捧げる恵み (2)
8:1兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。
8:2すなわち、彼らは、患難のために激しいを試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。
8:3わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、
8:4聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
8:5わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。
8:6そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである。
8:7さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。
8:8こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。コリント人への第二の手紙 8章1節~8節
■【 要 約 】使徒パウロは、献厘との教会の人々の悔い改めをきき、その信仰の定着と安定、成長ために、次なる勧めを伝えます、それは「捧げる」ということでした。神さまから賜った、この世の賜物の一部を捧げることは、失うことではく、実は恵みそのものであるということです。マケドニアの諸教会の恵みのわざを例に、この捧げる恵みの実態を御言から導かれたいと願っています。
♰【 説 教 】
前回、9月6日ですが、「捧げる恵み」ということについて。私たちが、神さまより頂いた賜物を捧げる、ということは、これは私たちが失うことではなく、実は恵みである。神さまからの恵みである。ということ。そしてそれを悟り、身につけることは、私たちの、イエスキリストへの信仰を、定着させ、安定して揺るがないものへと導き、信仰の成長へと導いてくれるということを、お話ししました。
今朝は、第2回目で、この8章からさらに具体的に御言にきいていきたいと思います。まず、1節2節から、捧げる恵み自体について考え、3節から5節では捧げる恵みの実態について。それがどのような特徴を持っているかということについてみていき、最後に6節から8節で捧げる恵みのすすめを聞きたいと思います。まず1節2節
<1:兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。2:すなわち、彼らは、患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。>
捧げる恵み、それは一体どういうものだったか。それは、クリスチャンの祝福の鍵であります。成長の道でもあります。人生の広がりを生んでくれるようなものでもあります。捧げるのは賜物ですが、それを自分のところに、自分のものをずっと持っていると、それはそんなに広がらないんです。そこから新しい世界が開くために。捧げる恵みは、これはお金だけのことではないですが、賜物を捧げるという意味で献身する、ということです。
ただ、何でもあげればよい、というものではありません。あげることと、捧げることは違います。持っているものを誰かにあげることはできるかもしれませんけれど、捧げるということは、特権です。これは誰にでもできることではありません。捧げるためには、まず自分の必要を充分養う必要があると思います。そのうえで、神さまが定められた一部を、自分自身を見直して、そして、これを捧げるべきだと気づくなら、それを活かすために捧げるんです。旧約聖書に定める十分の一というのは、私たちはそれに縛られるわけではありませんが、一つの指針ではあります。
だから、私たちが捧げると言っても、聖書が教えているのは、全部の物をあげてしまいなさい、とは言われていません。地上での必要に与えられた賜物として、自分の必要を充分に養う。だから、その為に十分の九を用いなさい、と神さまはおっしゃったのです。もちろん、十分の一でも、二でも、余裕のある方は六でもよろしいんですけれども、逆に一が必ず必要かと言えばそういうものでもないです。累進課税も同じですが、結局本当の資産家は海外で課税を逃れたりします。量そのものではないです。
自分を見直してみて、本当に気がくつなら、それを活かすために捧げる。それは多くの喜びと感謝の証と、励ましに変わります。ガソリンを入れると、教会に捧げられると、教会の霊的エンジンが回っていくようになります。実はもっとも霊的でない、と思われるようなことが霊的な力に変えられる。というより、本来の賜物として生き返るということなんです。
捧げる恵みは、それはどのようなものか、もう少し詳しく御言にきいていきましょう。1節で
