弱さを誇るキリストの僕(しもべ)
11:21言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。
11:22彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。
11:23彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。
11:24ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
11:26幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
11:28なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
11:29だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。
11:30もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
11:31永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。コリント人への第二の手紙 11章21節から31節
<もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。>
コリント人への第二の手紙、11章30節の御言であります。
弱さを誇るとは、どういう意味でしょうか。世の中では通常、人が誇るべきは、その秀でたところであり、功績であり、外見や能力、豊かさや、権力、人脈といった、その強さにあります。
しかし、パウロは逆に自らの弱さを誇るのだ、と言っております。もし、誇らねばならないとしたら、
いう前置きのもとです。もう一点、心に留めたいことは、パウロは17節でこのように言っています。
<主によっていうのではなく、>と。イエス様の御言や御霊の言葉ではなく、パウロの個人の信仰からくる言葉であるということです。
一カ所聖書を引きます。新約聖書263頁、第一コリント、7章の10節です。
<命じるのは、わたしではなく主であるが>もう一カ所同じく7章の12節
<これを言うのは、主ではなく、わたしである>
このように、福音書のようにイエス様ご自身が語られた御言と、イエス様の霊によって語るべき言葉を導かれている場合と、自らの個人的信仰に基づく言葉を明確に区別して語っています。
ここでは、主が語られたことではないが、パウロのまことの信仰から出てくる、証しであり、奨励の言葉であるということです。これもまた、その信仰の真なるがゆえに、聖書として、神の御言として私たちに与えられた教えであります。
では、なぜパウロが主イエスの言葉ではなく、わざわざ自らの言葉として語ったのか。それは、第二コリント10章の7節に<あなたがたは、うわべのことだけを見ている>あるとおり、コリントの教会の一部の人たちが、まだパウロをこの世的な基準で、すなわち肉によって推し量り、軽んじ、批判していたからであります。そうして自らの肉的な強さを誇っていた、ということが分かります。
そこでパウロは、彼らが、パウロの霊的な指導に耳を貸さず、そこまで言うなら、同じ土俵で勝負というと、あまりいい表現ではないかもしれませんが、分かるように証しするために語っている、さらに言えば逃げ場を与えず、諭しているわけであります。しかし、目に見えるこの世的な事柄においても、その判断、評価はあくまで霊的な、イエス・キリストを唯一のまことの救い主であるとの信仰に基づく霊的な基準ということが言えるわけであります。
さて、本日のところを読んでまいりますと、使徒パウロはここで、キリストの福音を宣べ伝えるために、いかに労苦したか、どのよう困難の中を歩んできたかを語っています。そして、その理由は、自分がキリストの僕だからである。キリストの僕だ、ということを宣言しています。この、自らの弱さを誇るという、キリストの僕である、使徒パウロ言葉を味わい、ここにどれだけ大きな慰めと、励ましと、そしてまた、謙遜とが含まれているか、ということを聖書から聞いてまいりたい思います。
22節から23節の前半までをお読みいたします。
<彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。>
ここでパウロは「キリストの僕である」ということを、非常に強調して、光栄であるというように考えていることが分かります。 「僕」という言葉、あるいはそのような身分と言いますか状況は、だれが聞いても好ましくない言葉であります。民主主義、個人の平等が当たり前に唱えられる現代ではなおさらです。「自分は誰それの僕だ」とか逆に「誰それは自分の僕だ」と言うと、これはいじめだ、パワハラだ、人権侵害だ、ということになってしまいます。しかし、パウロはこの「僕である」ことに、非常に喜びと誇りとをもって語っています。なぜならば、「僕」は「僕」でも、「主イエス・キリストの僕」だから、であります。
私たちも、また世の中の人々も、「自分は僕だ」と誇ることができるでしょうか。僕だという時は、自虐的な言葉として、あるいは冗談として受け取られます。大抵は「自分は僕などではない」と言うでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、気づかないうちに何かに囚われていないでしょうか。僕になっていないでしょうか。職場であれば、一時的な関係として上司と部下、雇い主と従業員といったこともありましょう。その関係はお互い意識しております。しかし、僕でありません。気づかずなっておる僕の方を恐れる必要があります。この世の、限られた自分の世界の狭い常識、誤った、あるいは過ぎた公共性、自らの欲望、まことの神を知らない、背を向けたところの、過った人間中心主義。色々考えられます。
これを考えますと、パウロが、自ら「キリストの僕」である、と断言することができる、このことはキリストを信じるクリスチャンにとっては、間違いなく大きな喜びであり、誇りであります。他の何者でもない、まことの神、この世のそして御国の全ての権威を父なる神から授かっておられる、まことの王である御子、イエス・キリストの僕であるからであります。
