神は覚えておられる

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神は覚えておられる

(40) しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、(41) たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、(42) そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。
(43) しかし、彼らが地を離れて地が荒れ果てている間、地はその安息を楽しむであろう。彼らはまた、あまんじて罪の罰を受けるであろう。彼らがわたしのおきてを軽んじ、心にわたしの定めを忌みきらったからである。
(44) それにもかかわらず、なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。
(45) わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主であるレビ記 26章40節から45節

「それにもかかわらず、なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。」

 レビ記26章44節のみ言葉でございます。今朝はレビ記のみ言葉に聞いてまいります。レビ記は、モーセ五書。トーラーの第3巻で、会見の幕屋で主がモーセに告げられた、主に儀式律法が記されています。私が若い頃、洗礼を受ける前か、間もないころ、聖書の通読をすすめられて、最初に立ちふさがった壁でした。創世記から、ずっと読んでくると、物語性もあってスイスイ進みましたが、レビ記に差し掛かると、それまでの舗装された道が、ぬかるんだ道に変わったように、一気にスピードが落ちて、読み飛ばした記憶があります。
 結局、じっくり読めるようになったのは、ずいぶん時間がたってから。神学館に行きだした後のことだったと思います。なぜ読み進めることができるようになったかと言いますと、いわゆる概観、概略を学んで、全体の構成が分かっってきた、ということが原因だと思います。いきなり、パッとレビ記を読み始めて、そのみ言葉によって救われたとか、聖書を読む力になった言う方は少ないように思います。当然、神様のみ言葉ですので、そういうことも十分ありますが、一般的には、一つ目の山というか、草原から繁った森、迷路に入り込んだように感じていました。
 レビ記の次は、ヨブ記や詩篇などの詩歌。また預言書などに書かれた、詩的な、韻文の部分で、結構苦労しました。
しかし、これらも全体構成や、中心的なテーマ、背景や目的をある程度知るようになると、読み方が変わって、目に入って来る言葉の力というものを、改めて思い知らされます。かつて、読むことに苦しんでいたところが、喜びに変わって行く、という瞬間が、どなたにもあると思います。その根底にあるのは、やはり信仰です。主なる神様を信じ、主を愛して、信仰と愛がそこにあることを確信して、求めて、み言葉に向かう時、み言葉をとおして聖霊が私たちに働いて下さるということであります。
そこで、レビ記の中心的なテーマは何かについて、一言で言いますと「あがないによる聖なる礼拝と生活」が教えられる、ということになると思います。モーセに授けられた律法の中にあって、土台となるモーセ契約おいては、「主による救い」と「あがないの必要性」が啓示されていました。ノア契約では「滅ぼさない」ということ。アブラハ契約においては、神の主権的「選び」とそれに応える「信仰」が教えられ、その先に微かに救い主の約束が込められていました。そして、モーセ契約では「救い」がどのようなものか、ということと、「あがない」が必要だということが明かされてまいります。

それでは、そのような戒めがどのような構成になっているか、見て参りたいと思います。
レビ記は1章から27章まであり、1章から10章までが前半、11章から27章が後半と、二つに分かれています。大きな二つのテーマが教えられているということです。
 まず前半では、「あがないによる礼拝の在り方」が細かく規定され、詳しく教えられています。
そして11章以降の後半では「あがないによりきよめられていく生き方」が教えらえます。
つまり、主が選び、救い出された民が、主の民、神の民として地上にいくために求められていることであり、それは「聖なる礼拝と聖なる生活」であること。聖別されること、つまり神のものとなる聖別。その前提、土台には「あがない」があることが教えられているわけであります。

さて、前半の「あがないによる礼拝」について、一ヶ所。1章1節~3節(旧約135頁)
「1 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。3 もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。」
 
 このように、レビ記の冒頭。1章から7章では、捧げものとしての「いけにえ」について、5つの種類が定められていきます。 燔祭、素祭、酬恩祭、罪祭、愆(けん)祭(さい) の五つです。この言葉だけだと意味がわかりにいくいので、新改訳では次のように訳しています。全焼の捧げもの(焼き尽くす)、穀物の捧げもの、交わりの捧げもの、罪の清めの捧げもの、代償(つぐない)の捧げもの。こう聞くと、少しイメージしやすいかと思います。
 これらの捧げものは、礼拝の5つの要素を表しています。燔祭:全焼の捧げものは、全てを捧げる献身ということ。素祭:穀物の捧げものは、恵みへの感謝と、献金について。酬恩祭:交わりの捧げものは、神との交わりへの感謝と、信徒の主にある交わりについて。罪祭:罪の清めの捧げものは、罪の赦し。罪と汚れの清めについて。愆(けん)祭(さい):代償の捧げものは、罪の損害への償いと、日々の一つ一つの行いの清めについて。ということになります。
 神の民の基本は、主なる神様への礼拝であり、罪人が神様を礼拝するためには、捧げもの。あがいの「いけにえ」が必要だということが、律法によって教えられているわけです。
 この「あがない」を中心に、それが礼拝と生活の全てに拡大していって、詳しく示されているのがレビ記、ということになります。「あがないによる礼拝と生活」それが、エジプトから救い出されたイスラエルが、やがて来られるメシヤの受け皿として、神の民の国に求められたことでありました。
レビ記1章から7章では、「礼拝はあがないによる」のだ、ということが教えられました。この原則は、現在の私たちの礼拝にもそのまま当てはまっています。今日こうして、主の日に捧げる礼拝は、あがないよって成立しています。つまり、完全な、究極の「いけにえ」である、神の御子イエス・キリストがあがないとなって下さったことによって、はじめて可能にあるわけであります。主は、御自身の民を御許へ、礼拝へと招いておられます。それに応えたい思い、応える喜びは、私たちのために自らを捧げられたイエス様を信じる信仰によって、支えられているのであります。
ですから、イエス様による礼拝、イエス・キリストの民である私たち、もういけにえを捧げる必要がないのであります。
新約聖書を一ヶ所。ヘブル人への手紙 7章26節から28節(新約350)
「26このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。27彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。28律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。」

