明星は地の底に輝く
2:1)そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2)これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3)人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4)ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5)それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6)ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7)初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:8)さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9)すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10)御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11)きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12)あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13)するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14)「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。ルカによる福音書 2章1節~14節
<13:するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14:「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」>
ルカによる福音書、2章13節、14節のみことばです。今朝は、私たちの救い主、イエス・キリストがこの世に来たり給うたことを記した、この有名な個所からみ言葉に導かれたいと思います。
この福音書をしるしたルカと言う人は、キリストの弟子の第2世代と言うことができると思います。イエス様の、ご生涯をともに過ごしたり、直接の教えを受けた使徒ではなく、その使途から教えを受けた者、という意味であります。ルカは、まずパウロより教えをうけ、その伝道旅行の善き同伴者でありました。ローマで最期を迎えるパウロに最後まで付き添った人でもありました。またルカの職業は医者でありました。当時から、高度な教育を受け、学識もあった、使徒たちの中では数少ないエリートであったと言えます。
その学識の高さは、ルカが記した、この福音書および使徒行伝からも伺うことができます。そこで書かれているギリシャ語は、文体用語で、いわゆる話し言葉ではなく、正式な文書に用いられる、格式ある文章用語が使われています。同時にルカは伝統的に「歴史家ルカ」とも呼ばれていました。それは、この2章の1節2節にありますように、本当に歴史的に、時代特定が可能な正確な記録を表し、旧約聖書の予言に成就が、だれの目にも明らかな、歴史的事実として、起こったのだ、ということを証しすることになりました。
実際、この福音書の書き出しではこのように語り始めます。
<わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。>
ここでは、これから記すことの主題、「私たちの間に成就された出来事」。「すでに多くの人が手掛けた」という前例。「初めから詳しく調べている」という調査。「順次正しく書き綴る」という手段・計画、そして「すでに聞いていることが確実であることを知ってほしい」という目的が、整然と述べられています。ルカが記したこの福音書によって、救い主イエス・キリストの福音は、まさに歴史的事実として、全世界へと宣べ伝えられていったのであります。それは、この福音書に続いてルカによって記された、使徒行伝。イエス様の、聖霊による世界への宣教の御業が明らかにされることと、密接につながっていると言えます。
また、「初めから詳しく調べた」とルカが言っている通り、かれはパウロを始めとした多くの使徒たちから話を聞いています。それだけでなく、パウロと共にエルサレムに行った際は、イエス様を間近で見てきたエルサエムの人々、さらには母マリヤや、弟ヤコブらイエス様の家族とも交わり、話を聞いています。本当に「調査」という言葉がふさわしい行いで、まさに記者であったということができます。
さて、そのルカが記したイエス様ご誕生のいきさつが記された、本日のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。ここは、クリスマスの度に目にするみ言葉で、それでも毎回ひきつけられてしまう、美しくドラマチックで、また印象的で、読むたびに喜びがもたらされるところであります。
ですから、本日は大きく3つに分けて、イエス・キリスト生誕の歴史的事実ということ、それからどのような方が、どこに来られたか、という視点からみ言葉に導かれたいと思います。
歴史的な面としては、先に申し上げた通り、1節2節で、ルカが正確に記しています。これは他の歴史書や記録からも読み取ることができる、何時、誰による人口調査という、社会的な出来事として、客観的に示されました。ここの救い主誕生の歴史的事実が証明されるのであります。
そこで次に、13節から
<13:するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14:「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」>
「おびただしい天の軍勢が賛美し」た。数えきれない軍勢がそろって送り出すのは、さらに賛美する相手は、その国の王、支配者、または全権大使ということになります。すなわち、天の国でご主権をお持ちになった方。その方を、役目に着く地へと送り出すために、天の軍勢が現れたということであります。
先週聞いたイザヤ書の9章で約束されたのは、このお生まれになった男の子が「大能の神、平和の君」であると予言しました。
