神のご計画
1:3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。エペソ人への手紙 1章 3節から7節
エペソ人への手紙、1章のみ言葉であります。
この手紙は、先週もお話しした通り、パウロによる獄中書簡」と呼ばれる一連の手紙の中の一つで、アジアの諸教会向けに書き送られたものです。この書簡には、一貫して「教会」、神の教会というテーマが貫かれており、初心者ではなく、既に教会において信仰生活を送っている人々に、霊的にも、また生活においても、一層の進展を図るために書かれています。そのため、パウロが他の書簡などで示してきた教えが、教理的にまとめあげられた書簡と言うことができると思います。
前にも申し上げました通り、パウロはローマ帝国下のユダヤ以外の異邦人への伝道を行い、教会をたててまいりました、こうして広がっていった教会は、そこでは異邦人とそしてユダヤ人が混じりあい、差別なくキリストにあって一体となった教会の姿があり、当時これは新しい組織といえるものでした。全体のテーマは、4章13節にあると考えられています。そこをお読みいたします。新約聖書304頁です。
<わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。>
イエス・キリストへの信仰によって、神の民とせられた、その集合体であるところの教会。当時の世に、新たに生み出された、この教会の一致と言うことであります。
1章ではこの教会というものが、どのようにして生まれたかと、いうことが言われますが、その初めは一人一人の選ばれた民、教会員の選びからであります。そして、それは実は、唯一の生ける真の神の、その三位一体というご本質に、深く、硬く繋がっておるということが、やがて順に明かされていきます。
本日は、まず4節から5節に聞いてまいりたいと思います。
<4:みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、5:わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。>
この主語は、3節の<わたしたちの主イエス・キリストの父なる神>です。まず、父なる神が、天地の作られる前から定めていて下さった。新共同訳ではそれこそ「天地創造の前に」と訳しています。旧約聖書を一ヶ所引きましょう。詩篇33篇の11節、旧約聖書774頁です。第33編11節
<主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみ心の思いは世々に立つ>
とこしえに、とあります。すなわち、神は永遠の内からご計画されていた、ということであります。ただ、図られた、計画した、というだけではありません。そのみ心の思いは世々に立つというとおり、神様のご計画はイコール、実際の現実の世に実現する、ということであります。それゆえ、5節では定められたと言われております。
この詩編はウェストミンスター大教理問答の、問12「神の聖定とは何であるか」という問いに対して、
「神の聖定とは、神のみ旨による計画の、賢く、自由な、そして清い決定です。それによって神は、永遠の昔から、ご自身の栄光のために、時間の中で起こるすべてのことを、特にみ使いと人間に関して、あらかじめ不変に定めておられました。」という答えの引証聖句になっています。すなわち世界の、創造に先立つ、三位一体の神様の、み心の内に定められたご計画であります。
人間の計画は、個人でも会社や国家でも、いろいろ計画を致しますが、一部の事がらで、実現することもしないこともあります。計画が変更されることもあります。しかし、全能の主なる神様のご計画は、まさに時間のうちに起こること、全てにおよび、また真実なる主にあっては、変更も取り消しも、計画倒れということも、一切ないのであります。ですから、逆に、神様のご計画にないことは一切起こりえない、ということでもあります。
この神様のご計画、私たちには計り知れない英知と、深いみ心からくる聖定ということを覚えるなかで、気を付けなければならないことが一つあります。当然神は、人の堕落。罪を犯すということもその聖定の内に置かれますが、罪に関しては許容的であるということ。つまり罪の責任は、あくまで人にあり、神様に負わせることはできないということです。人は機械ではなく、自由な道徳的存在としてつくられました。特別に自由な存在として、罪を犯し得る自由を与えられました。そして罪を犯す。その罪の責任は人間の内にあり、神様のものではないという、あたりまえのことではありますが、一つの神秘であります。人間の理性だけで考えるのではく、み言葉の前に頭をたれ、これに聞くことが求められることであります。ヨハネ第一の手紙1章の5節で「神は光であって、神には少しの暗いところもない」と言われております。
さて、エペソ1章4節5節では、何を定めておられたか、いうことですが、ここでは、私たちの選びということが言われております。定めとは「前もって定める」「予定する」という言葉です。父なる神は私たちを、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるように、永遠より選んで下さっていた、ということが明言されます。それは、全能の父なる神様が、世の初めより、いやその前から、そのままであれば罪のために、まことの神を知ることなく永遠の滅びに陥っていく、全人類の中から、いくらかの民を、自らの民として天国の救いにお入れになる、子として御国の家族の内に迎え入れて下さる、ということであります。この救いの選びのご計画、お定めのことを「予定」と申します。
ここで、特に私たちが注意したいのは、
<みまえにきよく傷のない者となるように>
というところであります。どうして、クリスチャンが神の選びにあずかったかと、いうことは、選ばれたものが聖くて、傷がない、神にふさわしい者だから選ばれたのではない、ということであります。傷の無いものになるように、ということは傷があるんです。その上で選んでくださった。
パウロが、御前に聖く傷がない、と言ったとき、これを読んだ人々はすぐ、これは主なる神への捧げものに例えている、ということがわかっていました。レビ記に定められているとおり、神様への捧げものとして選ばれるのは、傷の無い、全き生け贄だけでありました。この傷の無いものが、神様のものとして聖別されたていたのであります。
