愛を知る力
14:こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15:天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
16:どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17:また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18:すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19:また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
20:どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、21:教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。エペソ人への手紙 3章 14節から21節
「14:こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15:天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。」
エペソ人への手紙。3勝14節の御言葉です。ここから、パウロの祈りが始まります。この祈りは、エペソ人への手紙での二番目の大祈祷と呼ばれるところでもあります。最初の第一の祈祷は、1章の17節から19節の祈りであります。そこでのパウロの祈りは「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように」と言う、御霊によって神様の啓示、父なる神がご自身を知らしめようと表して下さることを、心の目が開いて見えるようにしてくださいという、祈りでした。そして、その結果、神に召されて頂いている希望、栄光豊かさ、信じる者を愛して、その愛に基づいて働かれる神の力が、いかに絶大かを知るに至るように、と祈りました。
さて、今朝は3章14節から始まる、第二の大祈祷聞いてまいります。第一に祈る態度。それは祈る相手ということによります。第二に、祈りの内容と、その目標。パウロが願う結果について。第三に祈りの力ということについて、導かれたいと願っています。
まず、14節、15節。
「14:こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15:天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。」
「こういうわけで」と始めています。この「こういうわけで」という言葉は、3章1節の言い直しになります。3章1節をお読みしますと、
「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――(棒線)」
となっています。棒線の後に2節が始まります。つまりパウロは、本当は、この後すぐに祈祷を書き記すつもりでした。ところが、自らを「異邦人のためにキリストの囚人となっている」と言ったために、大脱線してしまうわけです。2章だけでは言い足りなかった、という思いでしょうか。イエス様の霊によって、神のご計画の奥義である異邦人伝道に召され、召しに従って働いてきた、パウロの思いがあふれ出てしまいました。そこで14節であらためて、「こういうわけで」と祈りを始めます。ですから、どういうわけで祈るかと言うと、2章に書いてきたことが理由であると言えます。
エペソ人への手紙の、1章から2章で教えられた要点をおさらいしますと。まず、第1章では、教会が誰によって、どのように、何のために建てられたかが教えられていました。それは、父なる神の永遠のご計画と選び。御子イエス・キリストの救いの御業。神なるキリストが人となられ、律法を成就され十字架で流された血をもって、その民を買い取ってくださったこと。復活と召天、天の御座に着座され、聖霊を遣わしてくださったこと。そして聖霊によって、イエス様を信じる信仰が与えられ、イエス様に繋がれて、やがて神の国を継ぐ証印が押されました。つまり、三位一体の生ける真の神の御業によって、教会は立てられたこと。その目的は、主を信じる、全ての者の集合である教会によって、神の栄光が褒めたたえられるためであることが明かされました。
2章では、この教会の姿が示されます。新の救い主は、神の律法が与えられ、選びの民とされていたユダヤ人だけではなく、神のお約束の外に置かれていると思われていた、異邦人の救い主でもあられたこと。そのキリストによってあらゆる敵意は取り除かれ、全ての国民に救いと恵みがもたらされる。教会は、ユダヤ人も異邦人もなく、民族を超えた唯一の救い主、キリストのもと一つの家族であり、キリストを土台とした一つの建物であることが教えられます。さらに、この世において神の栄光が表される基礎が教会であって、その条件は御霊に満たされること。すなわち御言葉によって建てられ、満たされて神の住まいとなることが明かされました。そこに個人の、様々な属性や素性は関係ありません。パウロは教会の真の姿と、そこに表わされる神のご計画の大きさと、恵みの豊かさを、体験し、実感していたのであります。
こういうわけで、パウロは祈らずにはいられませんでした。ペテロが聖霊に満たされ押し出されて語りだしたように、パウロもまた御霊に満たされて、祈らずにはいられなかったということです。
パウロはまず、膝をかがめます。ひざまずいて、祈ると言うことです。実は、当時のユダヤ人は、通常は、立ったままで祈るのが習慣で、ひざまづく姿勢をとるときは、特別に厳粛な場合に限られました。イエス様がゲッセマネで祈られた際や、ステパノが迫害によって殉教する、直前、ひざまずいて祈りました。それはまさに、祈る相手の大きさを悟っていたからでもあります。パウロはここで、「天上にあり地上にあって、『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈ります」と祈り始めました。私たちも常に、祈る前には、誰に祈るのか、どのような方に祈りを捧げるのかを、はっきりと告白することを主が求めておられることを覚えたいと思います。主に呼ばわる、とよく言われるのはこのことです。
この15節の「父とよばれているものの源なる父」と言う表現は、いわゆる意訳です。パウロがギリシャ語で語呂合わせをしていますので、苦心して日本語に訳したところです。最初の「父と呼ばれる」の「父」はギリシャ語では「家族」とか「一族」問う意味です。ですから、英訳聖書ではFamily。新共同訳や新改訳では家族としています。源なる父の「父」は、そのまま父親。天の父です。口語訳がどちらも父にしているのは、ギリシャ語で家族は「パトゥリア」といって、父は「パテーラ」と言います。家族を表すパトゥリアの語源は、パテーラで、家族とは父から出たもの、と言う意味でした。系図が父親で表されているように、父系社会でした。ですから、父から出た、あらゆる者の源なる父、とは、天においても地においても、御使いも全ての民族も含め、全ての源、天地の創造主、父なる神様に祈ります、ということになります。キリストにあって、その神の僕として、御前にひれ伏して祈る姿を、パウロは示しているわけであります。
