礼拝がささえる社会
1:そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
3:これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
4:神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
5:神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
6:彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
7:そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。テモテへの第一の手紙 2章 1節から7節
<そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。>
本日は、テモテへの第一の手紙2章の御言に聞いてまいります。テモテは、パウロの忠実な弟子で、手紙の書きだしの1章2節では、<信仰によるわたしの真実な子テモテへ>と言っています。パウロの伝道旅行に付き添い、支え、また使いとして各地の教会へ出向いています。そしてエペソの教会の牧会を任されました。このころは30歳を超えた位かと言われています。テモテはパウロ通して得た、福音信仰は確かなものでしたが、まだ若く、また、性格的にも少々控えめなところがあったようです。そのせいか、かつてコリントの教会で問題が起きた際に派遣されましたが、十分に治めることができず、パウロ自身や、年長でおそらくそれなりの威厳があったテトスが再度派遣されていました。人間的な判断基準が問題となったコリントらしいのですが、それでも、テモテの信仰と働きに対するパウロの信頼と、成長への願いは変わることはありませんでした。この手紙は、若い牧会者への個人的指導と励ましとして書かれており「テモテへの第二の手紙」と「テトスへの手紙」と併せて、牧会書簡と言われています。
さて、この手紙の1章では、御言に基づかない議論や律法主義者への注意を、キリストの憐れみによる励ましを添えて与え、2章以降、実際に教会が為すべきこと、祈りや礼拝についての具体的な指導が為されていきます。そして、そのまず第一番目が
<2:1そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。>
ということを教えています。私は一読した際に、あれっと思いました。パウロが教えているのは、まず教会・・ではないんです。すべての人のために、は分かります。ところがその中で特に、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと祈りととりなし感謝を、と言っているのであります。王や、上に立っている人、すなわちこの世の権力者、権威ある者のために。時代の状況にもよりますが、どちらかと言えば、敵視しそうな相手ではあります。さらに、何故かというと、3節。
<これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。>
ということであります。3節の「これは」は1節のことです。また「み心にかなう」とは「神が喜ばれる」という言葉です。権威者のために祈り願うことを、神が喜ばれるとはどういうことか。この意味は、この世の、あらゆる権威の、全ての源が主イエス・キリストにある、ということを証しているのであります。この世の権威、権力はすべからくイエス様から委ねられた、預かりものだということ。
聖書を一カ所。新約聖書302頁。「エペソ人への手紙 1章20~22節」
<1:20神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、1:21彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。1:22そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。>
実はここに書かれていることが、この世界の真実であるということであります。先週のお説教で、滝田先生が詩篇から解き明かしてくださいました、「主は王である。」という恵み。創造主たる神が、お造りになった世界に対し、主は今もなお、摂理の御業。保持と統治といいます。この世界を世界としてその形を保っていて下さる、という、人の頭では想像もできない、途方もない力による神の御業。例えば、わずかな物質の原子核という、目に見えないような細かいところで、その核が融合したり分裂することで、この星を滅ぼすような、すさまじい力が放出されます。それを宇宙規模で保っておられるという、御業。そして、保ちつつ王として、さらに治めていて下さる。しかもその摂理のお働きの基準は、どのように摂理なさるかという基は、恵の契約による私たちとの関係にある、という安心。
宇宙や地球、というと大きく考えすぐますが、その中の人間の社会では、様々な問題が起き、災害や戦争や、疫病や、混乱、貧困。その中に置かれたものにとっては決して、思い通りになるものではない、苦しい世界ではあります。人間がやがて滅ぶべき、永遠の死の闇に入れられるべき存在であることを考えますと、その中にあってなお、本当に世界が滅ぶような、無くなるような状況を抑制されているのであります。同時に、イエス・キリストを信じる者にとっては、本当に苦しいですけれども、その困難もまた御手の内にあり、やがて益としてくださること。さらにその先には、神様の御国での栄光が約束されている喜びが与えられているわけであります。
さて、イエス・キリストがどのようなお方であって、特に何をなさってくださったか、ということについては、その三職。三つの職業で言い表されます。それはキリストという言葉の基になった、油注がれる職業、預言者と祭司と王です。この三職は別々に独立してあるのではなく、また全てではありませんが、イエス様の中に一体となって含まれており、わたしたちが、その救いの御業を理解しやすいように、そのように聖書は教えてくれています。
確かに、イエス様はそのご生涯において、聖書を解き明かし、教え、ご自身が救い主であることを明かされました。父なる神のみ心を明らかにする預言者としての御業です。そして、十字架の贖い。先週のお説教にもありましたように、自らを全き捧げものとして、最終のいけにえとしてお捧げになり、主なる神と人間の下り和解を成し遂げてくださり、今もなお、とりなし続けていて下さる祭司の業。
さらに、死に勝利して、天に昇り神の右に座して、この世と来るべき世の全ての権威を持ち、支配される王としてのお働き。これらは全て等しく私たちの救いのために、御計画され、恵の契約によって実行された、神の愛の業であります。
しかし、私たちクリスチャン、特に最近の教会にありがちだと言われていますが、「キリストの十字架」はそれは大きな恵みではありますが、それを強調することが多く、「まことの王なるキリスト」に触れることは意外と少ない、という風に言われております。祭司の御業が前面に出され、王としてのイエス様が隠れてしまいがちであるということです。