有名なヨハネによる福音書の書き出し(新約135頁)では
<1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2:この言は初めに神と共にあった。3:すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4:この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5:光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。>
永遠より神と共にあられた、言葉であって、命であって、光であられるお方。すべてのもの、この世界、被造物はこの方によってできたと言われています。
コロサイ人への手紙1章15節(新約314頁)では更に具体的に次のように表現しています。
<1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。16:万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。17:彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。>
生れた御子は、見えない神の形、すべての者はこの方にあってこの方のためにつくられた、と明かされています。この夜、この地上にお生まれになった方は、どこかの国に,のちに英雄となる人物が生まれたとか、特別な生い立ちの元、大いなる立身出世を果たした天才が生まれたとか、そういう類のもでは、全くなかったということであります。地上に来られたのは、天地の主権者、創り主であり、保持者であり、支配者であられる、まさに神様であったということが示されています。
その明確な証言は、11節で御使いが述べています。<この方こそ「主なるキリストである」>と。主なるキリストの「主」は、いわゆる聖なる神の御名、契約名ともいわれる、聖四文字の事です。救い主は神ご自身であることが、はっきりと示されたのであります。
まさに、地上のどこからかではなく、天から、御国から来られた。人が落とされた、その上から来てくださった、まさにご降誕と言われるゆえんであります。少し戻って6節7節をお読みいたします。
<2:6ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、7:初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。>
驚くべきことに、神の御使いと天の軍勢が総出で送り出された、神の一人子が遣わされた先は、宮殿でも神殿でもなく、大いなる山の頂上でもありませんでした。地上の、宿の外。馬小屋の飼い葉おけの中でありました。今で言えば、旅館かホテルの外にある駐車場で生まれて、何か道具を入れる箱かコンテナに寝かされているようなものです。そのような、明かりも、暖を取ることも十分でない、地の片隅の、貧しくつつましく耐えしのんでおる、そのようなところに、神なる救い主が、人の赤ん坊として、お生まれになったということであります。ヨセフとマリヤ夫妻は、後日この初子のために、律法に定められた犠牲を捧げる際も、本来は子羊を捧げるところ、貧しい者のために定められた救済措置である鳩を捧げるという、本当に庶民でありました。
ここに、主なる神の大いなる恵みと憐れみとが示されているのであります。天においても地においても全てのご主権を持たれた方は、本当に低い者。弱く、貧しく、地の底にあるもの。谷底を歩くものに目を止め、御手をのばし、光を与えてくださるのであります。
先々週でしたか、この人類の歴史上、最も大きな出来事。それはこのイエス様がこの地上に来てくださったことです、と申し上げました。事実、その通りなのでありますが、その最大の出来事が、このような貧しい旅路の途中の、馬小屋の中に顕されたわけであります。そして、この最大の出来事を知らされたのが、野宿していた羊飼いであったということ。当時の神殿で、律法に基づく儀式を取り仕切り、神に仕える者、神に取り継ぐものと自認していた、祭司長や祭司たち。メシヤを待ち望んでいたはずの律法学者などではなく、本当に一庶民。貧しい、厳しい生活の中にあるもの達に、天の神の栄光が顕され、予言された真の救い主の誕生が示されたと言うことであります。マタイ伝ではさらに、異邦人の博士たちに救い主誕生が教えられます。これは、神の選びの民であったはずのユダヤの祭司たちにとっては、ある意味屈辱的なことであったことでしょう。
このことは、心に止めたいと思います。この世の権威、選びの民という血統や身分を誇るもの、神の御前に自らを義である、律法を遵守する、律法の守護者であると誇るもの。しかし、主なる神のみ心ではなく、この世的な、肉的な欲望と、職業的な態度。選ばれたという高慢のうちにあった者たちを、主はことごとく否定し、打ちのめし、まことのみ心をお示しになられました。救い主のご降誕は、彼らが予想していた時でも、思い描いていた形でもありませんでした。蔑まれていた、ナザレの地に住む、貧乏な大工夫婦のもとに、飼い葉おけの中に救い主はおいでになりました。しかし、主なる神が実現されたのは、まさに聖書に約束された予言通りのことであったということです。エッサイ根、ダビデの末で、ダビデの地ベツレヘムに,おとめが聖霊によってみごもってお生まれになったのであります。
主イエス様は、黙示録22章16節(新約409頁)でご自身のことを次のように表しておられます。
<わたしはダビデの若枝、また子孫であり、輝く明けの明星である>
明けの明星とは、天に最も大きく輝く星であります。明けの明星が天に輝く時、それは朝の訪れを意味しています。まさに、不信仰の闇の夜が明け、永遠の命に至る救いの光が世を照らす。その光は、闇夜の内にいることに気づかないものに、闇を教え、光りに目を向けるように迫る、天の主の愛の光でありました。
この、救いをもたらす光が、天から、私たちの住む地上の、しかもこの世の権威が蔑むところの、地の底においでになり、輝きを放たれた。このような測りがたい主の憐れみと恩寵を覚え、また主を信じ、より頼んで歩むことのできる幸いを覚えて感謝したいと思います。罪深く弱い私たちが、思いもよらない困難の中に置かれながらも、主のお守りの内に、救い主、イエス・キリストのご降誕を喜び、共にお祝いできますこと、あらためて感謝いたしましょう。 (以上)