灯を保つ主
○列王紀上 11章35節から40節
○<(36) その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。>
列王記、上11章36節の御言葉でございます。今朝は、列王記から導かれたいと願っております。今回、列王記を挙げましたのは、祈祷会で丁度、列王記の下巻まで進んできていまして、その中で、イエス様や使徒の時代の背景を理解する上で、この歴史書、前の預言書の存在が、大変重要だと、あらためて感じたところであります。
さて、「前の預言書」と申し上げました。旧約聖書の、もともとの3区分、トーラー、ネビーイーム、ケスービームで言えば、ネビーイームつまり預言書になります。「トーラー」は律法でモーセ五書。そして「ケスービーム」は諸書、と訳され、詩篇や箴言、ヨブ記、ルツ記や歴代誌もこれに含まれます。
今年の月報でも2回にわたってこれを書きましたが、なぜこの3区分にこだわるか、と申しますと、それは、イエス様が聖書をそのように読んでおられた、分類されていた、という点にあります。ルカの福音書24章44節で、
「~すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。」
と、このように仰っています。「モーセの律法と預言書と詩篇」というのは、イエス様による旧約聖書のとらえ方、ということになるわけです。3区分の関係から見た旧約聖書は、律法が恵みの契約。神様と私たちの関係の原則が記されて、その恵みの契約の歴史への適用が、預言書。私たち一人一人の、人生への適用が諸書に教えられている、言えます。このように大枠でとらえると、難し気な旧約聖書も理解しやすくなると思います。
この預言書で明らかにされることは、神の啓示、恵みの契約は、抽象的な、概念や原理ではない。実際の歴史的な背景の上に、具体的に顕される、ということが描かれています。
さて、列王記を見て見ますと、その名の通り、イスラエル王国の歴代の王と、国家の歴史が描かれています。アブラハムに対する、主のお約束から約千年、カナンの地に入り、求めた王。ダビデを与えられて迎えた、イスラエルの絶頂期。後の世にイスラエルの理想的な姿として語り継がれる、ダビデからソロモンの時代と、そこから衰退していく歴史になります。ソロモン王の隆盛と、その後バビロニアに敗れて国家として滅びるまで。神の国イスラエルの国家としての隆盛の面で見れば、サムエル記が上昇部分。列王記はその頂点と、そこからの下降線を描いていることになります。
列王記では、たくさんの王様が出てきますが、その記録は、各王様の宗教的態度。信仰。主に対してどうだったか、という点が中心になっています。社会的な功績の記録もありますが、かなり簡略化されているのが分かります。つまり、十戒の第一戒と第二戒、これを守ってきたか否かが、王の規準として描かれているのであります。 その上で、国の歴代の王がいかに、主に背い
てきたか、が記録されている歴史書と言えます。
それは、神の国であるイスラエルが衰退した原因こそ、主なる神様への背きにある、ということを表わしているからです。それが、理想の王とされる英雄ダビデや、ソロモンであっても、やはり罪があり、主に背いた、その事実を明確にしている。彼らは、召されて、賜物を与えられ、用いられたが、力を得た時に、主に背いていく。そして主はこれを懲らしめられた。その根底には、トーラー、律法に記された、主の戒めがあります。
たとえば、申命記28章14~15節にも、次のようにあります。
「(14)きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。(15)しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。」
これが、実際のイスラエルの歴史の上に顕されたことが明かされているわけです。
さて、列王記上の概観を申し上げますと、前半が1~11章が、統一王国の様子。ソロモン王の着位と、その知恵、神殿建設、ソロモンの晩年の背き。後半が12~22章で、王国分裂について。北イスラエルと南ユダに分かれる経緯と、それぞれの王の様子が描かれてまいります。
本日お読み頂いた11章は、まさに王国分裂の直前の様子と、その原因が記されているところでございます。直接原因は、11章の9節から11節
「(9)このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、(10) この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。(11) それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。」
主に従順で、謙虚に知恵を求めたソロモンも、晩年は、様々な国から迎えて多くの妻を持ち、彼女らが異教の神々を持込み崇拝するのを許してしまいました。ソロモンの背き、偶像礼拝から、国が分かれていくことになります。
ソロモンの後は、その息子のレハベアムが王位を継ぎましたが、若さゆえに高慢で、長老たちの意見を聞かず、民を軽んじて、弾圧した為、人々の信頼を得ることが出来ませんでした。逆に、ソロモンの家来であったヤラベアムは、国民からの支持を受けて、民によって、王として立てられることになります。
本日のみ言葉は、そのヤラベアム対して、預言者アヒヤを通して語られた、主の予言であります。
「(34) しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。
(35) そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。」
これは、ソロモンがまだ存命中に語られた御言葉でした。そして、その通り、イスラエルは、
12部族の内、10部族がヤラベアムを支持して、ソロモンの子レハベアム。つまりダビデ王家から
離れて行きました。残ったのは、ダビデのでたユダ族と、その中に取り込まれていたベニヤミンの2部族ということになります。あと、祭司としてレビ人が残りました。