それは罪ある人の身代わりでありましたけれども、人自体は完全に罪の内にあって、御前に傷の無いものは誰一人いないということを言っています。ただお一人、イエス様を除いてということであります。私たちは傷があって、選ばれるのにふさわしくはありませんけれども、キリストによって、「傷がない」と見なしていただき、選んでくださった。そして、選ばれることで、恵みが増し加えられ、だんだんと傷がないものになっていく、されていくということであります。
ここが、この世における選びの基準と、聖書の違うところ、真逆なところです。この世的には、普通は立派だから救われる。努力して勉強したから、鍛えたから選ばれて、学校や会社やさまざまなところに選ばれる。その人に力あるから認められ、受け入れられる。しかし、それは一時的なことで、移ろいやすく不公平。本当の救い、光栄なこととは違う。永遠の祝福に満たされる選びは、その基準は私たちのうちにはなくて、神様にご主権があり、測り知ることのできない神様のおん意思、お定めによるのであります。一方的な、恵みと憐れみによるのであります。
恵みとは、本来与えられるはずでなない、過分な賜物を賜ること。憐れみとは、本来与えられるべきものが与えられない、つまり与えられるべき罰とその苦痛が与えられない、という意味であります。あたえるに値しない私たちに恵みをあたえて下さる、永遠の刑罰を受けるにふさわしい私たちを地獄ではなく天国に入れて下さる。ということ。
そしてその手段は7節。
<わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。>
それは、全てイエス・キリストが十字架で流された、血の贖いによって、ということであります。3節から5節の間で、「キリストにあって」という言葉が、3回繰り返されます。6節では「御子にあって」です。主なる神は、キリストにあって私たちを祝福し、しかも「天上で霊のもろもろの祝福をもって」というのは、「天にある、あらゆる霊的祝福をもって」という意味で、とてつもなく大きな祝福であります。そうして、キリストにあって私たちを選び、キリストのよって、神の子としてくださったのであります。
ここに、父なる神と、御子イエス・キリストの共同作業といいますか、愛に満ちた神様の救いの御業が語られています。6節に<愛する御子によって>とありますように、父なる神は、愛しておられる御子をも、私たちのために生け贄とするという、さらに大きな愛を示してくださいました。これを思う時、私たち決してその大きな愛に、永遠に変わることのない神の愛に、ふさわしい者であると、自負することは適わないのであります。
この救いに選ばれたということ。これは、人の知恵では最初は分かりません。初めて聖書に触れるのも、たまたま手元にあったから、神秘的なことや宗教に興味があったとか、研究のためとか、家族がクリスチャンであるとか千差万別です。教会にくるのもそう。最初は親や友人に連れられてきたとか、クリスマスにちょっと覗いてみたとか、知り合いがいたとか、この世の生活に困難を覚えたり、病や高齢、または心のむなしさなどから救いを求めたり。本当に一人一人、人それぞれです。しかし、自分でたどり着いた、あるいは自分にはこれがあっていたから、選んだ、と思うわけです。自分の思い、自分の感情や感覚。そこに理由を持っています。ただ、それでいいんです。それが普通で、罪の内にある身にはみ心というものが見えてまいりません。
しかし、実際は、現実にはこのみ言葉にありますように、神様がキリストにあって、永遠より選んでくださっておった。私たちが神様を知るより、そのもっと、ずっと前から、神様は私たちをご存じで、見ていて下さって、それぞれにふさわしい時に、相応しい形で召して下さったのであります。そして、み言葉に聞き、祈り、礼拝を捧げる信仰生活の中で、徐々にみ心がしめされ、それにかなうように近づけられていくのであります。ここに、選びの主体は神様で、神様に全てのご主権があるということが教えられています。
もう一度6節をお読みいたします。
<これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。>
これは、この選びの目的であります。選ばれたものの集まりである教会の目的でもあります。「私たちがほめたたえる」ために。愛する御子を褒めたたえる、賜った恵みを、与えて下さった神様ご自身を、その愛の大きさを知り、祝福の豊かさをしり、その栄光をほめたたえるため。これが、神様の選びの目的であります。
私やたちはどうして教会にくるのか。なぜ日曜日に集まってくるのか。これはもちろん私たち自身が、神のみ言葉、聖書に聞いて、救いを、魂の糧を求めて。またイエス・キリストをよく知って、信仰生活の支えと、大きな喜びとする、という私たち自身の心身の益のためということもあります。それも恵みです。しかし、私たちがクリスチャンとされたということは、それだけではなく、神の栄光を褒めたたえるためである。これが源であります。人間の生きる、その人生の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである。と、ウェストミンスター小教理問答の最初の答えであります。
そこには「永遠に喜ぶ」と永遠といわれています。それは、天国での永遠が約束されている、選ばれているということを前提としていることがわかります。そこに神様の本当の目的があって、私たち自身の本当の生きる目的も、同じくされていくわけであります。そうしてそれは、やがて召されて、御国に迎えて頂いてもそこでも続いていく、永遠の喜びであります。
この世間の様々な集まり。また信仰と言われるものがありますが、多くの偶像礼拝は、いかにご利益があるか、自分に都合がよいか、あるいは心地よいか、思い通りかといったような、自分中心であります。しかし、今朝、私たちは、キリスト教の信仰生活というものにおいては、神の栄光を褒めたたえるということが第一であることを教えられました。そして、そのために神様が永遠よりご計画されていた、そして実現したこの救いの選びの御業に与っていることを、み言葉に聞いてまいりました。
あらゆる祝福に満ちた、神様による選びという聖書の真理。キリストの教会は、選ばれた神の民の集合であって、その基である一人一人の選びは、父なる神様の、永遠のご計画が源であり、また主が全てのご主権をお持ちであることを覚えて、新たなこの一回りの信仰生活の力としたいと思います。
<みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。>
アーメン。(以上)