今は恵みの時
6:1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
6:2 神はこう言われる
「わたしは、恵の時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。」
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。
6:3 この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持っていないようであるが、すべての物をもっている。コリント人への第二の手紙 6章1節~10節
■説教 「今は恵みの時」
今朝は、第Ⅱコリントの6章より、主に救われ、新らしくされた、新たな命をいただいたもの。即ち主の民、その使徒はこの世とはどう異なるのか。またその心得を聞いてみたいと思います。
まず、第1節から第2節。
6:1 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」
6:2 「神はこう言われる『わたしは、恵の時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。』
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」
本日の6章の前半は、通して読みますと、まことに慰めと励ましにみちた、力づけられる御言であります。
しかし、細かく見ていきますと「これはエライところをえらんでしまったなぁ」と、思わず、一瞬、結局一晩ですが頭を抱えてしまいました。と申しますのも、この最初の2節には、どちらも神学的な解釈が確定していない、説が分かれる部分が含まれているのです。
そこで、2節から見てまいりましょう。「神はこう言われる『わたしは、恵の時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。』」と、ここでパウロが引用していますのは、イザヤ書の49章8節です。
イザヤ書の49章は、50章や52章と同じく「しもべの歌」とよばれているところです。主なる神の「しもべ」ということですが、ヘブル語で「エベド」と言います。この「しもべ」という言葉は、イザヤ書全体では40回使われているのですが、40章から53章で20回使われる主の「しもべ」が、だれを指しているのか、ということについて、実はいくつかの説があって定まってはいません。イザヤ書全体が、メシヤつまり救い主の予言の書ですから、この「しもべ」はキリストを指している、というのが教会形成後の伝統的な見解です。ルターも同様です。しかし、54章以降では複数形になっていたり、しもべが罪を犯すなど、ほぼイスラエルの民を示していると思われるような、前後の文脈から、それだけではないのではないか、という問いかけがいつの時代もありました。現在もです。
これを、E.Jヤングは次のように解釈しています。ヤングという方は、神学館で旧約緒論を学ぶ際のテキストになっている学者で、非常に福音的で、批評学や科学主義、自由主義への有力な弁証家でもあり、まことに信仰的な基盤の固い方です。そのヤングの説明では
「しもべはメシヤ=イエス・キリストであるが、それはその民なる教会(または贖われたイスラエル)の頭(かしら)と考えられている。ある場合には体の方が前面に現れてきており、他の場合には頭について強調されている。」ということになります。私もこの見解を採用することが、最も旧約および新約聖書、特にこのコリント人への手紙においては、最適であると思います。なぜなら、第一コリントの第一のテーマは、前にも申し上げましたように、「キリストにある教会の一致」ということになります。そこでは、キリストを頭とした体なる教会、その各部分、手足である信徒の賜物に応じた役割や、それらが有機的なつながりの元、キリストとつながった一体のものであることが繰り返し教えられます。第2の手紙では更に、悔い改め救われたものがどのような信仰生活を送っていくことになるのか、その恵と具体的な指導がなされます。
そのため、この引用をヤングの解釈で読んでまいりますと、ここでパウロが、このイザヤ書49章、主のしもべの歌を持ってきたことが、大きな意味を持ち、同時に書簡全体の教えに旧約聖書からつらなる統一感をもたらすように感じます。さらに言えば、普通なら使徒や牧会者に向けられるような詩篇を、教会全体に送っています。これは、その賜物や務めが違っても、一人一人は全て変わりなく主のしもべであり、役者であることを伝えようとしています。
また、それと同時に、もう一つの神学的問題にも、光を投げかけています。その問題は、第1節。
6:1 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」
この、「神と共に働く者」という御言。この部分は、原文には「神」という言葉は書かれていません。ただ、「一緒に働く」「協働」する者という単語だけです。では誰と共に働くか、ということで「神」と加えられています。ほぼどの訳でも同じです。何故かと申しますと、その主な根拠は、第1コリントの3章9節にあります。そこを見てみましょう。新約聖書の259頁、1行目です。
