旅の始まり
19 パロの馬が、その戦車および騎兵と共に海にはいると、主は海の水を彼らの上に流れ返らされたが、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行った。
20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。
21 そこでミリアムは彼らに和して歌った、「主にむかって歌え、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。
22 さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。
23 彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。
24 ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。
25 モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。
その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、
26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。出エジプト記 15章 19節から26節
○「19 パロの馬が、その戦車および騎兵と共に海にはいると、主は海の水を彼らの上に流れ返らされたが、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行った。」
出エジプト記15章19節のみ言葉でございます。イスラエルの民は、400年、奴隷となっていたエジプトから、主が召されたモーセに率いられて脱出しました。イスラエルを解放することを、頑なに拒んでいた、王が、彼らを去らせることになったのは、主が裁きとして、10の奇跡の業をエジプトに下されたからでした。その最後、一夜にして、エジプトの全ての人。王や民。また奴隷から家畜に至るまで、その全ての初子を撃つ、という激しい裁きがもたらされました。
この災いの中、主がご自身の民とされたイスラエルだけは、その日に屠られ、食された小羊の血を玄関に塗ることで、この災いから逃れることができました。主は、イスラエルに対し、400年の奴隷から救いだされた、この主の御業を記念して、過ぎ越しの祭を守ることが命じられ、実際、ユダヤの最も大切な祭りとして、守り続けてられました。これが、今、クリスチャンにとって、二つの礼典の内の一つ。聖餐式の予型となっています。
聖餐式は、主がイスラエルを救い出されたように、イエス・キリストが十字架で流された血の贖いと、復活により、私たちを罪と永遠の死から、自由と御国での永遠の命へと救い出して下さった記念として。また、天におられるイエス様が、聖霊により、私たちと共にいて下さり、魂と肉体を守り、支えていて下さること。救い主に堅く繋がれていることの保証として。さらに主のひとつ体として教会の交わりを確信させるために、御子イエス様ご自身が定め、備えて下さった礼典であります。
クリスチャンの礼典が二つと申し上げましたが、私たちプロテスタントにとっての礼典でございます。それが、この聖餐と、もう一つは洗礼ということになります。これが、イエス様が、直接お命じになった、二つの礼典になるわけです。聖餐が、救われた記念と、確信の為。洗礼は救われた印として。信仰の証しとして行われる大切な礼典になります。洗礼式は生涯一度きりですが、聖餐は地上に遣わされている間、叶う限り、行っていくものになります。ただ、数が多ければいいと言うものではありません。教職者による宣言と聖別。ふさわしく受けるために、自らを吟味すること。準備が必要です。また、つどって与ることなどが定められています。ふさわしくないまま受けることは、かえって主を汚すことで、裁きを招く、と言われる通りであります。
そのため、当然の条件として、まず洗礼を受けていること。信仰を告白し、主の民であることが前提となります。過ぎ越しの祭もまた、割礼を受けていない人とその家族はこれに与ることが出来ませんでした。割礼は、体に記された主の民の印でありました。洗礼は、聖霊によるキリストの民の印。洗礼をうけることは、聖霊が魂に証印を押されるということです。真実な神様の証印ですから、一回限りということになります。
この洗礼が、本日のみ言葉の前半部分と、深く繋がっていることになります。み言葉に聞いて参りましょう。15章の19節から21節。
「19 パロの馬が、その戦車および騎兵と共に海にはいると、主は海の水を彼らの上に流れ返らされたが、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行った。20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。21 そこでミリアムは彼らに和して歌った、「主にむかって歌え、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。
