喜びが溢れるため

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喜びが溢れるため

(1) 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
(2) このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
(3) すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
(4) これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。ヨハネの第一の手紙 1章1節から4節

3) すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
(4) これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

ヨハネの第一の手紙は、宛先の指定が無い、いわゆる公同書簡に含まれています。差出人も記されていません。ヨハネの第二、第三の手紙では、「長老の私から」と、一応自己紹介はされていますが、第一には一切ありません。それでもこの手紙は、福音書記者の使徒・ヨハネであることが、ほぼ間違いないと言われています。
 それは、お読みいただいた通り。手紙の始まりの文章や内容から、ヨハネ福音書と非常に密接な繋がりがあると、すぐ感じることができると思います。手紙自体もそうですが、また外的にも、2世紀の有名な教父たち。特にヨハネの直系の孫弟子にあたる、エレナイウスらが証言していることから、使徒ヨハネによる手紙であると受け止めて良いと思います。
 
使途ヨハネは、ペテロやイエス様の兄弟ヤコブとならんで、教会の大きな柱でした。使徒行伝を読むとわかる通り、ペテロとともに伝道していたことが良く分かります。使徒筆頭と言われるペテロとならぶヨハネは、同時に使徒たちの中でも一番の若手でした。イエス様が埋葬されたお墓から消えた、という報告を聞いて、ペテロと一緒に飛び出して、一番初めにお墓にたどり着いた、イエス様が愛された弟子、というのがヨハネと言われています。
そして実際、多くの使徒たちが迫害によって殉教し、召されていく中で一番長生きすることになります。そのヨハネがこの手紙を書いたのが、紀元90年代前半、1世紀の末頃と言われています。この頃になると、ローマ帝国の皇帝の命による表立った迫害もあり、多くの使途や弟子たちが殉教したり、捉えられていきました。この手紙の頃には、使徒達は残っておらず、イエス様を直接知る弟子たちも、非常に少なくなっていました。迫害があり、その中で使徒がいなくなっていく状況は初代教会にとって、大きな不安でありました。
さらに、外からの脅威だけではなく、教会内部においても多くの偽教師や異端、世俗主義などが入り込んで、急激に広まっていた初代教会は、不安と混乱の時代を向かえようとしていたところであります。そのような時代背景の中で、最後の使徒ヨハネが、自らの晩年に筆を執ったのがこの手紙であります。
ヨハネはここで何を伝えたかったのか。ひとことで言うとイエス・キリストは、いったいどのようなお方か、ということ。そしてキリストの教会とはどのようなものであるか、を表わしている、まさに、福音の真理が凝縮された手紙と言えると思います。
 特に、ヨハネが意識していたのが、グノーシス主義という異端だと言われています。善と悪の二元論。霊が善で、肉、物質が悪、という完全な二元論です。ゾロ・アスター教やギリシャ哲学の影響とも言われています。 二元論というのは、善である光の神と、悪の闇の神によって世界は支配され、両者は同等で、交わることがない、というものです。彼らにとって救いとは、悪の物質の世界から脱出して、善なる霊の領域に入ることになります。
ただ、そのために必要とされることが、いろいろあってバラバラです。特殊な儀式とか、特別な知識、認識に到達するといった、ある種仏教的と言うか密教のような感じです。特別な善とか真理を、人間の知恵で求めて、到達した二元論であって、そこでは物質は悪ですから、全く価値が無いことになります。そのため、極端な禁欲主義も出てきました。逆に、霊的な領域に達した者は物質に汚されることが無いので、放蕩主義の退廃的な生活に陥る人々もいたようです。いずれにしても、キリスト教信仰からは大きくそれたものでした。
グノーシス主義は、いわゆる高学歴な知識層や社会的な力のある人が多く、教会のなかに広がりつつあったようです。この誤った二元論の恐ろしいところは、人々のイエス・キリストについての認識に大きな影響をおよぼした点にあります。善と悪、霊と物質は、まったく区別されているわけですから、全く善である霊なる神の子が、肉体を持って人となられるなど、あり得ないことになります。そこから、キリストは人のように見えるだけ、といった説が出てきます。神の子が地上で受難することはありえないので、キリストとは、人間イエスに、あとから神が乗り移った。バプテスマの時に宿って、十字架で死に直前に離れて行った、などと説明する者もいました。人間がその知恵で考えて、つじつまを合わせるとそのように変形されることになります。
 こういったことが、何となく説得力をもって教会に広がっていたため、ヨハネはその誤った教えを明確に否定して、人々が正しいキリスト信仰、真実の福音にしっかり立つように。とどまり続けることができるように。人となられたイエス様と直接交わり、証人として召された使徒の権威を持って、教えているのがこの手紙であります。