ローマ人への手紙の書きだし、1章1節には
<キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて>と書いてあります。
私たちには、神さまの恵みにより、一般恩恵のもとに色々な賜物、職業やまた趣味や特技を与えて下さり、また家族や友人などを与えて下さっております。これは、主なる神様の、私たちに対する、限りない、大きな恵みでありますが、でも、本当の中心は、主なることは、私たちクリスチャンは、キリストを救い主、「主」として信じています。キリストの十字架の贖いによって救われ、この世の。やがて滅ぶべき者の内から選び出されて、神の者、御国を継ぐものとせられたという、この大きな命の救いによって、私たちは「キリストを主」あるじ、と仰ぐところの僕とされておる、また同労者ともせられたという事実が、私たちの特権であり、喜びであります。
パウロは、このことを強調して、誇りとしていたのであります。もう一カ所聖書をひきましょう。
新約聖書300頁です。ガラテヤ人への手紙6章の17節です。
<だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから>
イエスの焼き印、焼き印ということは、家畜であれば所有者を示す印です。人間であれば、これは奴隷ということであります。人や他の何かではなく、キリストの焼き印を身に帯びて、僕どころかキリストの奴隷とされている。だから、あなた方も既にまことの救い主、キリストを信じる信仰によって救われているのだから、今さら律法主義やら偽教師やら、この世の評価とか、ごちゃごちゃした一時的な価値なきもののために、煩わせて欲しくない、ということをパウロは言っています。
私たちは、今、この世におかれており、家族を養ったり、養われたり、学生であったり、会社を経営したり、雇われる身であったり、あるいは技術者や、教師や、芸術家でもあるかも知れません。しかし、それ以上に、その前に本当に自分は「キリストの僕」である、という光栄をどれだけ心の内に抱いているでしょうか。
本日の御言から、私たちはそのことをもう一度、こころにしっかり覚える必要が教えられます。確かに世の中には、たくさん素晴らしいものがあり、人々が褒めてくれたり、賞賛や報奨があたえられたり、また喜んで、感謝されたりするかもしれません。しかし、本当に光栄なことは、私たちが「キリストの僕」であるということであり、それ以上の光栄はありません。なぜなら、この私を、キリストを信じる信仰によって、永遠の滅びの淵から、神の御国に入れ、暗闇の権威から光の内に移し、そうしてひと時のこの世の生涯ではなく、やがて来たる御国においてその民として永遠の命を賜っているという、この「キリストの僕」であること以上の恵みと光栄はないのであります。このことを、もう一度覚えたいと思います。
ですから、主は、いついかなる時も私たちの味方であり、その御手で支えて下さるのであります。なぜなら、私たちは主ご自身のものだからであります。主がその血を流されて、命をもって買いとられたものだからであります。
御言にもどりますと、それでパウロは23節の後半からにありましたように、その僕としての証明として
<23苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。24ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。:6幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。28なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。>
一言でいうならば、キリストの福音の伝道のために、これだけの労苦をした、と言っているわけです。パウロは別に苦労自慢しているわけではありません。へブル人だから、イスラエル人だから、アブラハムの子孫だからといった、この世的なうわべで自らをキリストの僕と誇るのなら、先に同じ土俵でと言いましたけれど、そのキリストの福音のためにこの世で自分ほどの労苦をしているのか、と問うているわけであります。
私たちは、幸いにも、幸いかどうかは別にして、神の恵みと摂理により、おそらく、神のご配慮と摂理によりまして、パウロのような苦難、患難をキリストのために受けるようなことはなく、同時にそれはパウロのごとく、キリストのために労する事もしないで、神の御国に向かって歩むことが許さております。今のところ。これは会の大きな恩寵であります。わが国でもつい7~80年前は、いわゆる憲兵の取り調べを受けたとか、弾圧や圧力がありました。今でも国によっては同様の迫害が存在します。
その中で、私たちの心の内で、本当にキリストのために、いざという時。「有事」とか「緊急事態」とか世の中ではいろいろありますけれども、キリストの教会、また私たちの教会の有事の際、キリストの御用があるなら、私たちはパウロのように、キリストのために労苦することをいとわない、という決心を、礼拝において固めなければなりません。そうするなら、日常でどんな労苦があろうと、私たちはそれを超えていくことができます。御用には召しがあり、召された以上そこには主の測り知れない御計画とお導きがあるからであります。
自分のために、さまざまなこれから労苦をしなければならない、ということは、これは神さまのお許しの内に、時には許されることでしょう。あるいは時には許されないこともあります。しかし、これらがどうであろうと、キリストのために労苦するということは、キリストの僕であるなら当然のことであり、それは喜びである、ということであります。
では、具体的にパウロはどういうことかと言いますと、28節の後半に、
<日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。>と言っています。具体的に、主の諸教会のために、彼はいろいろな労苦をしていたということです。ピリピの教会の不和、コロサイ教会への異端の侵入、エペソ教会での様々な教えの風に揺れ惑う信徒、ガラテヤでは所謂ユダヤ主義、律法主義に対して、コリントにおいては教会の不一致や、偶像礼拝、不道徳な行いなど、これらの指導のために、パウロは様々な苦労をしていました。