では、その祈っている内容を聞いてまいります。16節から17節。
「16:どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17:また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、」
パウロの願いの第一は、信者の心に、御霊。聖霊が働いて下さるようにということでした。聖霊が働いて私たちの内なる人を強くして下さる、ということであります。1章では、知恵と啓示の霊を求めました。ここでは、さらに力ある御霊のお働きを願っています。教会に入り込んだ、様々な誤った教えや、問題。パウロ自身の収監など、信徒の心に多くの不安がもたらされる状況にありました。ですからパウロは、御霊の力を願いました。御霊が私たちの信仰を強くし、固く立たしめて下さるのであります。パウロはそれを実感していました。ここの「内なる人」という言葉の前には、訳されていませんが「中に」(エイス)という単語が入っています。私たち自身が強くなるというより、力の源は私達自身ではなく、私たちの中に外から。天からの御霊の力が私たちの内にもたらされる、と言うことが示されています。父なる神に御霊を願い、その御霊が信仰を強く成長させて下さいます。
そうして、二番目の願いは、キリストの内在を祈ります。キリストが私たちの心の内に、住んでくださるようにとの願いです。この「住む」と言う単語は、単に「居住する」とか「一時的に住む」という意味ではありません。「定住する」「永住する」と言う意味の言葉です。キリストが、ずっと私たちの心の中に住んでくださるように、との祈りです。心の中に住まれると言うのは、パウロの実感であり、願いです。キリストご自身は、今もずっと天の御座におられます。それもお体をもって座しておられますから、天がキリストのお住まいです。ですから、キリストが私たちの心の内に住んでくださる、というのは、御霊によってキリストに繋がれ、霊的に結合されて、離されない。キリストがずっと私たちを掴んでいて下さるという事実。またそれを悟り、実感できますように、という意味でもあります。これは、御霊によって強められた信仰によって果たされる恵みであります。
第三の願いは、19節にある、キリストの愛を知るように、との願いであります。もう一度17節からお読みいたします。
「17:また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18:すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19:また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
19節の訳も「人知をはるかに超えたキリストの愛を知るように」と、日本語の流れでは自然ですが、原文ではまず最初に、「知る」という単語が来ます。「知って」でもそれは「人知超えている」キリストの愛だ、ということになります。人知を超えた、人が知りうる範囲を超えた、広さ、長さ、高さ、深さのキリストの愛を知ることができますように、という、一見矛盾した祈りとなっています。
しかし、これが可能だということも、教えられます。一つは、例え人知を超えていても、主を知る知識は、また悟りは、私たちが必要とする分に応じて。私たちが満たされる分は、充分に与えられるということであります。さらに、必要な手段も示されています。それは、17節にあるように、信仰によりキリストが私たちのうちに住んでくださることよって。もう一つは、愛に根ざした生活によって可能となる。キリストの愛を知ることになると言われています。すなわち、信仰と愛。キリストを信じることと、キリストに従う生活。信仰は救いをもたらします。信じて従う生活は、感謝の応答であると同時に、信仰から生まれる祝福であります。1章の15節16節でパウロは次のように言っています。
「主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している」
エペソの信徒は、既にこの祝福の道を歩き始めていました。パウロはこれが、揺るがないように、妨げられないように、イエス・キリストの神、父なる神に御霊を賜るよう祈っています。
確かに信仰があって、日曜日に教会に行って礼拝をする。これは大きな恵みではありますけれども、日々の生活において、愛に基づいているか。その中心にキリストがいます生活になっているだろうか、という吟味が必要であります。こんなことを言うと、私などは朝から晩まで懺悔ばかりとうことになるのですが、しかし御言は確かに教えてくれています。信じて従う生活によって、より恵みは確かなものとなり、大きな祝福を経験することができると言うのが真実であります。しかも、この生活は一人きりのものではなく、愛に根差した、とあるように、キリストにあって一つの体とされた、愛の交わりの生活であります。ですから、18節にあるように「全ての聖徒と共に」いっしょに、キリストの愛を理解できるようにされるわけであります。信仰生活というように信仰と生活は一体で、分かちがたく、信仰生活は教会生活でもあります。そこに、最も大きな務めと祝福が用意されているのであります。
御霊により信仰に力を与えられ、キリストが定住されることで、愛の生活を送っていると、知ることができないキリストの愛が知らされるようになります。そして、最終的には「神に満ちているもののすべてをもって、私たちが満たされる」主なる神様がみたされているように、私たちも満たされるようになる、ということであります。パウロの祈りはこのようなものでありました。あまりにも壮大な、大きな祝福を求めているような気がいたします。確かに、あらゆる願いが完全に満たされるのはイエス様のご再臨をまたねばならないでしょう。しかし、この世の日々を生きていく中で、必要とされる分の祈りは必ず聞かれるのであります。20節21節は、この雄大で大きな祈願を捧げたパウロによる頌栄であります。
「20:どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、21:教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」
私たちの内に働く力。すなわち力の御霊が、全知全能の、全てを御手の内に支配される主なる神に、願いを届けて下さる。それどころか、求め願うところをはるかに超えてかなえて下さる。そのように御霊がとり継いでくださり、キリストの御名によってかなえて下さる。パウロの中では、もう既にかなったとさえ感じられています。そこでこの祈りを聞いて下さる方に、栄光が世々限りなくあるようにとの頌栄があふれ出ます、しかも、その栄光は教会により、キリスト・イエスによって表される栄光です。ここでも、教会はキリストと一体とされて、主への頌栄となっています。
本日は、パウロの祈祷から、パウロが祈り求めた御霊のお働きとその力について。キリストと共にある愛の交わりの生活によって、キリストの愛を知って与えられる祝福について聞いてまいりました。どうかこの祈りが、改めて私たちの祈りとして、主のみもとへと届けられますように。御霊を遣わしてくださいますよう祈ります。