<あなたがたに知らせよう> と書いてあります。与えられた神の恵みを「知らせる」。「開示する」discloseするということです。パウロはここで、捧げる恵みについて隠れている出来事を、開示して知らせようとしています。マケドニヤで、実はこういうことがあった。ということです。ここでパウロは捧げる恵みについて、一つの模範を紹介しています。捧げる恵みの訓練は、模範を、目の前に開示して、具体的に示すところから、ここでは始めています。そのモデルであるマケドニヤの諸教会を、皆さんの前に、開いて知らせたい。模範を示したい。捧げる恵みというのは、言葉で教えられるというよりも、それを行っている模範によって伝えられるということが言えます。
そのマケドニヤの諸教会の捧げるわざは、彼らに与えられた、神さまからの恵みです。マケドニヤの教会の何を模範にしなければならないか。それは、実際に捧げている行動や、物ではなくて、捧げるマケドニヤの教会の、その「心」です。心を模範にしなければならない。彼らの心の模範が示されます。捧げる恵みというのは、これは心です。だから心の模範であります。
具体的には2節に書いてあります。<すなわち、彼らは、患難のために激しいを試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。>
厳しい、激しい試練の中に、マケドニヤの諸教会はありました。けれど、その中にあっても、逆境も超えて、彼らの中には満ち溢れる喜びがありました。しかし、同時にそれと共に深い、貧しさ。2節後半の<惜しみなく施す富>という言葉は、そのニュアンスは、ゆとりのある人が、惜しみなく施すという表現ではないようです。ゆとりがありましたら、惜しむということは最初からありません。だから施します。ですが、この場合。極度の貧しさということがあるから、「本当に惜しみなく」施す富、ということが、逆説的にあらわされています。
私たちは、本当は乏しい、足りないところから、これを信仰の証、愛の証、献身の証として、本当にそのことが必要なら、自分にそれをさせて頂きたい。という、捧げる恵みに与りたい、ということ。それで、それを施す。惜しみなく。ですから、惜しみなく施すのは余裕のある人がするということではありません。<極度の貧しさにもかかわらず>ということと、深い関係があります。
実はこの2節のギリシア語は、訳すのが難しくて<その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て>と訳されていますが、新改訳2017では<満ち溢れる喜びと極度の貧しさは・・激しい試練の中にあってもあふれ出て>と変わっています。少々意味がとらえにくいと思います。それは、こういうことだと思います。
今申し上げたように、この惜しみなく施すということ、。心から捧げる、その捧げる恵みの心。それは実は、貧しさがあって、はじめて、本当に、捧げられないところを、本当は惜しまなければならないところを、あふれ出て、惜しみなく施す、ということです。<だから貧しさにもかかわらず>ということになります。満ち溢れる喜びと、彼らの本当に深刻な貧しさの体験。それが彼らの中にあって、あふれていて、死してそれが合わさって、本当に二心なく、惜しみなく施すようになってきています。
神さまにある、イエス様の救いにある喜びに溢れて、お金が惜しいものでなくなる、その時。本当は惜しいもののはずです。貧しくて。だけど、それが惜しみなく施すお金に変わる。捧げる恵みに変わる。その時です。ですから、捧げる恵みは言葉で語るというより、実際にそれを行っている人に触れることを通して、伝染するようなものだ、ということが分かります。
捧げるということは、恵みなんです。本当に心何です。貧しいからこそ惜しむことなく施す、惜しむことを超えて施すという、捧げる恵みが、与えられた神さまからの恵みによる。心の恵みです。この捧げる恵みとは、イエス様の変わらぬ愛と救いを身に感じて、神さまにより頼んで、逆境を越えて、貧しさを超えてこそ、それに愛が加わって、惜しむものが惜しみないものに変わるんです。そして、捧げる恵みとして捧げることができるようになる、ということになります。
私たちは、ここで考えさせられます。私たちはこのような献金の考え方、捧げるうえで、よい模範をもっているだろうか。捧げる模範。たくさん捧げるかどうか、という量の問題ではありません。心の模範です。先日、瀧浦先生から伺った、太田姉妹のお話をいたしました。そのことを瀧浦先生にお話ししたら、姉妹の逸話が母教会に戻ったことを、喜んでおられました。それで、当教会で長く会計の御奉仕をいただいている田中長老に伺ったところ、昔、時々まとまった額の献金があったのですが、それが無記名で捧げられていて、いったい誰だろう、ということになって、それと無く調べてみたら、どうやら太田さんのようだ、ということが分かりました。私たちは、子供のため、将来の、老後のため、あるいはなにか手に入れたい物のために、蓄えるということをしますが、捧げるために蓄える、という、それも貧しい中で、その姉妹の恵みの豊かさを改めて、心に刻みたいと思った次第です。
