キリストの体の甦り
(33)そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、(34)「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
(35)そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
(36)こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
(37)彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
(38)そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
(39)わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔(40)こう言って、手と足とをお見せになった。〕
(41)彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
(42)彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、(43)イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。ルカによる福音書 24章 33節から43節
○(39)わたしの手や足(両手両足)を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔(40)こう言って、手と足とをお見せになった。〕
ルカによる福音書24章39節から40節のみ言葉でございます。今朝は、神の御子にして私たちの救い主である、イエス・キリストが、十字架で死なれてのち、墓に葬られ、その三日目に蘇られたという、主の復活を記念するイースターの礼拝でありますので、私たちの主が、私たちに先立って死に勝利されたことを喜び、讃える日として、主の復活のみ言葉に導かれたいと思います。
(33)そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、(34)「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
(35)そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
エルサレムに帰ってきた人は、クレオパとその家族、息子かあるいは妻だと言われています。この二人は、エルサレムから自宅のあるエマオへ戻る途中に、復活されたイエス様に出会った二人であります。彼らは、イエス様の十字架での死と、埋葬を目の当たりにして、意気消沈していました。ただ、朝早くイエス様の墓に向かった女性達から、イエス様の遺体が無くなったこと。み使いが現れ「イエス様が生きて老おられる」と告げられた話を聞き、混乱しながら話し合っていました。そこで、途中から近づいてこられたイエス様に、事の顛末を話し、落胆していること告白します。そこで、一緒に歩きながら、イエス様が聖書の解き明かしをされたわけです。しかし、彼等は最初はそれがイエス様とは分かりませんでした。それでも、み言葉の解き明かしに、心が燃えて、先に進んで行こうとされたイエス様を引き留め、自宅に招き入れ、食卓に着きました。そこで、イエス様が、パンを裂いて、祝福して彼らに渡される姿を見て、その目が開かれて、初めて、目の前にいる方がイエス様だ、と言うことに気づいたわけです。
しかし、気づいた途端、今度はイエス様が見えなくなってしまった。姿を隠されたわけです。それでも、クレオパ達はそれがイエス様だと、確信させられていましたので、彼らは「すぐに立ち上がりました。」ギリシャ語では、「まさにその時」という強調されています。そして、エルサレムから10数キロの距離を歩いて帰ってきて、食事の途中にもかかわらず、イエス様は生きておられる、本当によみがえられた。聖書に書かれていた通りで、預言は成就したのだ、ということを、一刻も早く知らせようと、再び使徒達のいるエルサレムへと向かいました。そうして、使徒達のもとへたどり着いた場面。それを記しているのが、本日のみ言葉でございます。
二人が辿り着きますと、使徒とその仲間が集まり、話をしています。それは、シモン、つまりペテロに、甦ったイエス様が姿を見せられた、という話でした。クレオパ達はそれを聞いた二人は、自分たちに起こったことを、報告し始めます。クレオパ達は、元々、イエス様の遺体が無くなったという事と、女たちに、み使いのお告げがあった、という情報しか持っていませんでした。そこで、イエス様が自分達の前に来られたので、慌てて知らせに戻ってきたわけです。そうしたら、ペテロの下にも姿を見せられた、と話しているものですから、自分たちに起きた出来事を報告しました。
とうにエマオに帰ったはずのクレオパらが、わざわざ戻ってきて、新たな目撃証言をしました
から、大騒ぎになったと思われます。 そして、あーだこーだと話し合っている、その時。弟子たちの真ん中に、イエス様がお姿を現されました。36節から40節をお読みいたします。
(36)こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
(37)彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
(38)そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
(39)わたしの手や足(両手両足)を見なさい。まさしくわたしなのだ(εγω ειμι αυτος)。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔(40)こう言って、手と足とをお見せになった。〕
集まっていた弟子たちは「恐れ、驚き」ました。びっくりして、おびえて、非常に取り乱した、ということです。そして、「霊を見ているのだと思った」と書かれています。この「霊」という単語、霊的な、または聖霊を表わす、ギリシャ語の「πνευμα」ですが、これには所謂「幽霊」という意味もあります。当時の言い伝えというか迷信では、人が死ぬと、その霊は三日間漂っていて、四日目に離れて行く、という説があったようです。ですので、彼等は、それこそイエス様の幽霊が現われた・・と思ってしまったということでしょう。
