義とされ聖とされる
(1) このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
(2) わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
(3) それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
(4) 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
(5) そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
ローマ人への手紙 5章1節から5節
<(5)そして希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。>
今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
今日は義認と聖化という大きなテーマを立てたのですが、教理的にがっちり話すというよりも、私の中で最近ようやくはっきりしてきた思いを、皆さまと分かちあいたいと思ってのテーマです。
実は信仰に導かれた当初の私にとって、聖化ということはある意味躓きの石でありました。信仰に導かれ、受洗の喜びに浸っていた私に、先輩方のグループの人たちが「あなたは聖められなくてはなりません」と言ってこられたのです。今思えば「這えば立て、立てば歩めの親心」だったのでしょう。しかし求道経験も浅く、救いを信じて受洗したばかりの私には理解できませんでした。その方達の断定的な口調と相まって、私は救いの確信を揺さぶられ続けることになりました。
救われたのではないのか、雪のように白くされたのではないのかと、悩み続けました。その悩みは不思議にもローマ人への手紙10:10(246)を示されたことで解決されましたが、「聖められなくてはなりません」という居丈高な言葉がずっと気持ちに引っかかっておりました。
神学校に行くようになって、義認と聖化ということについて習い、一通りは分かるようになりました。義認即ちイエス様を信じることでイエス様の贖いのみ業が転嫁される。汚泥が雪で覆われるように、イエス様をまとうことで父なる神様の目に、イエス様と同じように罪の無いものと認められる。この壮大な恵みである信仰義認については、感謝と喜びをもってはアーメン、ハレルヤでありました。
そして神様の前に罪なきものとして立つことを赦された私たちは、そこから神様の子どもとして相応しいものへと、変えられ、育てられる、それが聖化の歩みであります。なるほど。義認はスタートラインであり、そこから新たな歩みが始まる。「聖められなくてはなりません」という先輩たちの言葉は、そういうことであったのかと分かりました。しかし本音を言うと、頭ではわかった、試験の答案で及第点をとる程度にはなったと思いますが、心からの理解とはなっていない、アーメン、ハレルヤではないという思いがありました。それが次第に自分の中での得心に導かれていった中で、ルカによる福音書第15章の放蕩息子のたとえは大きかったと思います。
私はクリスチャンスクールに勤めていましたから、聖書のみ言葉を取り上げて学生たちとディスカッションする機会が多かったのですが、この放蕩息子のたとえがしばしば取り上げられました。学生たちの率直な感想はとても面白かったのですが、そのなかで弟息子は本当に良い子になったのかという疑問が出てきました。
人間のドラマであれば、苦しくなって戻ってきても喉元過ぎれば熱さ忘れるとばかりに、またふらふら出て行って、親兄弟を嘆かせる愚か者として描かれるかもしれません。しかし聖書は神様のみ心を伝えるものです。ですからここで大切なのは、弟息子を待ち続け、求め続けた父親の愛であり、ぼろぼろになって帰ってきた弟息子に、上等の着物と指輪をつけさせて履物を履かせて、たちどころにその立場を回復してやった父親の愛と憐れみであります。
放蕩息子は、上等の着物を着せられ指輪をはめて履物を履いて、傍目には立派な跡継ぎとなりました。心の中がどうなのかは分かりません。しかし彼はここで正当な権利を持つ息子としての立場を回復され保障されたのです。義認というはこのことです。何も問わない。戻ってきたというその一点を嘉してあなたの立場を回復しよう、保障しようと言うことであります。
私たちは、イエス様の救いを信じてイエス様にすがることで、神様に義と認められました。イエス様を信じたかどうか。それ以外は何も問われません。しかしそこで留まっていて良いものでしょうか。私たちは罪の世に生きてきたのですから、思いにも言葉にも行いにも、神様のみ心に背く罪に染まったところがいっぱいあります。そのままで良いはずがありません。
