を補うために、視点も舞台も変えて、しかしイエス様の同じ教えを伝えようとしている、ということです。ですから、ヨハネ伝を読んだ方は、難しくて難解だ、と感じる方と、逆にスッキリとよくわかったと、これは素晴らしい福音書だという風に、すごくヨハネ伝を持ち上げるような傾向があるようです。これは、どちらも間違いではなくって、ただ、私たちは、やはり今私たちが手にしているこの聖書というものが、新約では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと並んできている。これは、やっぱり成立年代がどうこうとか、だれが書いた云々というより、やはり、こういう並びで書かれているという、御霊の導きそのものを、ひとつ心に留め置いて、そういう風に読んでいくことが大切なことだと思います。 


 さて、御言に進みましょう。イエス様はここで「私は世の光である」と語られました。このお言葉には、大切な、重大な意味が込められています。ただ単に、「私は、これこれこういうものだ・・」と自己紹介されているのではありません。


 その前に「イエスは、また人々に語ってこう言われた」とありますが、「語って・・言う」という表現は、日本語としては少し不自然ですね。たとえば「走って、駆け出す・・」のように、日本語としては美しくありません。ですから、最新の新改訳では「再び語られた」とだけ訳されています。新共同訳でも「再び言われた」とだけ書かれています。


 しかし、ギリシア語原文では、ここには確かに「語る」という単語と、「言う」という単語が二つ使われているんです。だから本当に「語って、言われた」のです。それも、ただ「言われた」だけではありません。この「言う」はもっと強い、「断言された」というくらい、強く明言されたことを示しています。「命令」というニュアンスも入っているかもしれません。同じように「命の光をもつであろう」というところは、未来形だから「だろう」と訳していますが、これは「多分そうなる」ではなくて、「必ず持つ」のです。新共同訳では「光を持つ」新改訳では「持ちます」と断言されています。


 


では、イエス様は何をそこまで強く断言されたか、ということをきいてまいりましょう。まず、イエス様はご自分が「光である」と言われました。この光「である」の「である」は、「エゴー・エイミ」という言葉、ギリシア語が使われています。「エゴー・エイミ」という言葉は、ご存知の方も多いと思います。出エジプト記3章14節で、主なる神様がモーセからそのお名前を尋ねられた際に、モーセに対してお答えになった、「わたしは、有ってある者」あるいは「わたしは有る」という言葉と同じ言葉であります。


 すなわち、イエス様は、主なる神様の御名「エゴー・エイミ」を名乗り、御自らが神である。光なる神である、と宣言されたわけであります。大変なことです。ですから、光なる神であられるイエス・キリストに従う者は、命の光を持つことになる、とおっしゃったのであります。これは、宣言であると同時に、「約束」という言葉はありませんが、神なるイエス様による、従う者への約束ということが言えます。


 


 この約束という点について、先ほど「エゴー・エイミ」は神様の御名であると申し上げました。これはギリシア語ですが、旧約聖書ヘブル語本文ではYHWHと記されています。ヘブル語には母音文字がありません。そのため、なんと発音したのかは定かではありません。しかも、神の御名はみだりに口にあげてはならない、と命じられた聖なる御名ですから、長い歴史の中で、いつの間にか発音が失われていきます。その代わり、「主」。あるじ、の主ですが、これを示す「アドナイ」という言葉があります。この「主」アドナイの母音を、YHWHにあてはめると、「エホバ」という発音になります。そのため、長く神の御名を「エホバ」と記載してまいった歴史があるわけです。その畏れ多さのゆえにということですが。その後の研究によって、おそらくYHWHは「ヤーウェ」または「ヤハウェ」と発音していたであろう、というのが現在の一般的見解となっています。これはクリスチャンでない方でもご存知の方は多いですね。ユダヤ教、キリスト教の神様の本当の名前を知っているよ、言う人は少なからずいらっしゃいます。


