<恐れるなザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ>今日もみ言葉に聴いて参りましょう。
今お読み頂いた箇所は、バプテスマのヨハネの誕生が告げられる場面であります。ルカによる福音書は、1章3~4節にありますように、歴史家でもあったルカによって、当時の出来事を詳細にまとめイエス様の福音についての出来事が、確かなものであることを示す意図をもって書かれたものでありました。また「テオピロ閣下よ」とあるように、ギリシヤの人々に宛てて書かれたものでありました。イエス様の人となりや出来事について、できるだけ詳しく正確に述べていこうというルカによる福音書には、他の福音書に見られない記事が多く含まれており、このバプテスマのヨハネに関する記述も、ルカによる福音書にのみ記されていることであります。
1章5~7節 一組の夫婦について記されています。祭司ザカリヤとその妻エリサベツです。ザカリヤは大祭司ではなく、聖書の中ではこの記事だけに名前の出てくる人であります。妻エリサベツはアロンの家の出でありました。ザカリヤという名は、「主に記憶される」という意味であり。エリサベツは「神はわが誓いなり」という意味であります。
二人は神さまの前に正しい人であり、主の戒めと定めを、落ち度なく守る敬虔な人たちでありました。しかしエリサベツは不妊の女で、二人は最早老齢でありました。
1章8~10節 聖所での勤めがつつがなく執り行われておりました。注解書によりますと、祭司アロンの子孫は24の班に分かれ、ザカリヤの属するアビヤの組はその第8班にあたります。各班は一週間ごとに交代して宮の祭事にあたります。そして各班の中から籤で当番を選び、一度当番を勤めたものはもう一度選ばれることはありませんでした。
決まり通りに事が進み、ザカリヤは籤を引いて、聖所で香を炊く勤めをしておりました。人々は聖所の外、男子の庭、夫人の庭に集まって祈りを捧げておりました。祭司の捧げる香の煙とともに、自分たちの祈りが神様の下に引き上げられるという信仰によるものでありました。旧約聖書の時代から引き継がれて、全く変らない人々の暮らしです。その日々変らない静謐な日常に、しかし突然の出来事が起こります。
1章11~12節 聖所で一人香を炊いていたザカリヤに主の使いが現れて、香壇の右に立ったのです。自分以外は誰もいない聖所に主のみ使いの現れ、神さまの大いなるみ業の前触れでありました。しかしザカリヤは突然の出来事に動揺し、恐怖に駆られました。
1章13~17節 「恐れるな、ザカリヤよ。あなたの祈りが聞き入れられたのだ」み使いは言います。「恐れるな」この言葉は、受胎告知のときに乙女マリアに告げられた言葉であり(1章30節)、荒野の羊飼いたちに救い主の誕生が告げられた時の言葉(2章10節)であります。み使いが現れ、大いなる栄光に照らされたとき、人々は恐怖に駆られます。しかし、恐れるなとみ使いは告げます。私は大いなる出来事をあなたに伝えにきた。大いなる恵みを、あなたに伝えにきた。
ザカリヤに告げられたのは、彼の妻が男の子を産むという知らせでした。不妊の女として年老いたエリサベツが男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。(ヨハネとは「神は恵み深し」または「神の恩寵」という意味です)
1章14~17節 そして、ザカリヤに与えられる男の子がザカリヤの喜びであるに留まらず、多くの人の喜びとなることが告げられます。
彼は主のみ前に大いなるものとなる。主の大いなる器としてキリスト・イエスの先触れとなるのです。葡萄酒や濃い酒を飲まないのは、ナジル人の証であります。母の胎内にいる時から神さまに聖別されて、聖霊に満たされ、肉的な欲ではなく、神さまに仕えて霊的な人生を歩む者となるのです。
そして多くのイスラエルの人々を、主なる神さまの下に帰らせる働きをするのです。
