主は倒れる者をささえられる
「詩篇145篇」
8) 主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。
9) 主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。
10) 主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。
11) 彼らはみ国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、
12) あなたの大能のはたらきと、み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。
13) あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。
14) 主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。
15) よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。
16) あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。
17) 主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、
18) すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。
19) 主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。
20) 主はおのれを愛する者をすべて守られるが、悪しき者をことごとく滅ぼされます。
21) わが口は主の誉を語り、すべての肉なる者は世々かぎりなくその聖なるみ名をほめまつるでしょう。詩編 145篇 8節から21節
<主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。>
詩篇145篇14節の御言です。この御言は、2021年度の標語聖句にご応募いただいた中から選ばれた、今年度の当教会の標語聖句であります。
今朝は、この御言から、主なる神の憐れみ深いご摂理。この世界を何によってどのように摂理されているかを聞き、その神を讃美する幸いを与えられているという、喜びに導かれたいと願っています。
詩篇は1巻から5巻に分けられており、107篇以降は第5巻になります。この区分は以前にもお話ししましたが、5巻はさらに五つの小さな歌集が集まってできていると言えます。135篇から145篇はその4番目にあたり、おもに「讃美は神の御業から」くる。主なる神の様々な御業にその源があるということが告白されています。御業の歌集と言えるかも知れません。
この第4歌集は、詩篇、讃美歌と言われますが、その内容は、実は極めて教理的で、三位一体の神様が前提にあって、135篇以降、それぞれの御業。全知全能の父なる神、子なる神をほうふつとさせる讃美、み霊の御業に言及する讃美と続きます。そしてここでは、神の民、神の御国についての、御業の讃美と言うように、大団円に近づいてくる感じ。讃美の大きな流れになっています。
この後の146篇以降は、いわゆるハレル歌集。ハレルヤ、主を褒めたたえよという、繰り返しの渦の中に入り込んでいきます。この145篇は、まさにそのハレルヤの渦に飛び込んでいく、その直前。主なる神の御業のまとめと、それに与る民の幸い、感謝がうたわれている詩篇であります。
それでは、御言葉に聞いてまいりますが、今年の標語聖句になりました14節は、145篇の後半にあたります。そこでは主なる神のいつくしみ深いご節理が讃美されるのですが、そこまでの流れ、文脈を知るために、最初に145篇全体の、概要を見てまいりたいと思います。
まず、145篇は、各節の書き出しが、アルファベット順に並んでいる、いろは数え歌、あいうえを作文の形をとっています。ヌンという一文字だけが抜けているのですが理由は不明です。ただ、主なる神の御業をほめたたえる、最後を飾る詩篇ですので、多くが他の詩篇での讃美の句を引用しています。引証付き聖書をお持ちの方は、参照していただければよくわかると思います。ほかの多くの詩篇を引用しながら、アルファベット歌の形をとり、それでも、構造的にはしっかりとした教理的なまとまりとして表現された、特別な讃美と言えます。145篇の特殊性は、表題にも表されています。表題は「ダビデの賛美」とありますが、この賛美と言う言葉が使われているのはこの詩篇だけです。他では単純に「ダビデの歌」とか、「ダビデによる」と言う題になっています。
これは、144篇までの御業の賛美を受け、146篇以降の大讃美集、ハレル歌集に繋げる、切り替えポイントと言えます。丁度、讃美の流れが、川の流れのように、上流からだんだんと大きく、幅広くなってきて、いよいよここから先はハレルヤの大海原に入るという、その河口部分。真水と海水が混ざった汽水域といった、そのような場所にある詩篇と言えると思います。