そうすると、どうなるか。聖霊のお働きによって、信仰を与えられ、イエス様の贖いに与った喜びに満たされても、それが、ややもすれば個人的な体験であり、受け取る人の心の問題にとどまってしまう、という恐れがあります。教会や信仰生活と、この世、社会が断絶される。これは、信徒の心の中で起こってしまい、それはやがて社会全体におよびます。
しかし、3節~4節では
<3:これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。4:神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。>
神は、全ての人が真理を悟ることを望んでおられるのであります。真理とは5節6節、
<5:神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。6:彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。>
神は唯一で、イエス様が唯一の救い主で、預言者で祭司で王であられる。そして救いの御計画を実現された給うた。ということであります。これを、王たち、上に立つものたちが悟り、自らの権威の源であるイエス・キリストに従うよう、み心にかなうように私たちは祈り願わなければならないということであります。
私たち、教会における礼拝。祈りを捧げる行為が、これは実は私たちの、信じる者だけの恵みや喜びであるのではなく、おおやけの、公的なものであるということを、今日は特に、このパウロの教えから覚えたいと思います。人間的に表現しますと、「礼拝は、社会的責任をもった公的活動」ということになります。なんとなれば、この世界のあらゆる権威権力とその行使が、その権威の源であり、上にあるイエス様のみ心にかなうよう、祈り、とりなし、願うことができるのは、唯一教会のみであるからであります。ですから、あらゆる公的機関が活動する限り、あるいは無くても、機能していなくても、却って教会が礼拝を守るということは、当然であり、この世界、社会に対する責務である、ということであります。
国々の王や、大統領や大臣の上には主が立っておられるということ。国を治めるということは、実はたとえ民主主義で選挙で選ばれたとしても、それは手段の問題であって、権威の源は主なる神様。そこから全てを授けられたイエス様にあります。それゆえ。政治を司るもの、あるいは業界の権威者は、神のみ心に適うべく、力を尽くさねばならないのであります。
まだまだ独裁的な国々も多くありますが、いわゆる近代的と言われる国は、民主主義だということになっています。しかし、そもそも民主主義の原点はといいますと、結局「神のみ前に全ての人間は等しく、被造物であり、罪びとであり、また似姿である。」という点でありました。ですから当然、宗教改革と時代が重なっています。それが、いつの間にか「神のみ前に」が抜けて、人間のみ。人間中心に変わってしまい、元々の意味が分からなくなっているのが現代です。このことだけでも、人が滅びへと向かっていく、抗いがたい罪の内におかれていることがわかります。
かつて、旧約の時代、最初にイスラエルの民を治めたのは、預言者であり祭司でした。士師といった指導者も出てきましたが、民の願いによって王が与えられた時も、王たちは祭司らから、神のみ心を聞き、それに基づいて、従って働いていました。み心に背けば、必ずや神の怒りが王や国々にのぞみました。それから、長い時を経て、今の近代的な国家では、いわゆる「政教分離」ということが、当たり前に言われ、法体制がある程度確立しています。これは歴史的には国ごとに複雑ではありますが、私なんかが、中学校くらいで学んだ時には、これは人間社会の進歩の証だ、と言う風に教えられるんですね。つまり、政治や社会などに対する、迷信的な宗教的な影響力を排除して、人間理性が勝利して、進歩してきているんだ・・みたいな感じです。たしかに、19世紀を経て、戦後は進歩主義、唯物主義、科学信仰(信じる信仰ですね)。科学自体は、限定的な世界での分析手段ですから、生命の意味も生きる目的も何も分からないんですけど。どちらにせよ、政教分離の考え方も民主主義と一緒で、原点から大きく離れてしまいました。すなわち、国家が、この世的権力が神様の御言に、踏み込んではいけない。信仰を左右してはならない。つまり、神の御言とその解き明かし、教会の信仰の自由、教会の信仰の自律を確立させたというのが本来です。
この世の様々な専門分野があって、それぞれの賜物に応じて専門家が従事して、そこにおいても、み心に適う働きが求めらるべきものです。しかし、罪の世ではそれが困難であるからこそ、私たちはこの世の王、上に立つ者のために祈るという、現実の社会における大切なご用が、私たちだけが果たせる公的なご用があり、またそこに主にある恵みがみたされておるということであります。次に7節、
<7そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。>
伝道への召し。召命の告白と再確認がなされています。神さまのみ前によいことであり、喜ばれること。それは、全世界への福音伝道。神さまの言葉を届けることだという、パウロの誇りと責任を示すことでテモテを励ましているのであります。イエス様に直接召され、教えを受け、導かれて使徒となったパウロ。そのパウロがテモテを教え、認めているということを、テモテ宛の書簡ではありますが、これは皆が読むもので、やがて写しが各協会に送られていきます。そのような書簡で宣言することで、テモテを励ますと同時に支えています。
そして、その根本にはやはりイエス様による、宣教命令があります。新約聖書50頁。マタイによる福音書 28章18~19節。
<28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として・・>
全世界への、福音伝道。聖書が示す真理の宣教は、「天においても血においても一切の権威を授けられた」イエス様ご自身によるご命令であり、世界に対する責任ある、公的な働きであります。
そして宣教の土台として、宣教と同じく、御言の朗読と説教、イエス様が定められた礼典の執行、イエス様が共に祈りなさいと言われた祈り、その集合体であり、集い交われと言われたところの礼拝。これも当然、私的なものではなく、個人の自由による信仰ではなく、全てに勝って公的な主なる神様の、その愛。ご存在と知恵と力にひれ伏す。礼拝とはまさに、ひれ伏す、前に口づけするという言葉から生まれています。そして全世界のまことの王なるイエス様に従うところの、私たちに委ねられた公的な務めであり、同時に、与えられた豊かな恵みなのであります。本日、御言よりこのことを覚え、礼拝にあずかる喜びと、この社会における公的な唯一の働きであるという事実に、あらためて思いを巡らせたいと思います。(以上)