Ⅰ3:9 「わたしたちは神の同労者である・・」
この「同労者」という単語が、6章1節の「共に働く者」同じ言葉で、しかもここでははっきり「神の同労者」と言うように、「神の」。ギリシャ語で「セオゥ」。神、セオスの属格です。が、はっきり記載されています。しかし、文脈などから、これは「神ではなくキリストを指す」とか、「あなたがた」即ちコリントの教会の人々を指す、といった意見もあります。主流は神とされますが、黒崎幸吉先生等は、後者、「あなたがたを」とっておられます。ここでは神の同労者と言うより、神の使徒、役者の意味が強いという理由ですね。
ここで、この「共に働く者」という単語を見てまいりますと、「だれそれと共に」という意味と同時に、「誰それのために」という意味も含まれています。新改訳、新共同訳では第Ⅰコリントの3章9節を「神のために働く者」としています。新共同ではだ第Ⅱの6章を「神の協力者」と訳していますね。
そこから考えますと、私たちは、主なる神の憐れみに満ちた選びの元、聖霊の招きによりイエス・キリストに救われた者、御国の民として、主の栄光を表すために生きる、と言うのが第一の目的です。自分中心ではなく神中心、自分の為ではなく自分の代わりに死んでくださったキリストのためですから、この「神と共に働く」というのは、いわゆる会社の同僚や、仕事仲間というのではなく、神に仕え、神に従うものとして共にこの世での働きを担っておる、ということであります。ヤングの説明をもとに考えますなら、それはキリストを頭とする体なる教会全体。その、一つ一つの肢体であるところの私たち全てが、神の僕であり、共に働く者と言うことであります。
そして、パウロがそれらの者に勧めたその働きが、1節の後半。「神の恵みをいたずらに受けてはならない。」と言うことであります。
「いたずらに」といいますのは、「無駄にしてはならない」と言うことであります。悪さをするいたずらではなく、徒労に終わるとか、徒に時間をかけると言うように、無駄にするな。特に、恵を無駄にするなと言われておることは、恵は無駄になるほど、多い、たくさんの恵が与えられておるということであります。昔は食べ物を残すと、「もったいないことするな」「無駄にするな」と叱られました。嫌いなもの残すんやったら、好きなものも食べたらあかんとかですね。私は、父方の祖父母が農家で、小作でしたから、父たち兄弟を育てるのに苦労したようで、よく祖父母にそういわれました。それでもいまだに、実家で作っていた椎茸は食べられませんけれど。
話を戻しますと、そのように豊かな恵みを、恵は溢れるんだから、無駄にしないで分け与えなさい、と言うことです。御言の恵、救いの恵です。持っていない方に分け与えて無駄にするなと言うことが勧められているわけです。
5章11節「わたしたちは主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める」 同じく19節~20節「わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」
これら伝道の教えから繋がっています。教会には、御言を独り占めして無駄にしない、分け与え発信する使命が与えられておる。そのために教会はすべての人が、キリストにあって愛によって互いにいたわりあう、一つ体であるということであります。
次に進みましょう。第2節
6:2 「神はこう言われる『わたしは、恵の時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」
今は恵みの時、今は救いの日である。これは、先週述べましたように、私たちはすでに新しくされておる。この世の基準、肉的な知識、差別、また神の御前に罪過から解放されて、自由に神に従うものとされている。キリストの民として、御国と永遠の命をいただいておるのですから、既に。ですから、新しくされて以降、私たちの生きる人生は、常に恵の時であり救いの日であるということを、もう一度心に刻みたいと思います。昨今は、コロナ災害や自然災害などで、混乱した世の中で人々が不安の中にありますけれども、キリスト者にとっては、いつも恵の時であることを覚えたいと思います。
今までの時代もそうでありました。私は戦争というものを存じ上げませんが、戦争中は恐らくもっと大変な日々であったろうと思います。医療が発達していない時代は、コロナどころかもっと大変な疫病で、それこそ数え切れないほどの方が亡くなっています。さらに昔は、もっと人間の命が軽んじられ、迫害があり、排斥があり虐殺が歴史に残されています。そのような時代のどこにおいても、世々のキリスト者には恵の時であった、ということを2000年前のパウロの手紙から、御言から覚えましょう。
それは、御国のと言うだけではなく、この現実の世の全ての権威が、私たちの頭。主なるキリストにあり、実際にご支配されておるという事実を知らされておるからであります。
そのような私たちキリスト者の生きる姿、また目指す姿を聞いてまいります。3節から8節の前半。
6:3 この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。