さて、この145篇の大きな構図として、第1節から7節。8節から13節。14節から21節に分けることができると思います。
1節から7節では、主なる神の大いなること。真の王である主の偉大さが繰り返し賛美され、そのような方を讃美する、民の幸いが告白されます。ひとつ前の詩篇144篇の最後、15節では、
<このような祝福をもつ民はさいわいです。主をおのが神とする民はさいわいです>
という讃美で締めくくられていますが、それを受けていると言えます。145篇の1節では、
<わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、世々限りなくみ名をほめまつります。>
とありますように、王であるダビデが「わが王」と主を呼んでいます。主こそが、全世界を統べ治められる、唯一の真の王だということを、悟って告白しています。この1節の告白が、この後の第2区分、8節から13節の呼び水となっています。
まず1節から7節では、主なる神様が「大いなる」方だという。「大いなる」と言う言葉が繰り返されます。これは「偉大なる方」ということですが、3節に2回、6節と、7節の「豊かな」と言う言葉も同じく「偉大な、大いなる」と言う言葉です。主は本当に大いなる方で、その大いなることは、偉大さは測りしれない。この愛の主の御業、その豊かな恵みと憐れみは調べつくせない、探りつくせない。そういうお方だ。だからあなたをあがめる。「あがめ」と言うのは「高く掲げる」という意味です。そしてほめたたえます。讃美します。と言っています。
私たちは、もともと、讃美するためにつくられ、また救われたのです。救われたということは、私たちの心に、讃美が注がれると言うことになりました。このような私でも。このような低い者でも。ですから、いつも、気持ちが落ち込んでいるときや、元気が出ないとか、あるいは、何か空しい、といった気持になるときでも、どこか心の中に励ましがあります。それが、讃美の思いがむくむくと出てきて、私たちは起き上がります。私たち、神の民はなぜ幸いか。それは神を讃美するようにされている民だからです。私たちは、讃美するために捧げられているということを覚えて、その幸いを覚えて讃美しなければならいと思います。この主のいつくしみは、私たちの思いを超えたて図りつくせない。そのような方に、私たちは包まれている。だから幸いだ。このことを歌っています。
4節での<この代はかの代に向かって>と言うのは、この世界、時代から時代へ、国から国へと神様の御業がなされていきます。そして世界の国々は、結局歴史を通して、真の神様の御力を示すために用いられます。裁きにしても、滅びにしてもそうです。4節の「恐るべきはたらき」は裁きのことだと言われます。また、様々な出来事もそうです。主は偉大です。特に、その愛は偉大であります。代々はその御力を証ししています。だから、私たちはこの方の民であることが幸いなのであります。7節の<あなたの豊かな恵みの思い出を言い表し>の「言い表す」という言葉は「熱心に語る」「あふれるばかりに語る」と言う言葉です。喜びがあふれ出て、語らずにおれない、という告白です。「豊か」は先に言いましたように「大いなる」の意味で、ここの「恵み」は「善いこと」英語でGoodnessですから善なること。善は愛を含んでいますから、すぐ後の「あなたの義」と相まって、主が示して下さった「大いなる愛と、義を喜び歌う」ということになります。測り知れない偉大なる主と、その主をわが神と賛美できる民の幸いであります。
次の8節から13節では、「主の王権」ということが歌われています。全世界に及ぶ主のご主権であります。1節で王の王と告白された、真の王が讃美されていきます。そしてその始まりは、愛の契約の神。ヤハウェなる神の御名で始まります。この8節の御名の意味が、3愛護の14節以降につながっていきます。
9節と10節の<すべてのみわざ>は、4節にある「みわざ」とは意味が違っていて、4節が主に主に救いの御業を示すのに対して、9,10節では「主が造られたすべてのもの」と言う、創造に御業を意味します。ですから、主の憐れみ、恵みとも訳せますが、恵みはすべての被造物の上にあり、造られたすべてのものはあなたに感謝すると讃美しています。そして、大いなる主のご主権を知る聖徒、すなわち主にある敬虔な者たちは、主をほめたたえ、御国の栄光を語ることになる、ということであります。そして、主による全世界のご支配は、永遠の昔より、永遠の未来まで、とこしえに続き、絶えることはありませんという、悟りと讃美が歌われます。そして私たち救われた民は、この永遠の御国での復活と永遠の命を賜っているという、主の民の幸いが示されるのであります。
次に、14節から16節をお読みいたします
<主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。>
ここまで、偉大なる主と主を讃美する民の幸いと、全地の永遠の主権者、王なる主とその御国の民の幸いが歌われてまいりました。ここからは、今度は主なる神のご節理についての賛美がうたわれます。