 しかし、大切なことはこのヤーウェ「YHWH」が果たして本当に神様の御本名か、と聞きましたらいかがでしょうか?実はこのYHWHという御名は、神様ご自身が名乗られたことに間違いはありませんが、いわゆる私達の戸籍に記された本名というのとは、別のものと考える必要があります。主なる神様がそのお名前を名乗られた背景の一つは、主が、モーセを通してイスラエルの民とのご契約を交わすうえでの出来事であり、そのために、人が認識できるようにお示しになられた「名」というものであるということです。そこから、このYHWHというお名前は、「契約名」とも言われております。 つまり、私たち、神様とのご契約にあずかる神の民に知らされ、命じられているところの呼び名ということができます。


また日本で「契約」というと、商業的なニュアンスが強く感じられますので、言い換えれば神さまによる「約束」、「真実なるお約束」といった方が聞こえがいいかもしれません。ただ、契約というものは原則双務的な、つまりお互いの約束が基本です。しかし、神さまとの契約は、もうどちらかと言えば、一方的な、神様からの恵みによる約束ということができます。確かに、神様は多くの恵みの約束と同時に、その民に求められることをお示しになりますが、民がそれを果たすことができないことも、ご存知なのであります。そのうえで求められ、果たせないから、更に深いあわれみのうちに救いの道をご用意下さっているわけであります。これが神様との契約の実態ですから、私たちは、できないんです。できない、だけど主は恵みの内においてくださる。だから、少しでもできる限りお応えする、これがキリスト者の生き方の原則であります。お約束下さった神様に応える生活ということであります。その原則的な規準を十戒として与えられています。


 そこで、先ほど申し上げましたように、イエス様が「エゴー・エイミ」と名乗られた際のお言葉は、イエス様が神様ご自身、さらに私たちとの契約における、真実にそれを果たしてくださる神であるということを明かされたわけであります。それゆえに、約束して下さったといこうとができるわけであります。


 


 次に、光なる神様。光は闇をてらす唯一のものであります。暗闇を明るくするものは光以外ありません。創造主なる神が「光あれ」と言われる前。光がない状態が闇でありましたから、当然であります。そこで、この光によって、主なる神様の、今や御子イエス様の光に照らされることによって、全てが明かになり、目に見え、形も意味も、また道も明らかになり、私達はその光りのうちにおかれて、初めて安全に、過たず歩むことができるようになるのであります。


 


 「わたしに従ってくる」ということは、「信じて従う」。信じていないものに喜んで従う者はいません。イエス様こそ神の子メシヤ、救い主と信じて従うのです。そうすれば「やみのうちを歩くことがな」いとおっしゃいました。この「やみの内を歩くことがない」という部分。新改訳だけは「決して」ということばを最初に入れています。「決して闇の中を歩くことがなく」と。ほかの訳にはありません。なぜならギリシア語の原文には、「決して」という単語が記されてないからです。ではなぜ、新改訳が「決して」という言葉を付け加えたかと申しますと、ここでイエス様がおっしゃられた、「歩くことがない」と言われた「ない」は、未来形の、強い否定を表すことばを使われています。未来において「決して、ない。」、「断じてそのようにはならない」と、はっきりと断言してくださっているわけであります。真実なる神であるイエス様の断言ですから、これはもう間違いのないお約束として、こんなに安心、確実なことはないわけであります。前回も取り上げましたが、カルヴィニズムの5特質、TURIPでいうところのP、(Perseverance of Saints)聖徒の堅忍、または聖徒の保持ということが言えると思います。


 


 それでは、「闇」とは何を指しているかを、御言にききましょう。この箇所の後、9章の概要を申し上げますと、生まれつきの盲目の人の癒しの奇跡が記されています。イエス様が、唾で泥をこねて目に塗られ、それをシロアムの池で洗うと、生まれつき見えなかった目が開かれ、見えるようになったという奇跡の記録です。ここでは、イエス様によって目を癒され、光を与えられた人が、イエス様を救い主として受け入れ信じることを告白します。しかし、それを見聞したパリサイ人や祭司たち。自らを神の選びの民と自認し、その律法を守る者で、救われるべきものと思い込んでいた人々は、これを受け入れません。イエス様のことば、教えを耳にし、またその御業を目の当たりにしても、これを信じることができませんでした。


