強くされなさい
10:最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
11:悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
12:わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
13:それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
14:すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15:平和の福音の備えを足にはき、16:その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
17:また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
18:絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
エペソ人への手紙 6章 10節から18節
「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」
エペソ人への手紙、第6章10節の御言葉でございます。今年度、2023年の標語聖句として、選ばれたみ言葉になります。つい先日、奇しくも、大﨑先生が最後の祈祷会でここを挙げておられたということを伺いました。標語聖句として取り上げましたのは、「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」と、10節の途中からになりますが、その冒頭は先にお読みいただいた通り、「最後に言う」という、パウロの語りかけから始まっています。最後になった祈祷会において、まさに「最後に言う」と、パウロが、この手紙を通して、様々に教えてきて、その締めくくりとして、エペソの人々に伝えた言葉でありました。そして、それは「強くなりなさい」という、命令形で語った、大いなる励ましでありました。今朝はこのエペソ6章のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。
ここで、エペソ人への手紙の、全体を振り返ってみます。その前半、1章から3章は、教会とはどのようなものであるかが教えられてきました。まず、教会が存在する大前提として、三位一体の神様による、永遠からの救いのご計画と、それを実現された御業。神の選びと救いが、ユダヤ人だけではなく、全ての国々の民にもたらされた、という神の奥義。福音がキリストによって実現した。その恵みが語られ、キリストにあって、教会は一体である、ということを証ししていました。
4章からは、そのキリスト教会、とくに見える地上の教会において、その一致が教えられます。聖霊による一致でした。父なる神は一つ。信ずべきお方、罪人を父にとりなすすく主は一つ。その信仰を与える聖霊も一つ。ただキリストのみが唯一の頭であり、その頭につながる体である、教会も、当然一つである、という真理でした。
後半では、その教会の一致を守るべく、信仰生活について、具体的な勧めがなされました。御国の前味と言われる、聖徒の交わり。その基本が、十戒の第五戒から十戒を通して教えられました。隣人愛ということですが、隣人愛の前提は、御子イエス・キリストにおいて示された、私達に対する、神様の測りがたい愛であって、その愛を土台として、仰いで、互いに愛し合いなさいということです。
以前、このエペソ6章のみ言葉に聞いたのは、1年半ほど前になりますが、その時に、教会の一致の下である、クリスチャンの交わりと、神の愛について引用したみ言葉あります。これもまた奇しくも、先々週聞いて参りましたヨハネの第一の手紙4章の7節から11節です。
もう一度お読みいたします。
「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者で、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のために、あがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのだから、わたしたちも愛し合うべきである。」
すべての前提に、まことの神様がいらっしゃること。愛なる神様であること。主の愛が、キリストに表され、キリストを信じることで御霊によって、私たちに注がれること。まず神様が愛して下さり、今も愛しておられ、とこしえに愛して下さるという、約束。この恵みの中に私たちは生かされているということであります。私たちの様々な思いや、感情、考えを超えて、客観的に、超自然的に、神様が私たちを愛して下さっている、という真実。教会は、それを世界に証しし、のべ伝えるために召されているのであります。
パウロがエペソ人への手紙で、非常に整然と、神の愛と、救いと、教会の一致を、教理と実践の両面から教えてきたのは、やはり、ながく滞在して教えてきたエペソの教会への愛情と、期待があったからだと思われます。細かな問題の解決、というより、より固く深い信仰に立って、揺るがないようにとの、激励の手紙となっています。しかし、同時に、そもそも地上の教会は、戦闘の教会と言われます。天の教会は勝利の教会ですが、地上にある間は、共同体としての教会も、信徒個人としても、常に戦いの最前線にある、ということをも、表しています。信仰の戦いへの激励であります。
そこで、本日のみ言葉に進んでまいります。10節。
「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」
「最後に言う」。ここまで、いろいろ教え、諭してきました。そこで「最後に伝える言葉」としてパウロが語ります。それは、私たちに対して、「強くなりなさい」という命令でした。柔和であれ、とか、謙虚であれ、聖くあれ、憐れみ深くあれ、と様々な道徳的な教えがなされますが、パウロが最後に命じたのは「強さ」でありました。つまり、強さを求めるべきだということです。
それは、戦いに負けることがないように。主は、私たちが戦いに勝利するように、弱さでなく、強さを目指すことを求めておられます。なぜなら、その戦いは、先にも言いましたが信仰の戦いだからであります。
11節から12節をお読みます。
「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。たしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」
悪魔の策略に対抗する戦い。その中で立ちうる力が養われるように、ということです。悪魔の策略とというものが、本当に存在するということは、神様の側に立たないと分からないものです。信仰が無いと、まるで荒唐無稽な、映画や物語のように捉えらえてしまいます。しかし、信仰を与えられて、このみ言葉に聞く時。それが真実であることが悟らされるのであります。
