「テサロニケ人への第2の手紙」の第2章13節~17節の御言です。
短い御言葉の中に、信仰へと至る道筋、救いの確信とその感謝、さらに信仰者に求められることがら、つまりはキリスト教信仰の本質が凝縮され、簡潔に記されています。
13節「それは神があなたがたを初めから選んで・・」とありますように、まず神様がなされたこと。
キリスト教の神髄はまさにこの点にあります。主体は神様であること。人間でなく、自然でも宇宙でもなく、すべてに先んじて、まず全能の創造主、支配主、そして愛なる神様。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊からなる三位一体の、唯一の生ける真の神様が存在され、前提であるという真理。この聖書の真の神を私たちはいかに知りうるか、信じることができるのか、ということが、未だ信仰の自覚を得ざる者にとって、大きな問題です。様々な経験を通して、あるいはあらゆる書物、学問を学んで、また修行や瞑想、個人的な思索によってたどり着くものでしょうか。聖書は、決してそうではないと教えています。
私たちは、ウェストミンスター信仰基準を信仰告白として用いていますが、その中の「大教理問答」第2問では「神の存在は、どのようにしてわかるか」という問に対し『人間のうちの本性の光そのものと、神のみわざが神の存在を明らかに示す。しかし、神の御言葉と御霊のみが、人間の救いのために、十分に、また有効に神を啓示する。』と答えを聖書から導きだしています。(コリント2章9-10・新約P258、Ⅱテモテ3章15-17:新約P335)
神の言葉である聖書を通して、御霊すなわち聖霊のお働きによってはじめて、私たちは主なる神を知り得、また信仰へと導かれるわけであります。
この信仰とその確信へと至るまでの過程はまさに千差万別、全てのクリスチャン一人一人に、違った道のりがあるわけですが、主なる神、救い主キリストの父なる神との真の出会いは、唯一、聖書の御言葉を通し、神さま御自ら啓示されるしかない、という点において、キリストご昇天後の地球上のまた歴史上の全てのクリスチャンに共通するところなのです。
故に、キリスト者として召された者の第一の使命は、この聖書を証し、述べ伝えるというところにあるわけです。なぜなら、誰が選ばれ、いつ召されるかということは、誰にもわからない神さまの御心であり、しかし、選ばれし全ての人が永遠の滅びより救われる方法の、まず第一歩は、先の通り、聖書の言葉を通して働かれる聖霊のお働きによるからであります。
コリント人への第一の手紙12章に
『聖霊によらなければだれも「イエスは主である」ということができない』
と書かれているとおりなのです。また、エペソ人への手紙1章3節~5節に
『ほむべきかな、私たちの主イエスキリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、私たちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』
とありますように、一切、人の功罪、出自、能力によらない、ただ恵による神の主権的選び。私たち、不完全な人が選ぶことでなく、身につけたものでなく、全能の主なる神が定められたところの確実なご計画。
それ故に、この救いは確実であり、聖霊がその確信を私たちに与えてくださる、魂の奥に据えて下さっているのです。先の選びと救い、召しの原則がパウロら使徒による福音宣教をとおして、テサロニケにおいて現実に実を結んでおり、更に2000年を経て私たちへと繋がる歴史的事実となっているのです。
15節はパウロによる奨励、勧告です。パウロは、聖霊により明かされたところの神の言葉である聖書。救いの根拠と現実に堅く立って、福音の真理を守り述べ伝えるという、先にも述べました、召された者の使命をここで簡潔に命じています。
そして、そのための祈りが最後の16節、17節です。このパウロの、信仰と愛に満ちた祈りは、まさに私たちに向けられたものとして、味わいたいと思います。恵みによりキリスト者とされ、救いの確信の中になってもなお、この世にあって、私たちは弱く、不完全で罪多く、揺らぎ惑う存在であります。
この弱さゆえに、このパウロの祈りが必要であり、逆に弱さゆえに、そこに神様の励ましと強めがあらわされるのであります。この祈りが私たちのために、またすべてのキリスト者にとって真実かなえられる祈りとして、ともに信じ、祈りたいと思います。
どうか、この世のひとときの旅路において、やがて召されるその日まで、しっかりと聖書の教えに聞き従う信仰生活を保つことができますように。