すなわち、霊的な盲目の状態、闇の内にあるということです。まことの神の御心を知らず、また目を背けるものは闇の内を歩んでいる者であり、なおそれに気づかないため、歩き続けざるを得ないのであります。その行きつくところは永遠の死の闇ということになります。 聖書を一カ所参照いたしましょう。マイによる福音書の8章11節~12節(新約聖書11頁)です。


Mt8:11-12「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」


 この、外の闇に追い出されて泣き叫ぶという表現は、同じマタイによる福音書22章13節の、王の婚宴の譬え話、さらに25章30節の良い僕と悪い僕の譬え話でも繰り返されます。つまり、闇とは、天の食卓を追い出された状態、主なる神さまとのつながりが断たれた状態のことを表しています。罪と呪いの中ということですね。さらにヨハネによる福音書9章の41節(155頁)で、パリサイ人らにイエス様はこう言われております。


Jn9:41「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」


 ただ、私たちもみんなそうなんです。全ての人間は、この世は、この闇の中を歩んで、ついに永遠に闇に落ち行くものである、ということを忘れてはなりません。ただ主なる神の愛、憐れみにより、御子イエスの十字架の贖いによって、聖霊のお働きに導かれて、イエス様を救い主キリストと信じる信仰を与えられ、キリストに従うことで、光のうちに迎えられ、御国の、永遠の命の約束をいただいているわけです。しかも、もう決して闇の内を歩くことはないと断言して下さっているのです。この恵を覚えましょう。


 「闇、罪、死」という表現と「光、救い(恵み)、命」というこの二つの対比は、聖書のあちこちで出てまいります。


神様との繋がりにおいて、関係において、その外と内ということの譬えです。


 


続いて、また、イエス様はただの光ではなく、「世の光」 とおっしゃいました。語られた場所はエルサレムの神殿で、相手はユダヤ人の律法学者パリサイ派の人々でした。ヨハネ自身も彼らのことを強く意識して、キリストを証しするためにこの書を書いたと言われています。メシヤ、というヘブル語の救い主という言葉が使われているのは福音書ではヨハネだけです。しかし、イエス様は、もはやユダヤの、イスラエルの救い主ではなく、世の光。全世界の、天の父がイエス様に与えられた全ての者の贖い主であり、救い主であることを宣言されたわけであります。


 


このように、光のうちを歩く恵みを与えられた私たちを、イエス様はマタイによる福音書の5章14節(6頁)で、このようにおっしゃいました。「あなたがたは、世の光である」と。


世の光であるイエス様が、私たちを「世の光」とおっしゃたのです。私たちは、今や、光の源であるイエス様に繋がることによって、あたかも電球がコンセントに繋がれたように、光を放ち、その源を示すことができる。示す、そのような意味が、使命が与えられたわけであります。私たちは、電球は電源がなければ役に立たず、どうしようもないものです。今のLEDの時代、電球というものもあまり見ないですね。子供なら、この丸いガラスは何?って捨ててしまうかもしれません。しかし、そのような電球も、LEDも同じです。イエス様との結合により、イエス様に繋がることで、その存在の意味がわかり、造られた目的もわかります。命の光を放つ、それは神の栄光を表すということです。


更に例えを加えますと、電球は自らコンセントに繋がることはできませんね。電源から繋がれるコードが必要です。聖霊がこのコードの役目を果たして下さるわけです。聖霊によってイエス様に繋げられて光を放つ。周りを、未来を照らすことができる。イエス様の光によって、ということであります。そしてこの、光を、決して枡の下に置くものはいない、といわれたように、この光であり命であるイエス様の光を、高々と掲げて、歩むことができますように。私たちはなお罪深く、弱いものでありますけれども、御言によって、また御霊が支えて下さって、そのままに用いて下さってイエス様の光を人々の前で輝かせてくださいますよう、祈るばかりであります。 


8:12『イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」』


まことの、真実なる神、イエス様の、「決して闇のうちを歩くことがない」とのお約束に信頼して、私たちも伝道の御用が果たせますよう、一層の上からのお導きを祈ります。(以上:土井 浩)

2020年度 メッセージ一覧

キリストによって自由になる

■「キリストの言葉にとどまる」ことが、私たちに真理を知らせます。この真理は、私たちを「自由」にするも…

明星は地の底に輝く

■クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だということは誰もが知っています。しかし実際、いったいど…