 レビ記の続く8章から10章では、礼拝。主との交わり儀式の任に当たる、祭司もまた、罪人であり、あがないによって立てられる必要が定められています。しかし、私たちの主イエス様は、全く罪無く、神の戒めを成就された、唯一の完全ないけにえでした。ですから、ここにありましたように「ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない」ですし、「自分をささげて、一度だけ、それをされたから」もう二度と、あがないのいけにえは必要なくなったわけであります。つまり、イエス・キリストが来られたことで、この神の儀式律法は成就されたということです。
 
 レビ記の後半。11章からは、「あがないによる生活」。神の民が聖別のための戒めが教えられて行きます。11章1節(旧約148頁)
「1 主はまたモーセとアロンに言われた、2 「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。」

 まず、11章から15章で、聖とけがれを意識することについて、食べものを通しての訓練が行われます。16章で贖罪の日の定めがあって、一年の中心にあがないがあることが教えられています。その後17章から20章は、清い行動。社会生活などの規定になります。21、22章で、祭司にも聖別が必要なこと。23章から25章で、7つの祭の規定が記されています。この祭は、主による救い、贖いの御業の記念として、時を聖別することになります。25章の最後では、ヨベルの年について。奴隷の身分や失った土地が返されるなど、50年に一度の特別な解放の年です。
 多くは社会律法に属しますが、具体的な細かな部分、汚れや、賠償内容などは、その時代の社会に適用したもので、今は無効になります。大切なのは、これらの土台には道徳律法があって、その部分の意味をくみ取ることが求められると思います、
 そして、最後の26章が、全体のまとめになります。ここでは、このレビ記、主がモーセに「イスラエルの人々に言いなさい」とモーセに伝えた、ここでの戒めが、契約文書であることが示されます。つまり、祝福と呪いが書かれています。主の言葉に聞き従い、戒めを守る者への祝福と、主の言葉を軽んじて、背いて、離れる者に臨む罰が約束されています。現在の契約でも、相互の権利義務、契約によって得る商品、サービス、権利や利益と、その対価が決められ、同時に債務不履行の損害賠償も含まれています。ここでは、特に罰については、「7倍重い倍重く罰する」という言葉が繰り返されて、強く戒められています。
 その罰は、大きく4種類あって、戦争に敗北して支配されること。熱病や疫病。そして飢饉。これらによって町や土地が荒れはてる、荒廃ということが明かされています。そして、一番の問題は、ここまで、祝福と呪い、罰の重さを言われてもなお、人々が主に聞き従わず、逆らって歩むだろう、ということを予見されているところです。あなた達は離れて行くのだ、ということです。ここに、例えいけにえを捧げても、贖いきれない人の罪が明らかにされます。実際の歴史ぬおいても、まさにここに書かれた通り、祝福されて一時は繁栄したイスラエルが主に背いて、分裂して、やがて滅ぼされ、捕囚となってしまうわけです。
 主を背いて、逆らうことで、重い罰が待ち受けているにも関わらず、人間離れて行き、結局苦しい目に陥ることになるのです。しかし、主はご自身の民をそのままにしておかれません。それが、おそらくこのレビ記での一番大きな慰めのメッセージだと思います。
 16章40節
「しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するなら」 
 「告白するなら」というのは「懺悔するなら」という意味です。自分から勝手に離れて行って、きっと苦しむのだけれど、それでも、罪を懺悔するなら。悔い改めて主の下に立ち帰るのであれば、42節。
「そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、」
 主は、恵みの契約を決して、忘れ給わない、真実な神であらる。たとえ私たちが一時離れていても、実は変わらず共にいて下さり、御許へ招き、御国へと導かれる、忍耐強く憐れみ深い愛の主であります。44節。
「なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。」

 主は断言されます。悔い改めるなら罪の下にある私たちが、決して捨てない。滅ぼし尽くさない。契約は守る。奇しくも先週、瀧田先生がお説教して下さった、放蕩息子の譬えは、本日のレビ記26章40節以降の、回答のようなみ言葉でありました。
 主は、離れて苦しむものが、懺悔して戻ってくることを、待ち続け、帰り来たものを心から喜び給う。この方が、あがない主イエス様によって私たちの父となって下さった神であります。

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