神の永遠の目的
1)こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ― 2)わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。 3)すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。 4)あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。 5)この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 6)それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。 7)わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。 8)すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、 9)更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。 10)それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、 11)わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。 12)この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。 13)だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。エペソ人への手紙 3章1節から13節
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◆わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。
エペソ人への手紙3章11節と12節の御言です。本日はこの「神様の永遠の目的が実現された」と言うみ言葉を中心に、教会の永遠ということに思いを巡らせながら、神様の目的、恵みの豊かさについて、またそれを宣べ伝える務めについて、導かれたいと願っています。
まず、11節の「神の永遠の目的」。永遠と言われております。永遠とは神様だけが永遠であられます。無限の時、時を超えたところのご存在。その神様が、永遠において目的をお持ちである、と言うことを述べています。この「目的」とは、「神のみ旨」とも「ご計画」とも訳せる言葉です。この目的があるということは、つまり意味があるということであります。それは、創造主なる全能の神が、ご人格お持ちだということを示しています。正確には神格(神様の格)ですけれども、ご人格をお持ちであって、決して、無機質なご存在ではない。ただの法則や、エネルギーや力などと言ったものではなくて、ご人格をお持ちの神様が永遠からいらっしゃって、その神様によって世界が、宇宙、そして全人類が造られ、歴史もまた生まれてきているということです。そして、そこには意味がある。目的があるのであります。
先に結論だけを少し乱暴に言ってしまえば、神様の栄光です。特に神は愛なりと言う、神様の愛が顕され、褒めたたえられるということになります。目的があると言うことは、世界も歴史も今この瞬間の私たちも、偶然生まれた、無意味な存在ではない、ということであります。これは、人間の科学がどれだけ進歩しても、様々な発見や発明がなされても、究極的には、私たち一人一人の人生、命に意味は与えてくれません。人生に何の意味があるかを科学は教えてくれません。そこにあるのは、空しい自分の欲望か、一時のごまかしか、絶望か。いずれにしても空虚であります。それ故、真の神を知らない人は、本当の平安がありません。
しかし、聖書は、人生に究極的な目的がある、命には意味がある。本当に愛があるのだ、と言うことを、私たちの魂に、命に教えてくれます。聖書を通して聖霊が証明して下さっています。そして、それはイエス・キリストによって既に実現しているといことです。実現されたと言われている通り、過去形です。既に、実現した、成就したという意味で、私たちに与えられた恵みの宣言であり、幸いであります。更にそれは、一時的なものではなく、永遠の目的。永遠のご計画である。その永遠ということが、この有限で、罪深い、小さきものに与えられた恵みであります。私たちは、日々、時間に追われ、あるいは時間を持てましているかも知れませんが、区切りのある時間の中に生きていますけれども、実は既に永遠のうちに置かれているのだ、ということ、神の目的に沿って導かれているのだということを思い起こして、あらためて歩んでまいりたいと思います。
まず、本日の御言の前半部分、1節から6節では、パウロが奥義ということについて語っています。測り難い神の永遠のご計画の中の、一つの奥義。前の時代には知らされていなかったが、今は啓示され、知らされたところの奥義。パウロがここまで語ってきて、今まとめようとしているその奥義は、パウロの考えではなくて、主による啓示だということを前もって押さえています。神のみ旨も、ご計画も、主ご自身による啓示によらなければ、誰も知り得ず、悟り得ないのだということであります。この奥義は、3節では「啓示された奥義」というようにただ「奥義」とだけ書かれています。1章の9節では「み旨の奥義」と言われました。同じ奥義のことですが、4節では「キリストの奥義」と言っています。これは、時が満ちて、キリスト。イエス様が来られて、初めて明かして下さった。キリストによって、明白に、間違いなくはっきりと示された、しかし実は、ずっと御言の中にちりばめられ、秘められていた、神の恵みの契約の真実。救いの御業の奥義が、今キリストが実現し給うたことによって、明らかにされたと言うことであります。6節で、それが明確に語られます。6節。