 ヨハネのその姿勢は手紙の書き出しから表されていきます。ご一緒に見て参りましょう。1章の1節から4節

「(1)初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
(2)このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私は見たので証しして、あなたがたに伝えます。
(3)私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
(4)これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」

この手紙を書いた人物が、明らかに、直接イエス様と交わりがあり、教えを受けた人物であることが強調されます。それは使途の条件でもありました。そこで使徒として、まず経験を語ると言っています。それはイエス・キリスト経験です。2章では、書き送った先の人々に何度も「私の子どもたち」と語りかけています。わが子と呼ぶ信徒たちに、使徒がいなくなっていく不安のなか。迫害や異端に混乱させられている教会員に対して、これを励まし、確かな福音信仰に立つことができるように、イエス様と直接交わった証人である、最後の使徒ヨハネが、真に伝えようとしていること。それを、教えているのがこの手紙の書き出しであります。

 手紙は、挨拶も名乗ることもなく、いきなり始まります。1節。
「初めからあった(未完了)もの、私たちが聞いた(現完)もの、自分の目で見た(現完)もの、じっと見つめ(過去)、自分の手でさわった(過去)もの、すなわち、いのちのことばについて。」
使徒ヨハネが伝えようとしていることは、事実であり、現実である。彼ら使徒が実際に見て、聞いて触った確実なこと。ものは、「初めから」、世の初めからあったものだということ。即ち、永遠からあった、永遠の存在。それを私たちが見て聞いて触った。永遠が現実のもとして、実体となって現れました。「私がこの身で実際に体験したのは、英会陰の命の言葉の表れである。」これが、ヨハネがまず何より伝えたかったこと、ということになります。2節は1節の順番を逆にしての繰り返しになります。

「(2)このいのちが現れました(過去)。御父とともにあり(未完了)、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私は見た(現完)ので証しし(現在)て、あなたがたに伝えます(現在)。」
御父、造り主なる唯一の生ける真の神と初めからともにあった永遠の命のことば。それをヨハネは実際に見て経験した、とい言います。見て聞いて触った、真実の経験を、証人として確実なできごと。それを之から伝えるのだ、とヨハネは宣言したのであります。
 
 ヨハネたちが実際に経験して、交わって、のべ伝えているのは、ナザレ人イエス様でした。この人の経験。十字架にかけられたのは、まだ5-60年前の出来事でした。十字架で死なれた方。死んで甦り天に昇られたこの方は、永遠から御父と共におられた神の御子であるという点。まったく曖昧さのない、真実であること。これが、ヨハネが伝えようとしていることでした。それこそ、私たちの親が戦争体験を語るように。実際に起きた出来事。ヨハネの前に現れた、神の御子は、人であり、永遠が歴史に現れたかたでした。見えない霊が形をとられたかた。このかたによって、天と地が結び付けられました。私たちが天に入ることのできる道となられた方でした。この方は永遠の命の君でありました。永遠の存在であり、この方と結びつけられて、ただそれだけによって私たちもまた、永遠の命に生かされるのであります。この方が命である。命の源である。わずか4節で「いのち」と言う言葉を3回も繰り返し、確認しています。

