この詩篇は、主なる神のみ業を讃美している詩篇です。その入り口は、神様が本当に全てをご存知である、全知の神である、ということを讃えて始まります。
主は、私たち一人一人の全てをご存知である。座るのも立つのもというように、表に現れてくることだけでなく、その思いも。私たちの口から、一言の言葉が発せられるその前から、その意図も全てご存知である。
そして、そのような主が、どこにでもいらっしゃる、遍在の神であることが語られています。私たちが思いつく限り、いや、その想像を超えて、どこにでもいらっしゃる。
ただし、それは齢を経た老木や、美しい清水や、猛々しい岩石に宿っているというような、八百万の自然神のようなものではありません。それらは全て、主なる神がお創りになった被造物であり、創造主なる神は、それら被造物の中にではなく、被造物に限られることなく、全てを超えてどこにでもいらっしゃる。世界の中のどこかに神がおられるのではなく、神の御手の内に世界がおかれているということ。それが霊なる神のご本質です。神によって世界が創られるその前から、自律自存であられた、無限、永遠、不変の三位一体の神であります。その神のうちの愛の交わりから、世界が創られます。ご自身の似姿としてお創りになり、特別に愛された人を、そこに置き、治めさせ、神の栄光を表す舞台として世界が用意されたのです。
そうして、どこにでもいらっしゃる神は、ただ、どこにでもいらっしゃるわけではない。私たちと共にいて下さる、共在の神です。それも、私たちがこの世に生まれて、長きにしろあるいは一時の短い生であっても、その、この世の生を終えて、黄泉で眠りについても、さらに召されて天にあっても、常に共にいて下さる。そうして、み手をもって導き、支えて下さる。主なる神はそのようなお方だ、と告白されています。これを覚えましょう。
ですから、私たちはどこにいても、また、どのような状況に置かれていても、そこは主なる神の光によって照らされているのだ、ということをこの詩篇は教えてくれています。さらに、その全てをご存知であり、全てをご支配される神が、いつでもどこでも共にいて下さるということが、それが実は、私たちが生まれる前から、もう既に神様の書に記されていた、というのです。
それは、ただ憐れみと恵みとによって、主なる神が永遠より、御子キリストにおいて、私たちを永遠の闇、永遠の死より救い出して下さることを定めておられた、予定のわざ。真実の救いの御業であることを示しています。
私たちは今、こうして信仰を与えられ、イエス・キリストを救い主と受け入れる信仰によって、主なる神が常に共にいて下さる恵みのうちに生かされています。この恵みを、すなわち唯一の救い主、御子キリストの十字架の意味と、その贖いに与る聖霊のお働きによって、天国の民とされ、永遠の命を約束され、キリストの体とされる福音。この福音をゆだねられた者として、聖書のみ言に聞き、主を讃美し、また宣べ伝える使命を、少しでも果たしていけるよう、聖霊の一層のお導きを祈りたいと思います。 (土井浩 牧師)