いのちの言葉
(1)わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。(2)彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
(3)もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。(4)「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。(5)しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。(6)「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
(7)愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。(8)しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。
(9)「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。(10)兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。(11)兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。ヨハネの第一の手紙 2章 1節から11節
○「(3)もし、わたしたちが彼(神)の戒めを守るならば、それによって彼(神)を知っていることを悟るのである。(4)「彼(神)を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。(5)しかし、彼(神)の御言を守る(接続法)者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼(神)にあることを知るのである。(6)「彼(神)におる(μενω)」と言う者は、彼(イエス)が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」
ヨハネの第一の手紙2章3節から6節のみ言葉でございます。この御言葉は、少々難しい表現になっています。ここだけを読むと、戒めを守れ、という律法主義的にも感じますし、「彼」という代名詞が7回も出てきて、見分けがつきにくくなっています。
困った時は、まずは原点に戻ること。そして前後の文脈、つながりを見ることが大切ですので、その点に踏まえながら、この手紙に聞いてまいりたいと思います。
原点ということで、ヨハネがこの手紙の背景をおさらいいたしましょう。1世紀の末、使徒の時代の終わり。使徒がいなくなっていく不安の中、迫害や、異端によって混乱する、教会員に対して、これを励まし、確かな福音信仰に立つことができるように、最後に残った使徒ヨハネが書いた手紙となります。迫害やグノーシス主義と言った異端によって、教会の世俗化が進み、罪の意識が薄れ、乱れた生活や世の習慣への迎合が進んだ時代でした。そのため、改めて本当に「罪」に向かうことは神様から離れること、闇の中を歩くことだ、と教えられていきます。罪を自覚して、悔い改めと信仰が必要だと言う、信仰生活の基本が1章で教えられることになります。
冒頭、1章の3~4節で、この手紙の目的とすることをヨハネが書いています。1章3~4節。
「(3)すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(4)これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」
イエス・キリストの証人である使徒たちがのべ伝えたのは、人々が父なる神様と、御子イエス・キリストとの交わりにあずかるようことができるようになるためでした。救い主イエス様と繋がることで、神様との交わりが回復される、という真実であります。御父と御子との交わりによって、私たちの地上の人生、生活が喜びに満ち溢れるのであります。ヨハネは、言葉をつくして、このことを教えたかった。キリストに繋がっていなさい、とどまり続けなさい。それが、私たちを強くし、光の中を歩ましめ、何より喜びに溢れることになる、という励ましであります。
神を知らない地上の社会の中、人の思いを中心に生きていくことは、罪から目をそらし、暗闇を歩くことになります。そこで、ヨハネは神様のみが純粋な光であって、その光によって、人の暗さ、罪が明らかにされることを教えました。私たちは罪によって、光の中を歩くに値しないものですが、御子イエス様の血によって、赦されるから、恐れず、神の大胆に御前に出て、あり
ままに、罪を告白しなさい。必ず赦され、きよめられるから、ということでした。
「初めに言があった。」 「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」
ヨハネ福音書の冒頭のみ言葉ですが、神は光である、というこの光は御子イエス・キリストの光であり、命の光であります。私たちを、永遠の命に導く光。地上の歩みを照らし、喜びに生かして下さる光。神の光に中を歩くと言うことは、イエス様と歩むと言うことであります。
ヨハネは、この真理を再確認しながら、それが出来ているかどうか、どうしたらできるか、ということを教えようとしていきます。1章の6節から10節では、「もし、こうしていたら、こういうこと」「もし、こうしていなかったら、それはこういうこと」という言い方で、丁度、家を出る前に、服は汚れてないか、財布はもったか、鍵は、ハンカチは、と指差し確認していくように、信徒の心を点検しているようです。
そこから、先ほどお読みしました2章の3節から6節も、同じような言い方で信仰生活を指導していきます。ここでのチェックポイントは、神の戒め、ということになります。もう一度お読みいたします。3節から6節。
「(3)もし、わたしたちが彼(神)の戒めを守るならば、それによって彼(神)を知っていることを悟るのである。(4)「彼(神)を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。(5)しかし、彼(神)の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼(神)にあることを知るのである。(6)「彼(神)におる(μενω)」と言う者は、彼(イエス)が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」