 ヨハネは冒頭に宣言しました。永遠の命のことばの現れ、それがイエス・キリスト。ただそのことを確実な真実として、証人としてこれを伝えると。そしてその目的について。
ヨハネは3~4節、
「(3)私たちが見た(現完)こと、聞いた(現完)ことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。(4)これらのことを書き送る(現在)のは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」

 実在の人物として存在されたイエス様が、天の御父と初めから共におられた、永遠の御子であり永遠の命の言葉なるかたであること。それを伝えること。それは、聞いたものが「私たちの交わりを持つように」。キリストを聞いて、信じて、教会の交わりに入るようになるため。そう、ヨハネは語っています。この言葉。聖書の言葉を聞いて、御霊が心の目を開いてくださって、神様の言葉と信じた者。聖書を神様の言葉と信じることは、イエス・キリストを救い主と信じることです。そして、信じて、救われる。救われた者の集まりがキリストの教会であります。その一員となって交わりに入ります。

キリストの教会の交わりというもの。それは、ただ人間の交流ではないということ。学校や会社、サークルといった、ただ人と人との交わりではない。「御父また御子との交わり」であります。御子によってもたらされる、御父との交わりの回復であります。御子にあずかって私たちもまた神の子とされて、父なる神様との永遠の交わりに入る幸い。
教会の交わりとは、まず縦の関係です。窓口は家族や友人といった横のつながりからかも知れませんが、そこで与えられるのは会員や牧師との関係なのではなく、御父と御子との交わりであります。そして、御子にあって、同じ御父の愛の内にある兄姉としての繋がりが生れるのであります。
教会の交わりが、父と御子との交わりと申し上げました。つまり、教会生活の始まりとは、神様との交わりの始まりであります。 先週瀧田教師より
<神様に赦され義とされたことによって、人生に於いて出会う患難も、聖化の歩みの課題ともいうべきものに、「意味合いが変った」>ということだとお話されました。
まさに、信仰によって救われた者、交わりに加えられるということは、すべての出来事の意味が変わるということです。信仰の有無にかかわらず、様々なことがおきる。それは、しかし表面上は同じ様でも、中身は全く違います。ガラス玉とダイヤ程。人生の全てに私たちを愛して下さる主のみ心が反映されているのであります。たとえすぐ理解できなくても、自分の思い通りでなくても、真の意味があることを確信できるのであります。恵の契約の意味であります。

最後に、ヨハネの証しを通し、イエス様を救い主キリストと信じて、教会の交わりに入れられることは、「私たちの喜びがあふれること」。確かに新しい方が増えれば、それは会員皆のよろこびです。しかし、それ以上に、御子と御父の大きな喜びであるということであります。ルカ伝15章。イエス様は、迷った小羊、失われた銀貨、そして放蕩息子のたとえ話をされました。これらを通して、私たちが御父のもとへ、その交わりに立ち帰ることを、父なる神さまが、いかにお喜びになるか、どれほど喜んで迎え入れて下さるかを教えられました。そのために、御父がどれほどの代価を支払われたか。私たちの主、父・御子・御霊なる神さまが、心から喜ばれる。その喜びが、わたしたちにあふれる喜びとなる。「喜びが満ち溢れるため」というのは受動態が使われています。父と御子の喜びが教会満にたされて、溢れるようになる、その喜びに私たちも共に与ることがかなうのであります。
御父と御子の喜びが教会にあふれるように。私たちがなすべきこと。それは、ここでヨハネが宣言したこと。永遠の神の御子、命の言葉が、私たちのもとに来てくださった。私たちのために血を流し、代価を払い、神との交わりを回復し、永遠の命へ入れるために来てくださった。それがイエス・キリストであること。このことを、しっかりと証言することであります。どうか、そのために、主が、一人一人を相応しくお用い下さることを願う次第です。

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