この務めとは、神のために、神と共に働く、その栄光を表す務めですが、その為にここでは、4節から5節で9つの苦労、困難が示されています。4節の「極度の忍苦にも」という翻訳は正確ではないです。正しくは、「極度の忍耐によって」であります。信仰によって与えられるところの、主の支えのみが可能とするところの「大いなる忍耐によって」あとの9つの試練を、耐え忍んでいるということであります。人々に躓きを与えない、つまり罪の機会を与えないためにです。
9つの試練は、まず一般的困難である「患難」「危機」「行き詰まり」、次は迫害を示す「むち打ち」「入獄」「騒乱」。そして、個人的な「労苦」「徹夜」「飢餓」。このようの考え得る限りの、あらゆる場面での困難に対し、神の僕たるキリスト者は、大変な忍耐をもって立ち向かっておると言うのであります。このような困難に立ち向かう術、武器を与えられておるからであります。それは、6節、7節。
まず「真実」と「知識」と「寛容」。次に「慈愛」と「聖霊」と「偽りのない愛」。そして「真理の言葉」と「神の力」と「左右に持っている義の武器」
このように、9つの困難に対する9つの知恵。信仰により御言を通して御霊によって与えられるところの武器が、備えられているわけであります。私たちの力ではなく、信仰による力、これを必要な時に賜われますよう、御言に聞いて祈り求めることが大切なのであります。一つ、心にかけたいことは、9つの武器、心得と言ったほうがいいかもしれません。その最後の「左右にもつ義の武器」以外の8つには、ギリシア語原文では前置詞として「何々において」を意味する「エン」という言葉がついています。しかし、最後の「義の武器」の前についているのは「ディア」。「何々によって」という意味です。これは8節の「ほめられる」「そしられる」「悪評を受ける」も「ディア」がついています。これは、信仰における霊的な戦い、サタンとの戦いを示唆しています。この世的な困難との闘いだけではなく、キリスト者には必ずこのような、悪魔との霊的戦いが避けられないのであります。当然、サタンに逆らいキリストにつくものにはそれがついて回ります。キリストにつながっていなければ、戦いであることすら気づきません。もう取り込まれているわけでありますから。
しかし、キリスト者はこのサタンの挑戦に気付き対抗することができるわけであります。ですから、先にあげました9つの武器は、全て主が示されたところの霊的な武器であり、これを賜ることができるということ、これを心に留めたいと思います。
つづきまして、8節後半から10節。
6:8・・わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持っていないようであるが、すべての物をもっている。
ここには、本当に大きな慰めと励ましがあります。どこか、イエス様の山上の説教と似た趣を感じます。
「悲しんでいる人はさいわいである。かれらは慰められるであろう」
ここでは、さらに進んで、キリストによって新しくせられた彼の民は、既に真実であり、生きており、殺されず、喜んでおり、多くの人を富ませ、すべての物を持っている、と断言されているのであります。
この世的には、確かに、だれにも評価されなかったり、仕事がうまくいかない。病気がちで苦しいとか、愛する者との別れや、そのほか悲しいことが多くありますし、裕福でなく乏しい中で労苦されることも多いです。しかし、キリストの僕、即ち主のしもべのしもべには、その御用があり、また天国の希望と喜びが、真実なる神様によって約束され与えられています。さらに、一見苦しいこの世のひと時も、そのすべての時において、主のご支配の内にあり、共にいて下さることを知っています。そのようなものにとっては、何も持っていないようであっても、やはり全てを持っているのであります。この世の人の持てるものには限りがあります。たくさん持っていても、倉庫に食物をため込んでいても、明日召されるというのです。
しかし、天に蓄えた宝は減ることも尽きることもありません。地上のものがいずれ全てむなしくなる時に、本当に私たちを満たしてくれるものは、天の祝福であり神の愛であります。私たちは、この世の評価、人間中心の、肉的な評価と、永遠の滅びから解放され、逆に永遠の希望の内に、イエス・キリストを証しして生きてゆく幸いが与えられているということであります。
最後に、パウロが「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」と「今」を強調し、主の御用に励むよう勧めた理由も覚えたいと思います。
それは、先ほども申し上げましたように、私たちはいつ召されるかわかりません。また、イエス様のご再臨、即ち最後の審判の日がいつやってくるのかも、知ることができません。これは神さまの秘められた奥義であります。また命に関してもそのご主権は全て主なる神様がお持ちであります。イエス様がよく、目を覚ましていなさい、と仰ったのはこの事であります。ですから、私たちは、いつその日が訪れてもいいように、イエス様にしっかりと繋がって、地上の信仰生活を歩んでまいりたいと思います。(以上)
(土井浩 牧師)