裁きに示される愛
14:主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
15:わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
16:つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
17:更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18:地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
19:あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
20:さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
21:主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。創世記 3章14節から21節
本日は、創世記3章の御言に聞いてまいりたいと思います。創世記はご存知の通り、聖書の一番最初に示された書であります。その始めは「神がまず天地を創造された」という、神様が主語である一文から始まります。神様がどうなさったか。どのような方であるかを、神さまご自身が示されています。それは、神が天地、この世界をお造りになったということであり、この宇宙を含む全世界の存在の前から、神様がおられたということでもあります。創造主なる神は、世界の前から自立自存されていたということを明かして始まっているわけであります。
まず、第1章では神が、私たちが住むこの世界をお造りなったことが明らかにされています。そのクライマックスは、神がご自身の似姿として男女の人をお造りになり、特別に彼らを祝福され、生きる環境を与え、同時に地を治める務めと権威をお与えになったところにあります。
次に第2章において、主なる神と人との関係の、その最初の状態が描かれます。そこでは、さらに詳しく、人が土の塵より創られ、神が息を吹き入れられることによって生きたものとなった、ということが記されます。そしてエデンの園を備えられ、具体的な務めが与えられ、禁止事項「善悪を知る木からとってはならない。それをとって食べるときっと死ぬ。」という命令が下されます。また、様々な生き物への命名の権威与え、さらに人間が男女をもとに社会性を持つものとして造られたことが語られています。
ここまでで、私たちが創世記のみ言にきく、その姿勢が問われてまいります。聖書は、神の栄光を表わし、これを喜ぶという、私たちの主な生きる目的を果たすために、神から与えられた唯一の基準であることが教えられています。そこに書かれたことは、大きくまとめますと、信仰と愛。すなわち、神様が信じなさい、と仰っていることと、このように生きなさいにと教えて下さっていることになります。ですから、聖書は私たち人間のために。その救いと、人生のために記された書だということが分かります。
その意味から、まさに第2章から人間の歴史が始まっており、第1章は、その前提といいますか、予告編。人間の生きていく舞台、ステージが創られたことの概要が示されています。映画のオープニングではありませんが、最初に、製作者や原作者が表示され、出演者が出てくるような感じです。
物語に入る前の、物語の背景の説明と言う意味でもあります。
創世記、特に最初の1章からアブラハムが出てくる11章あたりまでは、人間の目では細かな矛盾と思われる表記や、人間の理性では把握できないところの記述について、従来から様々な人間的、科学的な批評がなされてきました。これらの批評や人間的アプローチに対して、E.J.ヤングは次のように説明しています。創世記1章についてですが、「本章は誇張なき歴史である。創世記が科学の教科書としての目的を有するという意味ではないが、やはりそれが科学的問題に触れる場合には、正確である。科学はいまだかつて、創世記第1章の叙述に矛盾するような事実を、何も見出したことはない。本章の力点は宗教的な理由において、まさにこの地球におかれている。・・人が罪を犯し、贖罪がなされたのは、この地球上においてだからである。しかし、地球が宇宙すなわち太陽系の中心であるということを創世記は教えていない。ただ宗教的な意味においてのみ地球中心尚なのである。ほんの一瞬間たりといえども、その正確な所論が真の科学と矛盾するとは考え得ないのである。」
これは、有名な天動説の誤った聖書の読み方を念頭において説明していると思います。簡単にいえば、聖書は、人間のための救いの書であるから、それを中心に描かれており、書かれていない部分を、不完全な人間的な推量で判断することの危険を教えてくれています。また同時に、一言一言霊感された誤りなき神様の御言でありますから、人間の有限な理性や感覚では、及ばない部分も当然あり、そのような隠された部分については、霊感された言葉を尊重し、慎重に神様の声に耳を傾ける姿勢が求められているのであります。