月報2020年12月 【助けは天地を造られた主からくる】

◆詩篇121篇 都のぼりのうたと呼ばれる詩篇集から。本当の助けはどこからくるか、という問いへの真実な回…

待ち望まれるもの

■クリスマスを目前にした今朝。紀元前700年以上前に記された、旧約聖書「イザヤ書」から、やがて実現した…

救い主の系図

■新約聖書は「マタイによる福音書」で始まります。そしてその第一声は「アブラハムの子であるダビデの子、…

みめぐみは彗星のように

■◎旧約時代最後の預言より数百年。ユダヤの民は約束の救い主を待ちながら生活を重ねていました。ある日、…

聖霊の証印

■神様の言葉である聖書で、神様はご自身について「三位一体」の神であることを明示してくださっています。…

月報2020年11月 【キリストによって自由になる】

■福音の真理を知り、キリストを信じる者は「本当の自由を得ます」。信仰を持つことは、何か不自由で、窮屈…

示された奥義

■先週に続いて、エペソ人への手紙1章から聖書に聞いてまいります。ここでは「神様のみ旨の奥義」がすでに…

神のご計画

○エペソ人への手紙第1章から。本書間のテーマである教会について、まずはその元である一人一人の選びとい…

落ちた先の世界

■私たち人類の祖アダムが神様の命に背いたことにより、神様との本来の交わりを失った人間は、どのような者…

走りながら聖書をよめ

■本日は「宗教改革記念礼拝」として、その理念である「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」ということにつ…

月報2020年10月 【キリストのもとに生きる平安】

◆新型コロナウィルスによってもたらされた、世界中の社会の混乱と変革。その中で、私たち多くのキリスト教…

裁きに示される愛

■創造主なる神様は、人を置き、治めさせ、神の栄光が顕されるよう、世界を創られました。しかし人は神様の…

み言葉の力

■詩篇の第五巻では、私たちがなぜ主なる神を褒め称えるのか、その理由を教えられます。138篇では「み言」(…

礼拝がささえる社会

■教会で行われる礼拝、またそこで告白される一人一人の信仰は、現実の社会を支える公的な事がらで、ただ個…

礼拝のよろこび

今朝は詩篇100篇より礼拝で求められる3つのこと、①喜び②知識③感謝について示されています。特に王である主…

捧げる恵み (2)

※「捧げることは、神さまから与えられた恵みである」9月6日に続いての第2回です。

月報 2020年9月号より 【主なる神が共にいて下さる】

◎2020年9月号月報では、7月から8月にかけて、礼拝で2回に分けて行った詩篇139篇を取り上げました。礼拝で…

弱さを誇るキリストの僕(しもべ)

■使徒パウロは、ここで自らを僕(しもべ)であると宣言しています。しもべであることは、決して誇れる身分で…

捧げる恵み ~振起日礼拝 ~

■様々な問題を抱え、パウロの心配の種となっていたコリントの教会が、悔い改め、キリストにある絆を告白す…

キリストの愛に生きる

■説教 「キリストの愛に生きる」ピレモンへの手紙8〜20節 (滝田善子 教師) ★この書簡は、パウロから弟…

今は恵みの時

■説教「今は恵みの時」~コリント人への第2の手紙 6章1節から10節~ ■「見よ、今は恵の時、見よ、今は救…

月報 2020年8月号「キリスト者の生活の指針」

【 キリスト者の生活の指針 】

キリストにより新しくされる

「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」 コリント人への第2の手紙5章17節の、有…

世の光 イエス・キリストの約束

☆この聖書の短い1節で、イエス・キリストは本当に大胆な宣言をなさいました。しかし、このご発言は私たち…

神はあなたを知っておられる(2)

前回、詩篇139篇の前半から、私たちの、主を褒めたたえるその源は神さまご自身、特にその御業によるという…

神はあなたを知っておられる

■詩篇139篇は、詩篇の第五巻に含まれます。詩篇とは元々讃美歌という意味です。実際にこの詩篇をもって祭…

あなたはどこにいるのか

■要旨 人が神の命に背き、罪を犯した結果は、悲惨なものであった。彼らは神のように賢くなりたいと、禁断…