この、8章でパウロの場合は、コリントの人々にマケドニヤの心の模範を示しました。お金は、この世を回ってきて、この世にまみれていて、私たちも教会の中でお金を扱う時に、この世的になっていないか、ということを常に心に覚えたいと思います。捧げる恵みに、少しでも浸って捧げているでしょうか。つまり、いろいろな逆境があって、イエス様にある喜びが心の中にあって、貧しさを経るからこそ、本当にそれらの物が必要だというところを経るからこそ、それを切って、そして惜しむことなく捧げるということであります。
ですから、第二コリントの9章の7節にこう書いてあります。
<各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心に決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである> 献金というのは特権です。捧げればいいというものではありません。献金というのは私たちの信仰の証です。愛の証です。イエス様への献身です。
この世の生活、様々な貧しさがありますが、それを超えて神さまからの賜物を活かしたい、という、その思いです。私にできること、それを活かしたい。だから献金を預かる者たちは、大きな責任があるんです。本当にそれを活かさなければならない。ですから、8章の20節から21節で
<そうしたのは、わたしたちが集めているこの寄付金のことについて、人にかれこれ言われるのを避けるためである。わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである>
それは、この世的なミスなく、また第八戒違反を(盗むなかれ)をしないというだけのことです。本当に献金というのは信仰の告白です。だから、特に教会の責任あるもの、長老の方が献金を扱うのですけれど、この献金を見る時に、また勧める時に、この捧げる恵みということを本当に理解して、人々がそれによって捧げているか、それによって捧げられたものをどう生かすか。深い、霊的なところでいつも判断していなければならないと思います。毎週の礼拝の後、会計長老が残って献金を扱ってくださいますけれども、集められた献金を前に、必ずお祈りをもって、皆さんがお帰りなって集計される時もたった一人でも深く祈って、声には出されませんけれども本当に深い感謝をもって、これを扱ってくださっています。そのお姿は私にとっては、恵であり感謝であって、模範であります。
捧げるものは、捧げる恵みに浸って捧げているか。逆境を超えて、イエス様の愛にあずかる喜びによって。貧しさを通って、だからこそ惜しみなく施す。まず与えられた感謝をもって、収入を与えられたこと。そのほとんどを、自分と家族のために活かすことは、聖書の原則として認められています。
自分から、自分の分から盗む必要はありません。もちろん、献身しようと思って、必要以上に捧げることもあり得ますけれど、しかしそのようなことではありません。私たちに与えられたものを考え、それをどのように活かすか、神さまの恵みによって捧げる。捧げるものが恵みである。そのような献金であるべきではないか、ということです。それを、パウロはここでマケドニヤの教会を模範に、コリントの人々に示しています。
次に、捧げる恵みの実態を見てみましょう。3節から5節です。
<3:わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、4:聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、5:わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。>
ここで捧げ方の姿勢。捧げる目的。捧げる心、または前提と見ることができます。捧げ方の実践です。これは、横並びではありません。あの人がこうだから、私は・・というような、これは基本的に違います。ある程度の基準は、最初に教会に来た時には分からないから、参考にするとは思います。人の模範という風に思いますが、しかし、横並びではありません。
それぞれが、信仰によって、自由にするのです。先に言いましたように、9章7節の御言。これは、本当にその通りです。言われておる通り。これは献金というものがどういうものかよく、教えています。ですから、たいていの月約の献金袋に書かれていますね。心で決めた通り。言葉だけのきれいごとではなく、本当に一人一人自由に捧げなければなりません。そうでないと、捧げる恵みの導きになりません。信仰の証、愛の証。どのように自分に与えられたものを活かすか、それは人には分かりません。誰も、他の人に強いるものではありません。それぞれが考えなくてはならないものです。