神様が御許へと招き入れて下さらなければ。イエス様が十字架で贖って下さらなければ、私たちはずっと、サタンの支配の下に置かれています。罪と死の支配です。神様を知ろうとしない。神様から逃げようとする。神様がご自身の啓示されるままではなく、自分の都合よく神様を造ろうとする。天地の造り主、全能の主権者である、愛の神様への背きが罪です。心に思うこと、行うことすべて、幼いころから、罪の下にありました。アダムの堕落以来ずっとです。
実際、私たちは、幸いにも、救われて、天国が約束されいますが、それでもなお、同じ罪の下にいることは変わりありません。ただ、イエス様の贖いによって。そしてイエス様が全き従順で獲得された義によって、信じる者を義と認めて頂いている、というにすぎません。ですから、やがて召されるまでは。あるいは、イエス様が再臨されるまでは、私たちは、つねに罪。イエス様から私たちを、何とか切り離そうとする、サタンの策略との戦に中に置かれていることになります。
そして、サタンは狡猾であります。サタン自信は人では無く、霊的存在ですから、私たち自身にも、回りの人々や、状況・環境にも働きかけて、何とか、キリストが獲得されたご自身の民を、背かせようとします。私たちに、様々な理由や、言い訳を用意して、み心から離れさせようと常に狙っているわけです。サタンの働きは、信仰によって神様を知らないと、見えてこないので、戦うことすらできません。その意味で、クリスチャンはサタンと戦うことができる、といえます。見えないサタンと戦うために、強くなりなさい、と言われているわけです。
では、どうすれば強くなれるか。
「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」
標語聖句のこのみ言葉は、短い一文に、力強い激励が凝縮されています。「強くなりなさい」という言葉は、命令形ですが、受動態でもあります。ですから、直訳すると「強くされなさい」「強められなさい」という指示になります。自分で鍛えて、頑張って強くなるのでなくて、「強くされる」ように。強くしてもらう、ということをパウロは命じているわけです。
どのようにしてか。それが、
「主にあって、その偉大な力によって」 と言うことです。これは、私たちが強くなるためには、「主にあること」が必要だということです。強くなりなさい、という励ましはつまり、「主にありなさい」と言う勧めに他ならないのです。ここでの「主にあって」の「あって」も、「その偉大な力によって」の「よって」と訳される言葉も同じ、「εν」というギリシャ語で、英語だと「ⅰn」。日本語の聖書では、多くは「○○にあって」と表現されます。より直訳的に言うと、「その中にあって」とか、「その中において」というイメージです。「主にある」というのはクリスチャンの慣用句ですが、例えば「主にある」または、「共に主にあって」と言った場合、それは、主の中にあって。「共に主の内におかれて」とか、主に包まれながら・・といった表現が分かり易いかもしれません。
そこで、10節を直訳すると、「主にあって、その力の強さにあって、強くされなさい」となります。主の中にることで、主が守って下さるゆえに、私たちは強く保たれる。だから、主に繋がっていなさい、という励ましであります。
一人一人が、幹なるキリストに繋がっている枝として。また頭であるキリストに繋がる体、教会の一員として、キリストに結ばれて、サタンに策略に立ち向かうことが適うわけです。なぜなら、イエス・キリストが、天に置おいても地においても、既にサタンへの勝利を治めておられるからであります。キリストの勝利が、キリストの内にある私たちにもたらされる、ということです。
最後に、私たちが強くされる、主に私たちを繋ぐものについて。13節から17節。
「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」
地上にある限り続く、サタンの攻撃。サタンとの戦い。これに対抗して、強く立つためには、「神の武具を身につける」ように、と勧められています。神様が与えて下さるところの、全ての武具を身につけなさいという勧めです。それが10節の「主によって強くされる」ということであります。私たちを強くするものは、神の武具。神の力です。その防具は、真理、正義、福音、信仰。そして唯一の武器は神の言葉だとあります。イエス様は、ご自身を唯一の真理だと言われました。真理なる神であると。正義、つまり神の義も、福音も、信仰も、すべて主の恵みであります。
これらは、聖霊が神の言、聖書を通して働いて下さることで、私たちに注がれます。私たちを守り強めて下さるのは、主ご自身であるということであります。私たちは、まことに弱い。困難に弱く、痛みに弱く、何より誘惑に弱い。罪に気づかない弱さもあります。しかし、主にあって、クリスチャンは強くされるのであります。 主にあって、その大いなる愛の御力によって強いものとされてきました。今私たちが、こうして教会に集い、礼拝を守ることが出来るのも、代々の聖徒が信仰の戦いに勝利してきた証しであります。それは、主の勝利であり、主のみ心。救うべきものを一人残らず招き入れてくださる、み心であるということであります。
私たちも、主のうちに置かれて、やがて天の御国に召されるその時まで、この戦いを戦い抜き、信仰を守るという願いを持ちます。全ての備えが与えられていることを覚えたいと思います。私たちは、日々、攻撃を加えてくるサタンに対し、み言葉に聞いて、王なるイエス様への信仰をもって、確信をもって信仰の戦いに臨みたいと思います。
最後に、18節。
「18:絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」
この信仰の戦いは主にある勝利が確定しています。しかし、それでもない不安や迷い覚える私たちを支えるのが祈りであります。私たちの自身の戦いの基礎は祈りにあります。サタンを知ることも、まことの神様に対し、唯一の仲保者イエス様の御名によって祈ることも、キリストの民にしかできない務めであります。
うむことなく、忍耐強く祈る。なかなか自分の思ったようにならない。願いがすぐに満たされないと、感じることは多くあります。しかし、忍耐強く祈る。祈りの本質は、私たちの願いが、神の御旨に適うことのために祈るところにあります。御旨は必ずなりますから、御旨を知るために、まずみ言葉に聞いて祈ります。そして、御霊によってというように、聖霊が私たち自身気づかない願いを探り出し、天に届けて下さいます。聖霊が私たちの内に働いて下さる、もっとも確実な手段はみ言葉であります。
全ての聖徒のために、と言われるように。地上の全教会のために、すべての兄弟姉妹のために祈る。また、全ての聖徒ということは、永遠のうちに主に民とされているものの、まだ回心に至らない人のために、さらにはこれから生まれて来る、聖徒らの為にも祈る、ということが教えられています。私たちも、多くの兄弟姉妹によって祈ってもらっていて、その祈りを主は聞き給うのであります。
無力な地上の私たちに、み言葉は命じています。「強くされなさい」。主に繋がって、主の中に留まるように。そのためには、主を礼拝し、み言葉に聞き、忍耐強く、共に祈りつづけなさい。