この3節の間で、「すべて」と三度もいわれています。「よろずのもの」を入れると4回になります。この「すべて」「皆」ということは、総数、全体を指しているというよりも、一人一人を見られる。「一人一人みんな」と言う意味合いが強いです。私たちが、力尽きて、心が折れて、どうしようもなく倒れようとするとき、思わずかがみこんでしまうようなとき、主は必ずこれを支え、立たせてくださる、という慰めであり、力強い励ましであります。この立たせるという言葉は、この14節と、これを受けた詩篇146篇の8節だけに用いられている特別な言葉でもあります。ほかに出てこない、ヘブル語ではなくアラム語が使われています。そのような「立たせてくださる」御業、ご節理。
自らの力ではなく、人の助けでもなく、主が支えてくださる。手段としては、私たちの内に力を与えてくださったり、助け手を遣わして下さったりということがあるかもしれませんが、その助けの主体は、大いなる主ご自身であるということであります。これほどに安心で、確実なことはありません。海が割れて道が開けるように、主が一本道を開かれ、支えられ、必要を与えて、導かれるのであります。その幸いが讃美されています。
余談ですが、少し前にテレビのコマーシャルで、自動車の、確かカローラだったと思いますが、人気俳優の菅田将暉さんが歌っていた歌詞が、ほんとその通りだと思いました。確か、「僕らの未来は神様以外誰も知らない。どんなカーブ描いても振り返れば一本道」と言うような歌詞だったと思います。うろ覚えですが。作詞はクリスチャンかな?と思ってしまいました。
しかし、真実その通りだと思います。主が、私たちを支え、守り運んで下さるのであります。だから知ることのでき無い未来にも、主に信頼して歩む、平安と力を得ることができるのです。主が一人一人を顧みて下さり、それぞれに相応しく、時に従って。これは「時にかなって」と同じ意味です。御心に定められた時にかなって、御手を開いて、必要を満たして下さるのであります。いつくしみ深い主のご節理の御業、ご配剤への賛美です。そして、その理由が、17節以降に明らかにされます。
17節から20節をお読みいたします。
<17:主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、18:すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。19:主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。20:主はおのれを愛する者をすべて守られるが、悪しき者をことごとく滅ぼされます。>
「すべての道」は「全ての行い、御業」を指します。主はそのなさることにおいて全く正しく、公正であられる。そのうえで恵み深くあられるということです。そして主は近くいて下さる。天の本当に高いところの方が、この罪びとの近くに寄り添っていて下さるという、幸い。これを覚えたいと思います。それは、「主を呼ぶもの」「主を畏れる者」「主を愛する者」の近くにいて、その願いを聞き、叫びを耳にして救ってくださる。守り、支え、立たせて、与えてくださるのと言うのであります。
それは、すなわち、主なる神様のご節理の基準。何に基づいて、どのように摂理されるかと言う原理が、恵みの契約によるということであります。永遠の内より選び、信仰を与えられた者を主は自らの民として、子として、永遠に御国を継ぐものとして愛を注いでくださり、あらゆることを益として下さるというお約束。真実なる主は愛の契約を必ず実行してくださるという、恵みを賜っているということであります。私たちは、御子イエス・キリストを信じる信仰によって、この恵みの契約の内に入れられ、全世界の王、憐れみ深く恵み豊かなる神の助けを約束されています。これは、8節で示された、主の聖なるみ名。ご契約の際にモーセに示されたところの、真実の御名が、このことを証ししているわけであります。
このダビデの賛美歌、145篇では、ダビデがその経験と御言から、あまりにも偉大なる主をわが神、わが王と仰ぎ、讃美できることがいかに幸いであるかを歌い、その主のご支配が全被造世界に、永遠に及ぶことを讃美し、その中で、私たちのようなものに、恵みの契約のゆえに、測り知れない愛と慈しみを注いでくださり、支えてくださる、その幸いを歌いあげています。そして、その最後は21節
<わが口は主の誉を語り、すべての肉なる者は世々かぎりなくその聖なるみ名をほめまつるでしょう。>
悪しきものは滅ぼされ、すべて肉なるもの、すなわち裁きを免れた全人類が主をほめたたえる、ということを、ここでの文章は実は「褒めたたえますように」という、誓願、祈りの形で締め括っています。そして、146篇以降、「ハレルヤ」「主を褒めたたえよ」と言う、讃美の大合唱へとなだれ込んでいくわけであります。本日、駆け足で145篇に聞いてまいりました。3つの区分の最初の節が、次の区分を予見させるような形で、有機的に、教理的な繋がりをもって主の御業の讃美のまとめとなっていました。あらためてこの詩篇を味わいながら、賜っている恵み、主の奇しい御業に思いを巡らせ、主を讃美する、そのことそのものの幸いを覚え、耐えがたい困難の中でも、主が導かれる励ましを心に抱いて、立ち上がって、歩んでまいりたいと願います。 (以上)