<6)それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。>
これは、2章で語っていた、ユダヤ人と異邦人が一つとなって、キリストの教会を形作ると言うことを一息でまとめています。とくに、わずか1節の中で「共に」と言う言葉が3回使われています。一つのキーワードだと思います。ここでは、三つの共にすること。まず、共に神の国を継ぐ。御国の栄光は教会の希望でした。ユダヤ人と異邦人が一つの希望を共にしています。次に、共に一つの体となる。切れば血が出るように、分かちがたく繋がれた一つの体として、一つの頭なるキリストを、共に仰ぎ、繋がっている教会の姿です。そして、共に約束に与る。異邦人には知らされなかった主なる神の約束、唯一の真の救い主の御業に与る。共に義とされ、子とされ、聖とされ、永遠の命を賜る、選びの民であった。選びの民の集合体が教会であります。そこに異邦人も含まれていた。
このことは、熱心なパリサイ派のユダヤ教徒であったパウロには、まことに大きな衝撃で、価値観が180度変わるような、真理。まさに奥義の啓示でありました。迫害者サウロが回心して、パウロとなった際に、ダマスコで盲目にされ、アナニヤによって、実際に目からウロコのようなものが落ちて、見えるようになりましたね。ユダヤ教は民族の宗教で、彼にとって主なる神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であって、決して異邦人の神ではありませんでした。主はユダヤの民を選び、様々な契約を交わされ、律法を与え、王を与え、背教の歴史の中を守り導いてこられました。彼らにとって、約束の救い主はユダヤの救い主であったわけです。
しかし、主の霊によって心の目が明けられたパウロに啓示が与えられました。ユダヤも異邦人もない。救い主は、あらゆる国々の全ての民族、人類の救い主である。国籍も、人種も律法も関係ない。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、救いが約束されていたのだ、ということを教えられます。そして、その救いが12節にありますように、もう既にキリストによって実現したということ。預言はすべて成就された。キリストの十字架と復活の意味、福音を教えられ信じたのであります。
つづく7節から9節では、その奥義。福音の豊かさを、伝えるために、主に召されたと言う、パウロの召命と言うことが告白されています。
<7)わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。 8)すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、 9)更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。>
この7節で、福音の僕とされることは恵みだと言うこと。そして8節にある「キリストの無尽蔵の富」。測り難い膨大な恵みであります。そして、その富の力を、神を知らない異邦人や、このキリストの奥義を悟らないユダヤ人に宣べ伝えるために、よりのその豊かさと力強さを証しするために、最も小さい者。かつては教会を迫害して、キリスト者を捕まえて回っていた者を召されて、遣わされて、お用いになっているとパウロは自らを表わしています。主の力は人を180度変える力であって、それほどまでに恵みは大きく、豊かで測り難いのであります。
この「キリストの無尽蔵の富」と言うことを語る時、以前大﨑先生は次のように仰いました。
「測り難い、決して無くなることのないところの富。その価値あることにおいて、永遠において尽きることが無いキリストの富である。」と。「それに対して、この世の富は有限であり、心許せばすぐに朽ちてしまうものであり、あてにならない。あてになるようでならないものである。」と、このように表現されて、その後に、実例としてご自身の経験をお話になりました。国債のお話です。戦争が終わったら、買っていた国債がみんなゼロになってしもた。戦前に国が保証しておった一切の国債が全て価値が無くなった。無になった。国もあてにはならんと。私も若くて、お説教自体はよく分かってなかったですが、このお話はとてもよく覚えています。多分、何回もお話しされていたんだと思います。
実際、確かに今は、預金の金利も0.0何%と言う時代ですし、先日、わたしも会社員時代に天引きで積み立てられていた、確定拠出年金と言うのがありまして、会社を辞めたらそれをどこかに移さないといけない、と言われまして、銀行に相談に行ったんです。大した額でもないので、まぁ、なるべく安全な形でと思っていたんですけど。ところが、一部でも定期預金にすると、運用手数料とかいうのが高くなるんです。金利なんかよりずっと高い。で、手数料の少ないのはと言うと、元本保証のない債券とか株式とかの信託商品だけのコースになるんです。ちょっとびっくりしました。年金とか言いながら、金融機関を儲けさせるためにあるようなもんやなぁと。私の祖父母や両親は、特に父は公務員でしたので、年金暮らしで十分やっていけたようですけど、もう私たちはどうなるか分からないです。ずっと若い人たちは、もうとっくに年金なんかあてにされていないようですね。