ただ、ここの3節から5節のところで、捧げ方の姿勢、捧げる動機、捧げる心が書いてあると思います。パウロがマケドニヤの教会で見た、捧げる協会の恵みの実態。それを見ると、一層、捧げる恵みとは何か、分かると思います。
第一に、捧げる姿勢。まず、<彼らは力に応じて>捧げました。それぞれの出来るように、惜しむなく、怠慢でなかった。むさぼりをせず、力に応じて、与えられたものに応じてできるところで行った。そしてさらに、その心が本当に捧げる恵みによって励まされ、捧げることによって本当に活かしたい。自分に使うより、そのほうが活きる。そう思った時には、力以上に捧げることもあり得ます。誰かに強いられるわけではない。嫌々ではなく、強いられてでなく、心に決めた通りに喜んで与えるわけです。だから、<自ら進んで>ということになります。このように捧げることによって、心の中にあるイエス様への喜び、その中に自分が入っていくようになります。それによって、私たち自身が、確立されて、成長して、より広い交わりの中に入っていく。恵であります。
伝道の書の11章1節に<あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである>と書かれています。捧げものというのは、ある意味で霊的な奉仕です。神さまがその必要を知ってらっしゃいます。私たちは、それがどう活きるのかは分かりません。しかし、本当に私たち自身が、霊的な奉仕の勇気が必要です。イエス様が仰った、タラントの譬えもそうです。私たちが与えられた賜物を、どう活かすかということです。ここに捧げ方の姿勢が示されます。
続いて、捧げる目的についてきいてまいります。4節<聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て> 捧げる目的は、この熱心というところから出てきます。熱心に、切に求めて、励まされて、そしてどういうことを目的とするかと言うと、本当にその奉仕の恵みの交わりに与りたい。イエス様の御業、神さまの国の御業を見たい、与りたい。その聖徒たちを支える交わりの中に結ばれていたい。捧げる動機、目的は、イエス様の恵みと交わりです。捧げ方の姿勢としては、自発的に自由に、ある時は全力で捧げるとういうことですが、その目的は恵みと交わりです。
そして三番目に、捧げる心について5節<わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。>この、マケドニヤの教会の捧げる恵みの例では、捧げる心。パウロたちが<希望通りにしたばかりか>と書かれていますが、パウロたちが、「これくらいかな」とある程度期待していましたが、ところがそのようにではなく、それを超えて捧げられた。なぜなら、彼らの心にある、捧げる恵みが、本当に強かったからです。活きたからです。
献金は、普通教会では、予算を立てます。まず、必ず必要な支出と、おそらくこれくらいかかるだろうという支出の予算を立てて、それに応じた収入の予算を立てます。この収入予算を立てるというのも、本来的には信仰的にはどうか、現実にはどうかいうこともありますが、教会運営のために見通しが必要です。確かに献金というのは不思議なものです。神さまの御手にあります。なぜなら、一人一人の心の捧げる恵みによって変わるわけですから。
それは、習慣があります。礼拝に来ているから捧げる。月約は自分の収入、必要と照らして、大体これは決まっています。だけど、それだけでは教会の献金は活きません。私たちそれぞれが、その時その時に自分の持っている賜物をどう活かそうか。その捧げる恵みの生き生きとした命、それが反映して教会を支える命となっていきます。だから、本当に霊的なものなんです。
お金を一番たくさん持っている方がたくさん捧げるとは限りません。どれだけ捧げる、捧げないでさばいてはいけません。それぞれの心の中の、捧げる恵みによるんです。それによるのが、教会の会計です。ですから、私たち、マケドニヤの教会が、パウロが期待していたところを裏切って、人間の予想や期待というもの。それに縛られない御霊によって、それぞれの心に与えられた恵みと、決心によって、教会の捧げる恵みが与えられていくのだと思います。