ローマ人への手紙6章1~4節(新約239頁)
<(1) では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。(2) 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。(3) それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(4) すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。>
放蕩息子も帰ってきた以上は、改めて家の仕事を継ぐ者として、様々なことを学ぶことになるでしょう。私たちも神様のもとに帰った以上は、神様の民、神様の子どもとして学び、育てられる必要があります。罪に生きていた私はイエス様と共に死んだのです。そして復活の主と共に新しい命に生きるものとなったのです。世に迷い出て身につけてしまった悪しき思いや悪しき行いをこそげ落とし、神様が最初に創ってくださった姿、イマゴ・デイ=神の似姿へと変えられなくてはなりません。聖化の歩みとはそういうことであります。
そしてその歩みは、5章1節
<このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。>
というように、既に神様との平和な関係を土台とした歩みとなります。神様は私たちに怒りの目も落胆の目も向けることはないのです。神様を恐れることはない、むしろアバ父よと慕い寄ることが出来るのです。そして5:2このような恵みに満ちた状態に、ただイエス様を信じる信仰(その信仰も神様からいただいたものですが)によって招き入れられ、そしてやがては神様の栄光に与ることがやくそくされているのです。私たちはその希望を喜ぶ者ですが、5章3節
<それだけではなく、患難をも喜んでいる。>
患難をも喜ぶ者となります。
この患難をも喜ぶというところですが、ここを修身に出てきそうな「艱難汝を玉にす」とか「七難八苦を与えたまえ」(山中鹿介)などと混同されそうですが、そういうことではないのです。
神様に赦され義とされたことによって、人生に於いて出会う患難も、聖化の歩みの課題ともいうべきものに、「意味合いが変った」ということなのです。人が生きていくとき、必ず患難即ち苦しみや悩みに出会います。子どもであれ大人であれ、その時々に悩んだり苦しんだりします。しかしそれらは決して罰でも祟りでもないのです。むしろ神様の子どもとして相応しいもの、イエス様を長兄と仰ぐ生き方へと導く課題であり、試験なのです。
『若草物語』を読まれた方は多いと思いますが、あの主人公の姉妹たちは愛読書の『天路歴程』になぞらえて自分たちの生活を律していくという遊びを考えて、成長の糧としていました。『天路歴程』は一人のクリスチャンが、世の様々な誘惑や試練、攻撃を乗り越えてやがては天の国に迎えられる話です。
また『ケティー物語』というアメリカの家庭小説がありますが、これも事故にあって寝たきりの療養を余儀なくされたケティーという少女が、自分の境遇を神様の学校と呼んで、日々希望を持って暮らす中で人格を高める話でありました。
世にあってキリスト者として生きるということは、自分が様々な人や様々な出来事に出会うとき、常にみ心に聴きながら正しい道を選び取る訓練の道筋をあゆむことであります。その一つ一つの経験によって、(5章3~4節)
<患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を>
生むのであります。そのことを知っているので、キリスト者は患難をも喜ぶことが出来るのです。
これは、苦労によって世慣れて来る、苦労によって人格が練れて来るというような、世的な価値観とは違います。私たちはどのような境遇に置かれても、喜怒哀楽のすべてを神様との関係を土台にしてみることが出来るのです。ですから5:5私たちは人生の歩みをいつもどのようなときにも、うちなる聖霊によって神様とつながり、神様の愛を受けてあゆんでいくのであります。
義認と聖化について、私自身の迷いや戸惑いを含めて話して参りました。
義認は、人生のある一点で起きることです。あの時に私は救いを得た。あの時私はイエス様の裳裾にすがったと、記憶もしていますし、その時の感動をリアルに思い起こすことも出来ます。
しかし聖化は救いに与ったときから一生をかけての過程です。日々生きていく中で、徐々に変えられていく緩やかな変化です。日々み言葉に聴き、祈り、み旨を仰ぐ生き方によって、み心に叶う判断力が養われ、み心に従う生き方へと導かれていく、そのような穏やかながら確実な変化でありましょう。
「希望は失望に終わることはない」
新しい年も、神様のご愛のもと御霊に導かれつつ歩んで参りたいと思います。