すみません。横道が長くなりました。しかし、この世の必要もまた、主の賜物であって与えられているものに他なりません。それでも、この世においては変化激しく、朽ちぬものはありません。ここで「無尽蔵の富」と言われているのは、私たちが、確かになくてはならないただ一つのものを、知らなければならないと言うことです。永遠に変わらないもの。つまり、何よりも最高の価値を、主イエス・キリストに置いているか、と言うことが問われているのであります。なぜかと言いますと、イエス・キリストこそ、真の神にして、まことの人。変わらない真理と、愛をお持ちになり、その内に神の全能の力を働かせ、天地の全ての主権者であられる。そのキリストを損じる信仰によって、私たちに与えられ、また約束されている祝福は、実に膨大な恵みです。永遠の滅びに至る罪の赦し。この、何の値もない罪人を、子として下さり、天国での尽きない命と、全き平安と喜びに満ちた、神との交わりがキリストにあって保証されているのであります。ここに、何のリスクも心配もありません。
そしてパウロは、この朽ちない富を伝える務めのために召されたと言っています。その務めは8節では、宣べ伝え、9節では明らかに示す、と言っています。明らかにするのは、「世々隠されていた奥義」です。そして、12節でそれは神の永遠の目的にそうことである。これらを合わせますと、結局。異邦人である私たち。私たちの救いが、実は永遠より、創造の初めから、神のご計画の中に含まれていたのだ、ということが教えられているのであります。そして10節。
<10)それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって>
「天上のもろもろの支配や権威」とは、以前に1章の説にありました、天使の名前です。「多種多様な」というのは豊かさを表しています。神の全知と恵みの豊かさを、天使にまで知らせる、と言っています。地上の世界中にだけではなく、天においてまで高々と褒めたたえられるべきだ、しかもそれは教会を通して、と言っています。キリストにあって一つとなった人類の教会こそが、神の知恵の豊かさ、御業の栄光が表されているのだと言うことであります。私たちは、この神の栄光を、全地、全天に掲げ、褒めたたえるために神の永遠のご計画のもとに、聖別され、集められた。それが教会の務めである、ということでありあます。
先週、教会の始まりはキリストから出だと言う、お話を致しました。確かに、人が集まって教会を形成致しますが、それは勝手に集まったのではなくて、まずイエス様ご自身がわたしたちのところへ来てくださって、宣べ伝えて下さったと言う、まず主が愛してくださった。伝道と宣教は主ご自身の御業である、ということでありました。特に、今この世の教会については、ペンテコステに表されるように、教会の成り立ちもその通りであります。では旧約時代はどうでしょうか。アブラハム・カイパーは次のように解説しています。少し長いですが引用致します「使徒信条では、教会を聖徒の交わりと言っています。その意味で、旧約時代から確かに聖徒の交わりは存在していました。人間の堕落以来、今日までただお一人の救い主イエス・キリストがおられただけであり、ただ一つの救われる道、すなわち彼を信じる信仰による道があっただけです。新約の聖徒たちが歴史のキリストを信じる信仰によって救われるように、旧約の聖徒たちは予言のキリストを信じる信仰によって救われたのです。預言のキリストと歴史のキリストは、もちろん一つです。それ故、イザヤ、ダビデ、アブラハム、アベルその他無数の人々がキリストの教会、キリストの一つ体の肢体(その一部分)でした。そして、「蛇のすえは女のかかとを砕くが、女のすえは蛇のかしらを砕く」とも約束を、アダムとエバが信じていたと考えるならば、確かにそう考えられることですが、その時、彼らは最初のキリスト教会を構成していたと言えるでしょう」
カイパーが言うように、私たちの教会もまた、実は人類の初めからなる教会に連なっておると言うことが分かります。そして、この教会にあって12節でパウロは次のように言います。
<12)この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。>
1節で「あなたがた、異邦人のために」と異邦人に語り始めたパウロは、奥義を明かす6節では「共に、共に、共に」と繰り返し、12節でとうとう「わたしたちは」と、パウロの中で既に一つになっていることを表明します。ただお一人の救い主キリストにあってということです。
この「確信をもって大胆に」、は全き信頼に基づいて素直に、臆することなく、と言う意味です。そのように、キリストの民、教会の誰もが主なる神様に近づくことができると言います。なぜなら、この「近づく」というギリシャ語は、「実際に手引きして、紹介する」という意味を含んでいます。御子キリストが父なる神への接見役として、私たちの手を引いてくださり神の御許へと、近づけて下さるのであります。この大いなる光栄を覚え、私たちは、この世で様々なことに追われ、囚われておりますけれども、実は既にキリストにあって永遠の内に生かされていることを感謝し、また、最も小さなものとして、これを宣べ伝えていく、与えられた恵の務めに少しでもお応えしていけますよう、祈りつつ歩んでいきたいと思います。(以上)