今、私たちは、与えられたこの教会のために、労苦して、礼拝をしていますが、この背後にはだれもがそれぞれの労苦と、戦いとを背負っているわけであります。
また、私たちの地上の生涯においては、誘惑という、恐ろしいものがあちこちで口を広げています。キリストの民をキリストから離そうとする、サタンの攻撃が、常に教会には迫っています。これとの戦いに、皆がさらされ、労苦しているのであります。
ですから、この、人が、この世の人が考えているようなものではありません。註解者はこのように言っています「いったい、教会のご用は、私たちがいかにものんびりと暇つぶしのつもりでできるようなことではない。それどころか、先の言葉にもあったように、真のご用をする心があるなら、教会のご用は辛く、厳しいところの戦いである。なぜなら、サタンは常に内から、私たちの信仰を妨害し、いかにもキリストから引き離そうとして、できる限りの力を尽くして向かってくるからである。」と。
この事実、この状態の中で、私たちが信仰生活を送ることができていることは、これは本当に大きな神さまの恩寵であります。一つ何かが狂えば、健康を大きく害したり、今回のコロナのように環境がパッと変わったり、個人的にも仕事や家族関係に変化が起きたりすることで、私たちは、その信仰生活にすぐ狂いが生じやすいものです。そのようなことが無いように、私たちは、一人一人が祈らなくてはなりません。み言に聞いて祈る。これは、外の人が思うように、教会に行って、余裕があるなぁ、平和やなぁ、時間がるんやなぁ、と言うようなのんびりと暇つぶしのようにできることではありません。
私自身は、学生自体はそうでした。時間がありましたし、まだ良く分かっていないことが多くありましたから、基本的に教会は平和なイメージですから。それもまた真実な面ではありますけれども、ただそれは、私の知らないところでの、多くの兄弟姉妹の祈りと、戦いの内に保たれていたのだということが、ずっと後に、少しずつ分かってきます。自分は、まだ若くのんびりとしていましたけれど、多くの兄弟姉妹は決してそうではなかったはずです。一人一人の戦いと、献身と、祈りと、そして何より主の恵みによって支えられ、導かれていたということであります。
ですから、この素晴らしい主の恵みを、決して空しく、徒に受けることなく、私たちは自ら集い、祈り、また伝道のご用のために、人々に御言を届け、誘うことができますように。
使徒パウロは、23節で
<彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。>と、こういうように、「キリストの僕」であることの非常に大きな喜びと、力とを示しました。続いて、29節から30節を見ていきますと
<29だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。30もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。>
ここに、使徒であるパウロの弱さ、というもの。<だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。> 自分は、本当は十分に弱い。誰かが、もう好ましくないことをした。本当は、自分も神の恵みに支えられなくては、同じようなことをするような弱さをもっている、ということを分かっています。パウロは、神さまの御前に、自分の力と、そして努力を誇ったのではなくて、むしろ弱さを誇った、ということを、本日は噛み締めたいと思います。
世の中の価値観、評価、強さは一時的でどんどん変わっていきます。誇っていたはずのことが、いつの間にか逆に恥になる。また、誇っていたことが、一瞬のうちに取り去られてしまう。そのように、この世は一時的な、うわべの、恵により与えられているに過ぎないものを、預けられているだけの賜物を自らのものとして誇り、また称えます。
最近の学生のスポーツを見ていたら、試合に勝ったら、みんなで集まって一本指を高く掲げて喜んでいます。あれは、自分たちがナンバーワンだ、という意味ですね。しかし、彼らが真似をしているのは、海外の一流のプロ選手たち、南米系に方に多いですが、そのポーズで、それは、栄光を天の神様に帰す、という意味のポーズですね。自分の活躍は自分の栄光ではなく、神さまの賜物だという告白です。残念ながら日本の若者たちには、それが分からない。でもかっこいいから、やりたい。結局自らが一番、となっているわけです。
しかし、聖書はそうではない。キリストの僕として、主の御栄光を表わすように言っています。それこそが私たちの、真の喜びであると。だからパウロは、自分のことについては、その弱さを誇ろう、と言っています。この世的には弱くてもいいんだ。弱くても、本当にキリストの僕として生きることは、これは主なる神様が最も喜び賜うものであって、決して変わることのないクリスチャンの目標であり、まさに生きる目的なのだということです。
今日、私たちは、ある意味では弱いからこそ神の御言に聞くことができ、弱い罪人だからこそ、主イエス・キリストにある罪の赦しを受けることができ、私たちが、本当に弱いからイエス様が友となって下さる。私たちは弱いけれども、神さまによって、味方なる神は強いお方である。私たちが弱いから、そこに主の御栄光があらわされる。満たされる。だから、誇るべきは自分の、弱さなんだ、というこのパウロの宣言。キリストの僕としての、実際の経験を通しての心からの告白。この世の基準とは、正反対の価値観というもの。これは、変わることなく、決して空しく終わることはありません。
最後に、聖書を一カ所。第一コリントの15章58節
<だから、愛する兄弟姉妹たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。>
こう書かれたように、本当に弱い私たちが、主に頼って堅く立ち、主のご用に励むことができますように。そうして、何よりそこに主の御栄光があらわされますよう、お祈りいたします。(以上:土井 浩)