<彼はエリヤの霊と力を持って、みまえに先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう>これはマラキ書にある預言者エリヤの姿です。(マラキ書4章5節 旧約聖書1326頁)
1章13節にある「あなたの祈りが聞き入れられた」というのは、もちろん子どもを与えてほしいというザカリヤ夫婦の願いでありました。しかしそれだけに留まらず、イスラエルの救いを求めるという人々の願いでもありました。ザカリヤの下に生まれる男の子は、夫婦の喜びであるのみならず、救い主イエス・キリストの先触れであり、キリストのために道を整える働きに召された者でもありました。
1章18~20節 しかしザカリヤはみ使いの言葉を信じることができませんでした。自分も妻も老人なのにと、不信仰の言葉を口にしてしまいます。突然に、自分の願いがあまりにも大きくかなえられるとき、人は思わず不信の思いに捕われてしまいます。祭司であるザカリヤもそうでした。み使いは(大天使)ガブリエルと名乗り、時がくれば必ず成就する自分の言葉を信じなかった罰として、ザカリヤはそのことが起きるまで、口がきけなくされてしまいました。それは罰ではありましたが、そのことが必ず成就する証とも言えるものでありました。
1章21~23節 ザカリヤはいつもより長時間聖所に留まっていたのでありましょう。人々は怪しみながら彼が出てくるのを待っていました。そして出てきたザカリヤは口をきくことができなくなっていたので、人々は彼が聖所で何か不思議な体験をして、驚愕のあまり口がきけなくなったのだろうと考えました。ザカリヤは口がきけぬまま奉仕を終えて家に帰りました。
1章24~25節 ザカリヤが奉仕を終えた後、ガブリエルが告げた通りエリサベツは身ごもりました。エリサベツは5ヶ月ばかり身を隠して暮らしました。主に賜った大切な命に責任の重さを感じ、自重したのでありましょう。そして主が自分を顧みられ、人々の間から自分の恥を取り除くためにこのようにしてくださったと、賛美しました。当時、不妊であることは神さまの恵みを得られない、神さまの愛顧を受けられない証しとされていました。それだけに、最早老齢故にあきらめていた身の懐妊の喜びは、大きなものがあったのです。
この出来事を、ある神学者はメテオ=彗星のようだと、形容しました。旧約聖書の時代から新約聖書の時代へ、およそ400年の年月が流れていました。イスラエルの人々は神さまの約束、いつか救い主が来られる、自分たちの救いの日が来るという約束について知ってはいましたが、何事もおこらない日々の積み重ねのうちに、彼らの生活は単調な日々の繰り返しになっておりました。聖所の祈りも、日常的な勤め言わばルーティンワークとなっていました。しかしその単調な日常に、突然神さまの恵みが飛び込んできたのです。暗い夜空に突然彗星の光が走るように、人々の世界に神さまの恵みの光が差し込んできたのです。
ザカリヤの妻エリサベツは不妊の女で、二人は老人でありました。最早子どもは望めない。人間的な考えでは望みが絶たれたところへ、あなたの妻は男の子を産むという喜びの知らせが届けられました。
このことは、アブラハムとサラを思い起こさせます。またサムエルの母ハンナのことも思い起こさせます。神さまは、人の力が及ばない人の望みが絶たれたところに、大いなるみ力を現されます。
いよいよ時が満ちて、神さまのご計画が実現するのです。ルカが記したこの出来事は、イエス様の先触れであるバプテスマのヨハネの誕生を知らせるものでありました。そして年老いた不妊の女に、主のみ力が働いて子を宿したことは、やがてみ子を宿したマリアの励ましとなり、マリアを支えるものとなるのです。本当に神さまのなさることは、ご配慮に満ちた素晴らしい ものであります。
アドベントの今、み子イエス様を遣わしてくださった神さまのご愛と憐れみを思うのとともに、必ず成就する神さまの約束の確かさ、神さまのご計画の下に生かされている感謝と喜びとを、深く感じるものであります。
(以上。滝田善子 教師)