ヤラベアムへの主の言葉は続きます。37~38節。
「(37) わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。(38) もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。」
こうして、統一王国として栄えたイスラエルから10の部族が離れて、ヤラベアムを王として、北イスラエルが独立しました。紀元前930年頃の出来事になります。12の内10部族をえた北イスラエルは、当然有利ではありますが、ヤラベアムがその後どうしたかというと、人々が、主を慕ってエルサレム神殿に参拝して、南ユダにつくことを恐れて、自物たちで勝手に祭壇を造り、また、金の子牛の像を造りってしまいます。
これは、金の子牛そのものを崇めるのではなく、主を礼拝するために、子牛の偶像を使った、ということですが、出エジプトと同じ過ちを犯しているわけです。ヤラベアムは、勝手に祭司を任命し、勝手に祭りの日を定めて、この祭壇で子牛に犠牲を捧げるようになります。
こうして、北イスラエルでは、歴代で20人の王が誕生しますが、全て、主に背いて、偶像礼拝や異教の神々を祀ることを繰り返していきます。今20人の王と言いましたが、王朝としては9つの王朝が生れるています。つまり、王家の系統ではなく、家来の反乱があって、つぎつぎと王家が滅ぼされて行った、ということです。結果的には、紀元前722年、アッシリアに侵略されて、北イスラエルは完全に消滅することになります。この北イスラエルがあった地域が、新約時代のサマリヤ地方であります。
それでは、残った南ユダはどうなったか。レハベアムも最初は主に従順でしたが、すぐにアシラという神の像を造ってしまいます。南ユダでも同様に20人の王が続き、基本的には、主に従う、という王が多かったのですが、北や周辺国の影響から、偶像を取り入れる王もいました。良い王たちも、徐々に緩くなっていき、後半にヨシヤという、大胆な宗教改革を行い、主に立ち返ろうとした王が出るころには、かなり信仰的な退廃が進んでいました。
最終的には、北イスラエルが滅んだ150年程後、紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、バビロン捕囚、屈辱を味わうことになってしまいます。ただ、南ユダも王は20人でしたが、王朝はただ一つです。ユダ族、つまりダビデ王朝が守り続けられたことになります。これが、国が滅んだ後も守り続けられた、ということを覚えたいと思います。
11章36節
「(36) その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。」
主は、主の前に「常にひとつの灯を保つ」と言われました。当時ヤラベアムがこれをどのように受け取ったか、はっきりと描かれていません。ただ、「灯を保たれる」ことを、」主が約束されたのだ、ということを南ユダの人々は認識していました。
このことは、ユダに、悪い王、主に背く王様が出た時に、繰り返し語られます。15章では、アビヤムという、様々な罪を犯した王様が出た時も
「(4)それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを
与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。」
と書かれています。
また、列王記下の8章でも、ヨラムという悪い王様が出た時、
「彼は主の目の前に悪をおこなったが、(19) 主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。」
「灯」の姿が、人々の中で、徐々に明らかにされてきたように思います。長い、苦難の歴史の中で、罪が重ねられる中でも、主が保ち続ける、と言われた一つの灯。その灯の中から、やがてまばゆい、大きな光が放たれて、真の意味が明かされました。救い主、神の御子イエス・キリストの来臨であります。
さて、南ユダは、バビロンに捕囚となりましたが、70年後。そのバビロンを退けたペルシャの「クロス王によって、帰郷を赦されています。39節
「(39)わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない』」
とある通りです。ただし、捕囚憂き目からは解き放たれましたが、ペルシャの支配下に置かれました。ペルシャから寛容に扱われるようになった経緯がエステル記明かされています。
また、ペルシャの後はローマ帝国の支配下に置かれてしまいます。
このように、他国の支配を受け、苦しみの中に置かれた、ユダの人々を支えたのが、捕囚から帰って、再建が赦されたエルサレム神殿であり、そこで失われつつあった御言葉を集め、あらためて再編された、聖書。まことの神の律法でした。これらが、ユダヤの神の民としてのアイデンティと、約束されたメシヤ、ダビデの末への希望となっていたのであります。
国が滅び他国から支配される立場でも、ダビデの系図が守られてきた、ダビデ契約への信頼。ダビデのようなメシヤを待ち望む・・神殿と聖書によって保たれる神の民の希望。新約のローマ時代までつづく、ユダヤ人の背景であります。
あらためて、列王記を振り返りますと、神の民の国を建て、反映させた偉大な王達も、主に背いて、それが国の衰退をもたらしたことが記されています。
そのような背きと偶像礼拝が進む中、預言者達により、主なる神様の御言葉が伝えられた。まことの神、主に立ち帰れ。という招きでした。しかし、王や人々は、預言者の迫害を繰り返しました。つまり、人は神様に背く。神によらなければ、自ら神様の元に戻れないということです。
だから、そこに、救い主が必要である。その救い主、イエス・キリストを送る受け皿として備えられた、神の国の王位。苦難と屈辱、背教の中、ただ一つの灯。救い主に至るダビデの系図が保たれてきた。不信仰と国が滅ぶ中で、一つの灯が保たれていった。
そして、ユダヤの人々の想像を超えた、まことの王、神の一人子イエス様が私たちのもとに来て下さいました。私たちのために、死んで、甦るためであります。