走りながら聖書をよめ
1:わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2:主はわたしに答えて言われた、『この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
3:この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
4:見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
5:また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる』。ハバクク書 2章 1節から5節
■本日の聖日礼拝は、宗教改革記念礼拝となっています。その起源は、1517年10月31日に、当時のローマカトリック教会の世俗化、腐敗に対して、マルティン・ルターが、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に「95ヶ条の提題」という書状を貼りだし、討論を求めたことに端を発しています。
そのため、10月最終の聖日において、私たちのように多くのプロテスタント教会はこれを記念して、宗教改革記念礼拝としているわけであります。
ルター自身はカトリックの修道士であり、当時ヴィッテンベルク大学の神学教授でもありました。彼が、この「95ヶ条の提題」、または「意見書」とも言われますが、正確にはいわゆる「免罪符の意義と効果に関する見解」とされます。この書面を貼りだした時は、カトリック教会内部からの改革運動であったと考えられています。実際、教会の世俗化は激しく、免罪符発売当時の教皇、今でいう法王レオ10世は、フィレンチェの豪商で実質的的統治者であったメディチ家の人でした。教会の要職、宗教的権威と権力は、この世の財閥、富豪によって独占され、出身家と国の利益を守るための組織と化していたようです。
しかし、このルターの行動が一つの契機となって、本格的な宗教改革の潮流を、国々にもたらし、世界中にプロテスタント教会が広がるきっかけとして、用いられることになったのであります。その背景には、ルターの100年も前から、実は宗教改革の芽は芽吹いておりましたが、この世的に強大な権力を手にしていた教会によって、異端とれ、処刑されたり、弾圧されておりました。すでに改革の流れは始まっていたのであります。それがルターの書面が、翻訳され、巷の人々にも広がったことで、各国の改革者たちを後押しし、また社会的な大きな流れを生んでいくことになったとされております。
さて、宗教改革によるプロテスタント教会が、カトリック教会に対して、その誤りを正すべきと迫った大きな理念。神さまの教えは、次の3点となっています。
第一点は、当時のカトリッックでは「信仰とは教会に属することで、信仰の証しとして善行、善い行いを積まなければ救われない」ということを申しておりました。問題になった、免罪符を、お金を払って買えば、これは善行で、支払い箱にチャリンとお金の音がすれば「救われた」「天国に入れる」と言われていたと言う記録もあります。これに対してプロテスタントは「人は、神の御前にキリストを信じる信仰によってのみ救われる」という、福音の原理を主張したのであります。
第二点目は、カトリックにおいては、神様の言葉である聖書そのものよりも、教会という組織の権威。ローマ教皇の、最近は法王といいますが、その無謬性。教皇は絶対に過ちを起こさない、霊的に間違うことはないとして、教皇の発する言葉、教会の教えを絶対の基準といたしておりました。しかし私たちは信仰と生活の基準が「永遠に変わることのないまことの神の言葉である聖書のみ」にあるとしております。
これは、聖書の正典性。聖書の経典が正しいまことの神の言葉であると、認めるところの正典性の問題にもかかわっております。教会が会議によって正典を決定したと言われますが、正典がまことに神の霊感による御言であるなら、それは神的権威であって、書かれた時から正典である。教会は聖霊の導きによって、あとからそれを認めたに過ぎない。逆に神の言葉なる正典に基づくことで教会が形成されていった、というのが私たちの福音的な聖書観です。
そして三点目は、カトリック教会では、様々な階級、位階制度がある組織で、一般の信徒。人々は、その教会組織、役職者を通さなければ、神様との交わりに与れない。神さまの言葉を聞くことも許されない、とされておりました。ですから、聖書自体もヘブル語、ギリシア語などの原文とラテン訳のみで、一般に人々はこれを目にすることも、もし目にしても読み解くことはできませんでした。実際、後にルターよって初めて新約聖書がドとイツ語に訳されています。これに対してプロテスタントは、「三位一体の神さまと私たちの間には、いかなるものも立つことができない。私たちは、聖霊のお働きによって、祈りと御言をとおして、主なる神様と交わることができる。」このような、聖書に基づく正当な原理が主張されたわけであります。
この三つをまとめて「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」と言われております。万人祭司ということで、少々余談ですが、私がクリスチャンになるかならんかと言うようなころですが、友人に、教会に行ってると言うと「どっち?」て聞かれたんですね。カトリックかプロテスタントかということでしたが、プロテスタントと言うと、友人は「じゃあ、楽なほうやな」と言いました。何のことを言っているのかと思えば「カトリックはええことせんとあかんねやろ」と言われまして。まぁ、確かにプロテスタントは信仰のみやから、その意味ではそうかなぁ・・と、向こうのことはよう分からんから・・と答えたような覚えがあります。
でも、実は逆なんですね。私たちは万人祭司ですから、一人一人が祭司として、御言と向き合い、自分で御言に聞いて、神様に祈る。大変な役目を賜っていると言えばいえるんです。これは恵みなんですけれども。で、カトリックの方は、そっちは全部神父さんや司教というか組織にお任せで、善行と言えば、ミサに出ればOKなわけですから、楽と言えば楽です。宗教改革の時代は免罪符買えばよかったんです。何をしててもですね。