過越しの出来事によって、エジプト王はイスラエルを解放することになりました。しかし、いったん数百万の奴隷たちが出て行ってしまうと、王パロは、再び考えを変え、大規模な軍勢を率いて、イスラエルを追いかけていきました。モーセを通して、主が行われた多くの御業に、あれほど大変な目に遭っても、まだ多くの奴隷を失う、という目の前の利益というか、国益に執着してしまいました。そして、海の傍らで宿営していたイスラエルに迫っていきます。ここで起きた出来事が、出エジプト記だけでなく、旧約聖書でも最も知られている、主が海を割って、イスラエルを助け出されると言う奇跡の御業であります。
映画の映像でご覧になった方も多いと思いますが、イスラエルの民の前で海が左右に割れて、水が壁のように立ち上がりました。その間を人々が通り抜けたわけです。そして、それを見たエジプトの軍勢が追いかけて行くと、「主は海の水を彼らの上に流れ返らされた」わけです。
こうして、主の民だけが、海に中を通り抜けることができ、主が約束された、豊穣の地、カナンへと向かう旅が始まりました。
栄える大国での奴隷の立場から、世の富と偶像礼拝と不品行に満ちた、罪の支配の下から、解放され、主がご自身の民のために備えられた、乳と蜜の流れる土地へと向かう道のりです。このことは、クリスチャンが信仰を与えられ、洗礼を受けて、御国へと向かう信仰生活、教会生活に入っていくことを示しています。同じ構成になっていることが分かると思います。
そうすると、この海の中を通ることもまた、洗礼のひな型であると言えます。イエス様の大宣教命令は、全ての国の人々を弟子とするように、とのご命令は、その手段とともに与えられました。一つはみ言葉。み言葉を守るように。そしてバプテスマ、洗礼を授けて、ということでした。現在、主のご命令に従って、教会では洗礼を行っていますが、水をつかいます。垂らすだけに滴礼もあれば、体の一部や全身を水に浸す浸礼の場合も、教会によってまちまちです。イエス様もヨハネから水による洗礼を受けられました。しかしそこで、聖霊が降りました。イエス様の御名による、イエス様に繋げられる洗礼は、水を用いますが、聖霊による保証。聖霊の御業であります
ただ、この水を使う、ということの大きな理由は、この出エジプトの海を通る出来事と深く繋がっています。新約聖書を1ヶ所引いて見ます。コリント人への第一の手紙10章1節~2節。
(新約267頁)
「1兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、2みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」
パウロは、出エジプトで、海を通ることを、洗礼を受けること、と理解しています。パウロと言うより、聖書のみ言葉自体の証言になります。「雲の下におり」と言う雲は、主のご臨在を示す雲でした。荒野の旅路においては、この雲と火の柱が民を導きましたが、エジプトの軍勢から逃れて海を渡る時は、雲の柱がイスラエルの後ろに立ちふさがり、エジプトの軍勢を暗闇に中で立ち止まらせられました。
こういうわけで、海に中を通ると言う洗礼を受けたイスラエルは、神様の民としての旅。生活へと入っていくわけです。ここで、大切なことは、この洗礼が、人の業ではないと言うことであります。海を割ることも、また戻すことも、人の力によるものではありませんでした。主が、ご自身の御手をもって、万能の御力によって行なわれました。罪の中から民を選んで、ご自身のものとされるのは、主の御業であります。
洗礼もまた、自分から信仰を告白することも、儀式の執行も、人が行うものですが、それは天から主が遣わされた聖霊のご臨在によって成立する、神様の御業と言うことです。洗礼を受けた方は、クリスチャンホームに育つことも、無信仰の家庭や、異教の場合もあるでしょう。学校や職場、様々な人間関係も、みんなそれぞれです。神様は、私たちを取り巻くあらゆる環境を自由に用いられます。また人の心の奥。魂に働きかけて、ご自身のもとへと招かれます。私たちを救い、自由にするために、超自然的に働かれ、愛をもって摂理されているのであります。
洗礼を受けて、主の民となったイスラエルの旅が始まりました。続くみ言葉では、それが、どのように進んでいったか。その始まりが教えられていきます。22節~25節前半まで。
「22 さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。23 彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。24 ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。25 モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。」