聖書に戻りますと、3章の前半では、神様に特別に愛され、様々な権威を与えられ、そして命の契約の基にあった人間が、とうとう神様の命に背き、罪を犯していくさまが描かれます。彼らの罪は神さまへの不従順でありましたが、その罪を犯していく経緯は、3章前半に記されています。以前に滝田先生が、丁寧に、分かりやすく、見事にそのさまを解き明かしてくださいました。本日は詳しく触れませんが、サタンの誘惑。神の言葉への疑問を投げかけ、否定し、そして誘惑するという手段、それに対して神様の御言をそのままではなく、自らの欲望から都合よく言い換え、自らを欺き、また罪の責任を他人に転嫁するという、少しずつ、そして何重にも罪を重ねていく姿であります。この初めの人間による罪、すなわち原罪によって、全ての人間にその罪が及んでまいります。これが歴史の事実なのであります。
この、人間アダムとエバが犯した罪と、彼らを罪にいざなった蛇、その背後のサタンに対して、神の裁きが下されます。契約違反に対する判決。それが先にお読みいただきました、3章14節から19節の御言であります。
14節、<主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。>
11節から13節で、主なる神はアダムとエバに問いかけています。しかし、蛇に対しては、いきなり刑罰の宣告がなされています。罰とは本来責任ある存在に対してなされることですから、蛇がただの蛇であればそのようなことはありません。言葉を話さない蛇が話したこと、また主なる神による刑の宣告が、蛇の背後に人格的存在。人を神に背かせようとするサタンの存在が事実あることを神様は示されています。
次の15節<わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。>
この15節は「原福音」(prote evangelium)と呼ばれています。
その第一はまず、神様が人とサタンの間に恨みを置かれたこと。これは、敵意と言う意味でもあります。人が、恨みや敵意を誤って神様に向けたなら、そこには破滅しか残されていません。サタンの誘惑に従い、禁じられた身を食べた人間に中に、既に主なる神に背を向ける芽がありました。しかし、罪の内に置かれた人にはその恨みの方向を、自ら変えることができません。そのため、神様はあらためて、人とサタンの間に恨みを置いてくださったのであります。罪がその子孫に及ぶように、人とサタンの間の敵意もまた継続され、救済のみ業の歴史的な進展を予見させています。
ここで特に女のすえ、子孫とサタンの間に敵意が置かれますが、その戦いにおいて、女のすえがサタンに勝利することが宣言されているからであります。サタンはかかとに噛みつき、かかとを砕くとは嚙みつくとも訳されています。噛まれれば傷を負い、苦痛を伴うでしょうが、死ぬことはありません。しかし、女の子孫はサタンの頭を砕き、完全なる勝利をおさめることを約束されているのであります。しかも、それはイエス・キリストによってなされることが秘められています。この時点では明らかにされてはおりませんが、神様はここで、アダムには全く触れず、女のすえとサタンの戦いとして表わされました。それはまことの救い主、イエス様が乙女マリアの下に来られたことで明らかされるのであります。
サタンへの裁きの宣告の内に、救い主による勝利の約束が込められているという、これらの意味で、この15節は「原福音」とよばれるにふさわしい御言であると言われています。
続いて16節、<つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう>
ここで神が女に下された裁きは、苦しみであります。子を産む苦しみ、夫に支配される苦しみ。その苦しみは、17節以降出てくる男の苦しみと同じ言葉であります。しかし、苦しみは与えられますけれども、その苦しみの内に、子孫が与えられる、命が継続するその希望も同時に約束されていることが分かります。
また、本来、夫婦の、男女間の関係は、支配や従属関係ではなく、神の定め給うた、お互いの役割の認識に基づいた祝福の関係のはずであります。しかし、その互いに愛すること、尊重し大事にするという関係が、相手に求めることと支配することになってしまう、そのような状態に置かれてしまったということであります。私たちの内にある罪は、愛の交わりにおいてもこのように自分中心の思いへと、常に引っ張っていこうとするのであります。
そして17節~19節<更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。18:地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。19:あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。>