それで、本日の御言に聞いてまいりましょう。本日の聖書箇所、ハバクク書の2章は4節の御言は、まさしくルターが、この「信仰のみ」。人は行いではなく、キリストを信じる信仰によって、神の御前に義とされる、という第一の主張に目覚めさせたと言われるところであります。ここをお読みいたします。
<見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。>
これは予言者ハバククにお応えになった、主なる神のお言葉で、まさしく「その信仰によって生きる」と教えられています。この個所は新約聖書ではパウロによって何度も引用されています。ローマ書1章14節、ガラテヤ書3章11節では「信仰による義人は生きる」、ヘブル書10章38節では「わが義人は、信仰によって生きる。」この信仰義認、信仰によって義とされ、救われ生かされる真理は、アブラハムの時代からそうでありました。主なる神がアブラハムを大いなるものとされたのは、行いではなく主を信じる信仰であったことが明らかにされています。実は旧約聖書はずっとそのことを示しています。セツもノアも、モーセやダビデもみなそうであります。
実際、ルターはこのハバクク書の御言葉を思い出し、ロマ書やガラテヤ書の教えに押されて、信仰のみの宣言を行ないました。しかし、このハバクク書のこの個所をよく読んでみますと、その「信仰のみ」と言うことだけではなく、「聖書のみ」も「万人祭司」ということも、ここから教えられていることが分かります。
2節と3節をお読みいたしますと、
<2:主はわたしに答えて言われた、『この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。3:この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。>
まず、ハバククは主に問いかけていました。背景には、1章からユダヤの民の背教と、また、迫りくるバビロニアの暴虐、略奪といった、自らの身に、神の民に迫りつつあるおそろしい裁きへの困惑から、熱心に主に祈り、問いかけていました。そして2章1節では、その主がお答えくださるのを、それを確信して、見張り所に立つように、目を覚まして待っていました。そして、神が応えて下さったのが2節以降の御言であります。
この2節で、主なる神がおっしゃったのは、御答えを示されるのではなく、まず
<この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、>
と、御言を書き記すこと、それも明らかにハッキリと、消えない様に記すことを命じておられます。そして、
<走りながらも、これを読みうるようにせよ。>
「走りながら読め」というのはどういう意味でしょうか。ここは、翻訳が本当に難しくて、色々な意味に読み取れます。たとえば「本当に走りながらでも読めるように」とも、「これを読んだ者が、急使、急な使いとして走ることができるように」などです。
大急ぎで走りながら、様々なものに追われて走る中であっても、その書かれた神の御言を読めるように。あるいは、主なる神の御言を得て、それを大至急みんなに知らせ、宣べ伝えるためか。明確ではありません。
しかし、いずれにせよ、そこにあるのは神がお答えくださった幻、預言を、言葉にしるして、板に書きつけて、定められた時まで守り伝えよ、という主なる神様からの直接の御命令であります。主なる神がお応えになり、預言者に書き記させ給うた御言と、それを読んで走って知らせる者、またその使者から聞いたり、読んだりするものとの間には何も存在しません。ただ、聖霊の照明、導きがあるのみであります。主が語り給うた、3節の、
<この幻はなお定められた時を持ち・・それは偽りではない>
<それは必ず臨む。滞りはしない>
この真実なる主の御計画と、それが必ず実現するというお約束。それを信じるものが生きるのであります。ここに、先に申し上げました宗教改革の原理、「信仰のみ」による信仰義認が明確に示されると同時に、御言なる聖書のみによること、また誰もが聖霊により御言の証に与れることが秘められております。聖書の大切な教え、根本的なことは、理念としてそれぞれ単独で存在している物ではありません。本当に有機的に、つながりをもって、真実な教えは他の真理とつながりを持ち、真理が真理へと導いていくように記されています。それが、聖書。生きたまことの神さまの言葉であります。
そしてもう一つ、ここでは「生きる」と言われております。信仰により「救われる」ではなく、「生きる」。父なる神を、そして今や御子イエス・キリストを信じるということは、それでもう救われるということは事実です。
では具体的に救われるとはどういうことかと申しますと、一つは死への勝利、永遠の命に生かされるということ。永遠である神様、イエス様に信じて繋がっておるなら、それはもう永遠の命を得ているのであります。先日の祈祷会でも取り上げましたが、ヨハネ伝の17章3節、6章39節にその、復活と永遠の命が教えられています。
さらに、実際に、今この世の生を送っている私たち。私たちのこの人生においても、御言によって生かされるのであります。しかもハバクク書では、信仰義認の教えは、平和な平安の内に示されるのではなく、却って、恐ろしい時。襲い来る暴虐や苦難の社会の中での、生き抜く力であることを教えています。なぜなら御言は、主なる神が顧みてくださること。みていて、御手を差し伸べて救ってくださること。いつでも、いつまでも共にいて下さることを、神さまご自信が私たちに約束してくださっているからであります。
そして、私たちは自らの力ではなく、ただ恩寵によって与えられた信仰と、御言を通して働かれる聖霊のお働きによって、私たちは少しずつ、その憐れみと愛に応えるべく、み心にかなう生き方へと自然と導かれていくんです。これが、自分の努力や根性や修行によるのであれば、これ程あてにならない善行はありませんが、上よりの賜物として、御言を通して与えられる恵みであり、恵の生活であります。ぶどうの枝は、自分で実をつけるのではありません。幹なるイエス様に繋がっておることで、霊的栄養が注がれ、自然と良き実を結ぶのであります。
本日は、宗教改革記念礼拝にあたりまして、この「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」という、御言の大きな恵みをあらためて覚えて、私たちの人生が少しでも、主の御栄光のために用いられますよう、感謝しつつ祈りたいと思います。
(以上)