過越しを経て、奴隷の地を脱出し、海を通って主の民としての歩みを始めたイスラエルの民。彼らは、三日目にしてつぶやき始めました。主の奇跡に次ぐ奇跡の御業を経験して、救いだされて、三日目です。三日坊主とはよく言ったものですが、「飲む水が無い」というつぶやきでした。確かに、人間は三日間、充分な水分がとれないと弱ってしまいます。水は無いわけではないが、苦くて飲めなかったようです。メラというのはヘブル語の苦い、と言う意味です。そこで、民は不平不満を漏らしだしました。
ここに、救われてなお、弱く不信仰な人間の姿がよく表されています。やはり、衣食足りて何とか、というように、飲み物食べ物に不安を覚えると、途端に弱くなる存在です。逆もまたしかりで、生活が満たされると、今度はすぐ高慢になってしまう。不足も試練ですが、繁栄もまたより、危険な試練であります。
イスラエルを救われたように、救いは主の御業ですが、それは霊的にというだけではなく、物質的にもその主権は主にあり、私たちが来てかされている全ての賜物は、主が与えて下さるものであることを覚えてまいりたいと思います。そう思って、み言葉に聞いて、心に言い聞かせても、また三日たてばつぶやき始めるのが、私たちです。
しかし、そのような弱い者に、主は憐み深く、忍耐強くあられます。旅のわずか三日目に漏れ出したつぶやきに対し、主はこれを聞いて下さいました。民に水を与えられました。主は、主が与えたもう主であることを、彼らにはっきりと示されたわけです。その主が、彼らと共にいて導いておられる、と言うことをあらためて体験させました。
ただ、そのために、モーセによる執り成しが行われました。民のつぶやきを聞いて、すぐ主に叫んだ、モーセの執り成しです。モーセは、何か策を講じるのではなく、まず主に呼ばわりました。彼はすでに、民を導き出す者として主に召された時から、自分に何か特別な力や資格があるのでなく、ただ主の召しであり、主がお用いになること。救いのご計画、御心の実現は、主の御業でしかないことを、充分に思い知っていたわけです。
しかし、このようなモーセですら、この後の荒野の放浪の中で、不信仰に陥ってしまうことになります。民の不満が募ったり、不安な状況で、主への全き信頼を損なってしまいます。主に信頼すると言うことは、自分が何もしなくてもいいと言うことではなくて、主に信頼して進む、ということです。主なる神様がお命じになった方に向かって、自分の足を進めることです。主がどのような方かを知れば、主に仕えたい、応えたいと願うようになります。それは、充分にお応えすることは適いませんが、私たちには、イエス様がおられます。御父と一体である、イエス様が、私たちの代わりに、み心を成就され、天で執り成し続けていて下さいます。神のなる救い主、唯一の完全な仲保者であるイエス様に繋がって、歩む安心を覚えたいと思います。
主はイスラエルの民のつぶやきをお聞きなりました。この後も、民は、しばらくすると今度は食べ物についてつぶやきはじめます。それでも、主はこれを与えて下さいました。海を通して選び分かち、約束の土地へ向かう旅を始めた民に対する、主のみ心はどのようなものだったのでしょうか。25節後半から26節。
「その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、26 言われた、『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである』。」
主は試みられた、ということです。主は試練をお与えになります。しかし、それはより一層、主を知り、主により頼む生活への導きであり、印であります。その先に、主と共にある人生の幸いが備えられています。
主の声に聞き従う。主の目に正しいことを行う。戒めに耳を傾ける。定めを守る。ヘブル詩の形で、同じ内容が表現を変えて繰り返されています。ここでは、具体的な掟は記されていませんが、み言葉に聞く、ということ。聞いて従おうとする先に、主が必ず幸いを備えていて下さる、というお約束です。
エジプトに下した病を一つも・・エジプトに対して下された、主の裁きが、ないということです。わたしは主であって、と恵みの契約の御名を名乗って、ご自身を示されました。病から癒す者であると。永遠の死に至る病、罪を裁くお方は、信じる者にとっては、罪を赦し、必ず救う神であると宣言し、それを果たして下さいました。
私たちを死の病から癒す信仰を与え、地上でのキリストの民としての生活を支え導かれるのが主であります。この世でのひと時、荒野の旅のように、試練があり、その中で弱音や不平が漏れる弱い者ですが、真実なる主のお約束に信頼し、み言葉に聞きつつ歩んで参りたいと思います。