ここに、人に対する主なる神の裁きが宣告されました。それは主の宣言ですから、直ちに実効性のある、現実となる事柄であります。すなわち、この後、人間はすべて、現実的にこの裁きの基に置かれておる、と言うことを意味します。そのため、「神の呪い」と表現されております。申命記などで律法の予言がなされる場合も「守らないものは呪われる」と言われます。確かに、聖なるまことの神の全き義、正しさは罪をお許しにならず、厳しく罰せられます。しかし、同時に全き愛の主である神は、同時にその憐れみをも発揮されるます。そのため、人間的に呪いと言ってしまうと、一面的な呪いを思い浮かべてしまいますので、本日の説教題もあえて「裁き」とさせていただきました。裁き、判決には情状酌量や、更生のための配慮を伴うからであります。
さて、ここでの神の裁きは、私たちの人生における苦しみと、その源である人類全体に与えられた苦しみが記されています。<あなたは一生、苦しんで地から食物をとる>と言われたとおり、この世の人生に、生きる労苦、苦しみは数知れず付きまといます。しかし、本来、労働そのものは苦しみではありませんでした。2章の15節に<主なる神は人を連れて行ってエデンの園におき、これを耕させ、これを守らせられた>とありますように、エデンの園における労働は、神のみ心にかない、地にもよく人の喜びでもあったわけであります。主なる神に従順で、その交わりの内におかれている間はそうでありました。現実の私たちも、仕事が順調な時や、目的が達せられた時、喜んでもらえた時など、
その働きは苦しみではなく、喜びを感じるものです。
ただ、やはりここに受けた裁き、その元であった不従順の罪故に、私たちの働きは、茨とあざみ。即ち人を傷つけ痛めつけるものを生んでしまうのであります。科学の発展は、便利な世の中を生みましたが、同時に簡単に多くの人の命を奪う兵器を生み出しました。医療の進歩は同時に、恐ろしい毒薬を生み出しました。細菌やウィルスの研究は進みましたが、さらに恐ろしいウィルスを生み出しました。誰かが儲けて誰かが損をするということもあります。誰かが喜んでくれても、別の人を悲しませることもあります。そのように、労苦を重ねながら、やがて土にかえる。死を迎えるのだ、と神さまはお定めになりました。私たち人類は、すべてこの罪からくる神の呪いの内におかれ、やがて永遠の滅びにいたる存在であるわけであります。これがこの世の現実であり、人はそこから自ら抜け出すことは叶いません。
それゆえ、だからこそ、主なる神はその裁きの中にも、測りがたい御計画の内に愛を込めてくださいました。まずは、苦しみながらも、命をつないでゆくこと。子孫へとつながっていくこと。そうして、やがてまことの救い主を遣わしてくださることであります。それが、主なる神の一人子、イエス・キリストであり、イエス・キリストがこの神の呪いを一身に引き受けて下さったことを、私たちは、幸いにも御霊の導きによって、御言により知らされ、イエス様を信じ、繋がることで救いに与っております。
ガラテヤ人への手紙3章13節、新約聖書の296頁です。<キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法の呪いからあがない出してくださった>このように明かされた通りであります。
イエス様が救い主であるという、この救い。これは何からの救いからと申しますと、一般的には罪からの救いだと言われますが、その意味は義なる神の聖なる光からの救いであるということであります。あまりにも聖く、全き義である神の御前で、その聖なる光をあびたなら、私たちはまさに塵のごとく一瞬で溶け去って跡形も残らないような、小さく、弱くかつ罪に満ちた存在であります。それをイエス様が守って下さる。イエス様を信じる信仰を与えられることで、イエス様を通して神のみ前に、子として、御国の民として迎え入れて下さるわけであります。
創世記に戻りますと、20節ではアダムは妻に「エバ」と名付けます。これは「命」と言う意味です。<すべて生きたものの母だから>とある、「生きた」つまり「生きている」という言葉とごろ合わせになっています。これは、アダムが15節で主がエバに告げられた言葉を、信仰を持って聞いていたことを示しています。女のすえが、命が繋がれることを悟っていたということです。
さらに、21節で、神は皮の着物を創って、アダムとエバに着せてくださいます。この皮の着物をイエス・キリストに譬えることもよく耳にしますが、それは明らかにされていません。ただ、罪を犯し、善なる神のみ前にありのままで恥を覚える人間を憐れんで、守って下さったことは事実であります。また、その着物のために、動物の血が流されたことも事実でしょう。それはやがて、神のみ前に近づく手段、儀式律法において生贄が必要とされることを暗示していると言えるかもしれません。
そしてその律法は、イエス様によって全うされました。そのため、今やイエス・キリストを信じる者は、この呪い、裁きのもとにはないと言う、大きな恵み、幸いが与えられています。しかし、それでもまだ、この裁きは有効であり、世界は命の契約に違反したこの裁きと、イエス・キリストによって実現した恵の契約の両輪によって成り立っていると言えます。私たちは、主なる神がその裁きの内にも憐れみを示して下さり、究極の救い主を備えて下さっていたその大きな愛を覚えたいと思います。そして、恵の契約にその名を記される人々に、御言をとどけることができますよう、聖霊の一層のお導きを祈るばかりであります。