<自分自身をまず>捧げました。<神のみこころにしたがって>神のみ心に従うということで、マケドニヤの人々は自分自身を与えるつもりで、捧げる恵みをしてくれた。まず主に捧げて、その上で、彼らの視野の中に、教会とそのために働く人たちが入ってきました。エルサレムの教会で、本当に信仰の源で、自分たちがそこから出てきた教会が、今とても貧しい。そのためにパウロたちは、一所懸命努力してお金を集めている。それらの事が視野に入ってきました。それで神さまのみ心に従って、彼らの捧げる恵みの心が、このように自分を活かそうということで、まず自分自身を主に捧げ、またパウロたちにも捧げてくれた、委ねてくれた。と言う風になりました。
捧げる恵みの実態、捧げ方の姿勢は、力に応じて、時には力以上に、自ら進んで。捧げる目的は恵みと聖徒たちの交わりに結ばれたい。その恵みに加わりたい、そのために。捧げる心は、本当に神様のみ心に従って、献身を、愛によって捧げると言うことであります。
最後に、捧げる恵みの勧めパウロはしています。7節、8節。
<7:さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。8:こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。> 6節で、テトスが始めた募金、恵みのわざを完成しなさい、と勧めています。始めたことを、完遂するように。テトスはコリントで福音を語り、人々が悔い改めて、あらためてイエス様の下に来るように導くだけでなく、イエス様の御業に与るように、具体的な献金の勧めを始めていました。これを完了しましょう、ということです。
そのうえで、7節で<この恵みのわざにも富んでほしい>これは、富んで欲しいというのは、溢れて欲しい、という言葉です。溢れるものになってほしい。パウロはコリントの教会の人たちに対して、あなた方は、信仰にも、言葉にも(御言のことです)、知識にも、熱情にも、またパウロたちから出て、コリントの教会の間にある愛にも富んでいる、豊かである。あなた方は満ち溢れています。その全ての熱情、熱心さ、これは勤勉という意味でもあります。さらに愛にも。だからコリントの教会は、いろいろ問題がありましたけれど、やはり教会でした。
だから、信仰、御言、知識、勤勉。ただ、悔い改めだけない。そして、本当に悔い改めがなされた時に、今、パウロはその上にこの捧げる恵みにも充分になってほしい。それもあなたたちから、あふれ出てくるようになってほしい、というように言っています。
ただ最後に8節で<こう言っても、わたしは命令するのではない。>と、私は命令をしていません。この献金というのは、命令ではない。確かに、神さまに捧げない、ということは神さまにゆだねられたものを充分に用いていないという、戒めに対する違反ではありますが、原則私たちは、十分できないというのが罪人の真実でもあります。そのうえで、献金は命令されてするものではない。だから、他の人の熱心を通して、証を通して、パウロはマケドニヤの教会の人たちのことを話して、勧めています。模範を示して彼らの心を動かしています。あなた方の愛。愛が本物である、真実であるそれを確認しています。はっきりと証明したいと思っています。あなた方の心の中にある愛、その発露を、これを通してしてほしい。あなた方が捧げる恵みを心の中に持って、それに導かれて、与えられた賜物をできる範囲で、主ために、人々のために本当に活かしていく。
以上を通して分かることは、まず、信仰と愛がなければ献金はないということです。本当の献金はありません。こういうことは本当に慎重に申し上げる必要がありますが、本当に信仰と愛から、すすんで与えられた賜物を捧げる恵みを覚えてする、と言うところまで待つべきかもしれません。奉仕もそうです。奉仕も、私たち自分を捧げるわけですが、それも信仰と愛から、あふれ出てなされる。捧げる恵みが神さまから与えられて、そして為す、ということだと思います。
このように、信仰と愛とによって支えられる協会が形成されていくということ。そして私たちがクリスチャンとして揺るぎないものとして成長できますように、神さまの導きを祈りたいと思います。
最後に、8章の9節を読んでおきたいと思います。
<あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富むものになるためである>
何より、捧げることの全ての土台は、私たちの救い主イエス様が、私たちのために、全てを、ご自身の全てを捧げて下さっている、ということです。天にあって、全てをお持ちであった、神のひとり子の立場から、この地上の人間として受肉され、この世の生にあって貧しく、虐げられ、しかし父なる神のみ心に完全な従順をしめされ、律法を満たされ、そうして十字架においてご自身の血を、命をささげて下さった。この恵を覚えて、私たちは、この世においては全てを捧げることは叶いませんけれども、御霊の導きと励ましによって、イエス様を仰ぎ見つつ、少しでもそのイエス様に従うことができますよう、祈りたいと思います。
(以上)