確かに家の中で、皆でワイワイ話をしていたら、その真ん中に突然、人が現われたら、いったい何が起きたのか、と驚くことは想像できます。いきなり、ポンと出て来られたら、これは、霊か幻か、というのが普通の反応だと思います。実際、クレオパ達も食卓で、イエス様だと気づいた後、突然その御姿が見えなくなってしまいました。当時も今でも、一般的な常識とか物理法則と呼ばれるものからすれば、あり得ないことです。当然弟子たちは、幽霊だと驚き、恐れるのも仕方ありません。まだ、彼等には十分に悟る力が備わっていませんでした。それは、復活のイエス様が天に昇られ、聖霊を遣わして下さる、ペンテコステを待つことになるわけです。
さて、驚いて取り乱す弟子たちに、イエス様が仰います。
「(38)・・・「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。(39)わたしの手や足(両手両足)を見なさい。まさしくわたしなのだ(εγω ειμι αυτος)。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
そうして、実際に手足を見せ、イエス様が、ただ霊であるのではなく、肉体を持って、物理的な存在として、そこに現れたことをお示しになりました。霊的に復活して、魂は永遠というだけではなく、肉体もまた復活するということを、イエス様が、はっきり明かされたのであります。
この事実は、後に、イエス様の復活について、ただ霊体として現れたとか、錯覚とか、集団で
幻覚を見た、というような、人間の知恵による、様々な理解や解釈を、明確に否定する、動かしがたい事実を、記録したみ言葉であります。ヨハネの福音書では、十字架の傷跡の確認までされたことが記されています。
こうして、突然室内に現れたイエス様は、御自身がイエス様であることを名乗り、手足を見せられました。そこで、41節から42節。
(41)彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。(42)彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、(43)イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
ここで、弟子たちは目の前に現れた方が、イエス様だ、ということは認識できたようです。ですから、大喜びしているわけです。つまり、「まだ信じきれない、不思議に思っていること」は、イエス様の復活が、肉体を伴ったものである、ということになります。そこで、イエス様は、焼いた魚をお食べになるわけです。旧約聖書では、霊や御使いが食事をとる、ということはありました。創世記のソドムとゴモラの記事で、アブラハムを訪れたみ使いが、彼のもてなしをうけています。ただ、新約の時代のユダヤ人の中では、霊は食事をとらない、という俗説があったようです。これは、聖書の偽典などに書かれています。まだ、聖書全体の正典性が整理されていない時代でした。しかし、イエス様はその思い込みも分かった飢えで、だめ押しのように、肉体の復活を示されたわけです。
先ほど、弟子たちはイエス様だと分かった、と申し上げました。突然目の前に現れた、イエス様を見ても、最初は恐れ驚いていましたが、イエス様が話されたことで、それが喜びに変わっています。イエス様のみ言葉を、もう一度見て見ますと、39節。「まさしくわたしなのだ。」と、仰っています。ここのギリシャ語が 「εγω ειμι αυτος」
「εγω ειμι」が使われています。私も原文を見るまで気づいていませんでしたが、イエス様は「εγω ειμι」と名乗られました。主なる神様が、永遠にわたしの名。世々の呼び名である、とモーセに明かされた主の御名、契約名。「あってあるもの」のギリシャ語訳になります。この言葉を使うことで、イエス様はユダヤ人達から石を投げられようとしました。
イエス様が「まさしくわたしなのだ」と告げられたことは、実に主が御名を名乗られたということでもあったわけであります。主による御名の宣告により、弟子たちは主を知ることになりました。そして、主は肉体を持って、死から甦られたのであります。
イエス様のよみがえりは、肉体を持ってであったこと。それは、私たちの初穂として、イエス様につながる者もまた、その初穂と同じくされる、ということの保証でありました。イエス様は、神の子でありながら、人となって、人の代表として罪を背負い、苦難と屈辱と苦痛の中、十字架で死なれました。父なる神への完全な従順を果たし、贖いを終えて、また私たちと同じ肉体を持って甦られました。そして、その肉体を持ったまま、天に昇り、今現在も、天において、人の子としての御自身の肉体を持ったまま、父なる神の右に座しておられます。
やがて来る、再臨の日まで、イエス様のただ一つの肉体は、天にあり、天においても、私たちの主であり、私たちを守る人の王でいて下さるのであります。
み言葉が示す、イエス様の復活の肉体。それは、死に勝利され、罪の呪縛から解放された、栄光の体でありました。私たちと変わらない人の体でありながら、自在に現れるような、超自然的な御姿となられました。これを、ウェストミンスター大教理問答の52問では、次のようにまとめています。
「キリストは、死において朽ち果てず――彼が死に支配されたままでいることはありえませんでした――、また彼が受難したまさにその体が、その本質的な属性は持ちつつ、この世の命の属す死滅性と他の共通の弱さとは持たずに、彼の魂に真に結合されて、ご自身の力により、三日目に死者の中からよみがえられました。」
最後の審判の後、キリストの民に与えられる永遠の命は、この栄光の体をも含んでいるのです。それを、イエス様は私たちに明らかにして下さいました。主は、やがて訪れる栄光の命にいたるまで、御霊によって私たちと共にいて下さり、御自身に繋いでいて下さいます。この主に信頼して、地上の困難を、良い時も悪い時も、変わらぬ信仰が守られますよう、願うものであります。