待ち望まれるもの

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待ち望まれるもの

1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
3 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、
4 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
5 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。
6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。イザヤ書 11章1節~9節

<エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。>


 イザヤ書11章1節から2節のみ言葉であります。救い主の到来を予言した、メシヤ預言と言われる有名な予言の一つです。讃美歌の96番にも「エサイの根より」とうたわれ、「イザヤの告げし救い主は」うたわれている通り、救い主がお生まれになる約700年前に、イザヤが予言し、ユダヤの民がその実現を待ち望んでいた、み言葉であります。


 このイザヤ書は、全体としてメシヤの預言の書ではあります。この11章の前にも、やがて救い主が与えられるという、予言。主なる神のお約束が記された有名な個所がありますので、まずそちらから聞いていきたいと思います。


 最初は、先週も少し触れましたが、イザヤ書7章14節(旧約952頁)です。


<それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の娘を産む。その名はインマヌエルととなえられる>


ここでは、インマヌエル、つまり「神われらと共におられる」と言う意味です。この名が示す通りのお方が、やがて遣わされるということが約束されます。これは、当時、分裂した北イスラエルと紛争状態にあり、かつ強大な軍事国家となっていたアッスリヤの脅威の中で、その行く末を心配していたユダ王国。その王アハズに対し、主が言われた預言でありました。そのため、おそらく当時は、この主のおことばが、おそらく近々実現することであって、じつは700年も先に訪れる、まことの、世界全体の救い主を告げ知らすものであったという、そのような認識はあまりなかったかもしれません。


しかし、主なる神のお約束。真理の奥義は、徐々に明らかに示されてまいります。それはイザヤ書9章の67節から見てまいりましょう。旧約聖書954頁です。


<ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなさるのである。>


 ここに至って、約束されたメシヤがどのようなお方であるか、ということがだんだんと明確に明かされてまいります。第一はこの方、インマヌエルが「われわれのために生まれられた」「われわれに与えられた」お方であるということ。誰のためでもない、私たちのためにということがいわれます。


 そして「大能の神」「とこしえの父」と言われるということは、私たちにあたえられた、その男の子が「神様」であること。人間の王という位に着く、と言うことではなく、生まれてこられるみどりごは神様ご自身であることが示されています。その上で、「まつりごとはその肩に」。7節で「その国を治め・・とこしえに」とありますように、そのご主権。その治められる国のご主権をお持ちである。さらに、それが永遠である、ということが予言されていたのであります。


 そうして、本日のみ言葉。11章におきまして、さらに主がお約束されたメシヤの、その規模といいますか、大きさというものが示されてまいります。


 11章の1節をお読みいたしますと、


<エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、>


とあります。「エッサイの株から芽が出」と主は言われました。このことは、大事なことを示しています。先の9章の預言に「ダビデの位に座して」とありました通り、普通でしたら。イスラエルを豊かに強く収めた、最も偉大な王で「その子孫の王国を長く固く立たせる」と主がいわれた、ダビデの名が出てきてもおかしくはないはずです。実際、救い主イエス様は、ダビデの末にお生まれになるのですから。しかし、ここではあえて、そのダビデの父であるエッサイの名が出されています。エッサイは、ベツレヘムのただの羊飼いで、普通の平民でした。王なる救い主がお生まれになる、その源に平民エッサイを挙げているということです。


神に選ばれて、サムエルから油を注がれて、最初の王サウルの後、敵対する国を退け、民族的な英雄となった王ダビデでしたが、やがて彼もまた、その権力の内に多くの罪、神に背く行いを重ねてしまいます。さらにここでは「エッサイの株」と言われます。株から目が出るということは、その幹は既に切られているあるいは折れているということであります。イザヤの時代、既にダビデによって栄えた王国は分裂し、衰退し、滅亡の危機を迎えていました。それは、エッサイを根とした、歴史上にそびえたつ大木の幹、ダビデの栄光がすでに罪によって枯れてしまっている現実を表しているわけであります。


しかし、真実なる神がダビデに約束された通り、肉的にはダビデを通して、ダビデの父であるエッサイから繋がって、メシヤがおいでになることを明らかに示されたのであります。


続いて、2節では、この約束されたメシヤのご性格、どのような方かが示されます。それは、


<その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。>


霊であられる。それもその上に主の霊がとどまるお方。この預言は、700年の後、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、まさにこの通り「天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下って」きたとき、実現し明らかにされたのであります。


 知恵と悟り、深慮と才能と表現されていますが、これらも主を知り主を畏れるという、まことに主なる神との霊的な一体感の内に表される、み心を完全に理解したもう御子ゆえのご性格であリます。


この方は「主を恐れることを楽しみとし、」というように、まことに主を知ることは、かしこみ恐れるのですが、それは恐怖ではなく、全能の主への信頼と敬虔な態度。主を畏れるということは本来の、神との交わりに内にある、ということであります。


 3節から5節までは、このメシヤによる、ご主権を持たれた救い主、キリストによる統治。治められるということが記されています。それは、目で見て、耳で聞いてではなく、正義と公平をもって、裁き、定められる。それもここでは貧しいものをさばきとありますが、これは、社会的な権利を奪われた、寄る辺の無い弱いものという意味です。柔和な者と表現されているのは、どちらかと言えば、地上において、国の中で搾取される貧しい者のために、と言う意味合いです。ですから、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する、と訳すこともできます。


 そして、それを実行されるのは4節後半に「その口のむちで」とあるように、地上的な権力、武力といったものではなくて、その言葉による、ということが示されるのであります。口から発せられるみ言葉に、その力と権威を備えたお方であると言うことであります。


 


 ここから、6節から9節においては、この約束のメシヤが来られて、治められるその結果訪れる世界が描かれてまいります。


<おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。>


 ここで、イザヤが見ていたのは、創世記に記された、神が創造された世界。エデンの風景だと言われております。人の罪によって堕落することなく、エデンが保たれておったなら、実現したであろう世界の姿であります。創世記9章の3節で、全地を覆う洪水が治まったのち、神はノアにこう仰いました。


<すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。先に青草をあなた方に与えたように、わたしはこれらのものを皆あなた方に与える」


これは創世記の1章30節で


<また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには食物としてすべての青草を与える>


と宣言されたことを受けてのお約束でした。1章の30節は神が創造を終えられた第6日のことで、まだ堕落以前、被造世界は、はなはだ良かったとされた時であります。イザヤは、メシヤがおいでになることで、このように、全世界が、創造された時のみ心にかなった、善き姿に回復してくださる、ということを予言したのでありました。


この時代、近隣諸国との争いが続き、強国による侵略におびえていた当時の預言としては、不自然なくらい、平和な理想の社会、世界が予言されています。しかし、主なる神が約束したもうたこと、その予言というものは、一部が実現して一部は無視されるといった類のものではあり得ません。全てが、み旨に定めたもうた時に、確実に実現する約束であり、現実なのであります。これを心に留めたいと思います。


 この預言のメシヤ。多くの国民が背を向け、ユダヤの民が待ち望んでいたメシヤは、ただユダヤ民族の、国を豊かに強大にしてくれるといったような民族的なものではなく、また一人一人の魂の救いだけに留まるような、個人的な救い主でもありません。確かに、それもまた事実ですが一部にすぎません。メシヤすなわちイエス・キリストは、先日エペソ人への手紙から学びましたように、「天にあるもの、地にあるものを、ことごとくキリストにあって一つに帰せしめる」ために神がお送りくださった、一人子であり、全世界の宇宙の救い主であることが、ここですでに予言されているのであります。


このことはローマ人への手紙8章19節(新約243頁)でも、「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と証されています。


 このような救い主が与えられるという予言。主なる神様のお約束に聞いて、ユダヤの民はこれを待ち望んでいたのでありますが、果たしてここに主が言われた通りのことを期待していたかどうか。きちんと理解できていたかは大変疑問であります。長い歴史のなかで、この世の困難もあるかもしれませんが、人は罪故に、主なる神様のみ言葉さえ、曲げてしまいます。ユダヤ人の誇りは神の選びの民であるということでした。神が、繁栄とメシヤを約束された、アブラハムの子孫だということを誇りとしていました。しかしこの誇りは、実は、弱く、小さく罪深いものを憐れんで、恵の内に選んでくださった、主なる神を誇るのでなく、選ばれておる自らの誇りでありました。それゆえ、自らの欲望や浅はかな考えで、神様の言葉、予言を都合よく解釈したり、一部だけを強調したり、付け加えたりして、結局は神様の上に自分を置くという、罪の内にあったのであります。


 イエス様が、実際にこの世に来てくださったとき、彼らの間違い、頑なな自分中心の、自らを誇りとする態度、誤った生活や礼拝が明らかに指摘され、徹底的に非難されたのでありました。このユダヤに民が陥っていた過ちは、しかし、当然のことでありました。人が最初に神様に背き罪を犯した際も、そのきっかけは、エバが蛇の誘惑に対して、神様が仰っていないことを言われたように言い、仰ったお言葉を、自分に都合よく言い換えたところにあったことを覚えたいと思います。そして、それ以来、私たちもまた、今やイエス様を救い主と信じる信仰を与えられておりますが、エバやユダヤの民と全く同じ、罪の世界の内の置かれているのであります。本当に、み言葉に真摯に聞いて、救い主なるイエス様に繋がっていないと。そのように聖霊が支えて下さっていないと、あっというまに同じ過ちを犯す存在なのであります。


 クリスマスを間近に迎えた今朝、季節も、また私たちを取り囲む環境も厳しさを増しておりますけれども、どうかこの全被造物が待ち望んでいた、イエス様のご降誕を、共に喜び、感謝の讃美を捧げることができますよう、主の一層のお導きとお守りとを願う次第であります。     (以上)

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