ここで出て来る7つの彼の内、最初の6つは「神様」を指しています。2節の彼がイエス様の事を言っているので、混同しやすいのですが、戒めとの関係や、この後の7節8節の文脈から、新改訳、共同訳共に、3節から6節の6つの彼はすべて「神」と訳されています。6節最後にある7つ目の「彼」。「彼が歩かれたように」の彼だけが「イエス様」のことになります。
このあたりの文章は、ヘブル詩のように、少しずつ言葉を変えて、繰り返しながら、論理を展開していくような表現になっています。
中心は、神の戒め。神のみ言葉を守る、という教えになります。戒めを守るなら・・という表現は、それが出来れば、という律法主義的に見えますが、注意深く読むとそうではないことが分かります。3節の、「彼(神)の戒めを守るならば、それによって彼(神)を知っていることを悟る」。
3節の「知っている」「悟る」4節、5節の「知る」は全て同じ単語「γινωσκω」です。聖書では「知る」という訳でたくさん出て来ますが、単に知識として「知っている」「知る」だけではなく、深い結びつきがある、という意味です。繋がりがあって、理解する、悟る。当然そこには交わりが存在します。
「知っていることを悟る」という、二重の持って回った言い方も、戒めを守ることで知る、と
いう条件ではなく、守ろうとする内に、神様が知らされていることが確信する、という意味に理解できると思います。神様が私たちを知って下さって、私たちに、ご自身を啓示して下さいました。天地の造り主、唯一の霊なるお方が、私たちと変わらない肉体を持って、人として地上に現れ、救いに来てくださいました。その御子イエス様を通して、聖霊によって、私たちを、ご自身のみもとへ招き入れ、永遠の命を与え、守り通すと約束して下さった神様。それが、神の言葉である聖書によって明かされています。
み言葉に聞いて、真の愛の神様を知ることで、私たちはそのみ心に適うこと、み前によろこばれる正しさを願うようにされます。当然、それができない事も悟らされ、それでもイエス様のゆえに、受け入れて下さる恵みの確信も与えられます。それが信仰であり、信仰とはそのように私たちが変えられていくことに他なりません。
み言葉を守ること、戒めを守ることによって、何かを得るのではなく、み言葉に聞き、向き合う。み教えを仰いで従おうとする姿に、5節にあるように、神様の愛の実現が示されるであります。4節では「真理」と言っています。私たちの内にある真理とは「神の愛」。神様が愛して下さっていることです。神様が私たちを愛し、私たちを神様との交わり内に、入れて下さっていることが分かる、ということであります。6節。
「(6)彼(神)におる(μενω)」と言う者は、彼(イエス)が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」
「彼におる」と、ここでもわざわざ「おる」と書かれています。「いる」ではなく、「おる」と翻訳されているこの言葉は、「とどまっている」「つながっている」と言う単語です。ヨハネ福音書15章で、イエス様が「葡萄の木」のたとえ話をされた時に使われた、「つながっていなさい」と同じギリシャ語「μενω」です。「すべき」と義務を表わす形で書かれていますが、義務というより、必然であり、勧めです。神様の愛が注がれ、その交わりのうちに置かれる恵みによって、自然と御子が歩まれた、地上の歩みを仰いでついて行きたいと願うのであります。
続く7節以降、イエス様が歩まれた歩みとは、私たちが目指す戒めとはどのようなものかが教えられます。7節から8節。
「(7)愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けて(未完了)いた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた(過去)御言である。
(8)しかも(again)、新しい戒め(として)を、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼(イエス)にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。」
7節と8節のつながりが少し分かりにくい役になっています。8節の「しかも」という言葉は、直訳では「再び」という意味です。英語では「again」。
ですから、ここは、ヨハネが書き送ろうとしている戒めは、今までにない全く新しいものでは
なくて、昔からすでに聞いている、古い戒めを、もう一度、新しいものとして書き送る、という意味になります。
「そして、それは、彼(イエス)にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。」
9節の彼はイエス様です。イエス様にとっても私たちにとっても真理である。つまり、主なる神様から、恵みの律法として与えられていた戒めでしたが、「まことの光が既に輝いている」。すでに、イエス・キリストが来られて、その戒めを成就され、全ての罪をあがなって、獲得して下さった神様の義と栄光が、イエス様に繋がる私たちにもたらされている、ということです。救いの条件としての戒めは、イエス様が完成されました。罪と死に打ち勝ち、信じる者に永遠の命を与えてくださいました。それは、神様の律法が真実であったことの証でもあります。今やこの戒めは、救われる条件としてではなく、救われた者が、目指すイエス・キリストの歩まれた道の、道しるべとして。御国へ道のりを安全に導く指針として。また、神のみ心を世に表す基準として、新たな命をもって備えられたみ教え、私たちに命を永遠に導く、それがみ言葉の教えであります。神のみ言葉をとおし、私たちは新たな人生、命を与えられるのであります。
ヨハネは、その戒めの具体的な内容を、最後に教えています。9節から11節。
「(9)「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。(10)兄弟を愛する者は、光におる(μενω)のであって、つまずくことはない。(11)兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。」
ヨハネが書き送った新しい戒めは、十戒の後半、隣人愛ということであります。これは、神を知っている。神と繋がっていると言う、信徒への勧めです。神と繋がるものは、同時に、一つの体として必然的に兄弟姉妹と繋がっているのであります。10節の「光におる」の「おる」もメノウ。光にとどまっている、ということです。神の光に中に入れて頂いて、とどまっている者は、兄弟を愛する、ということです。兄弟を愛する者は、明るい光の中にいるため、つまずくことはありません。
そして、この愛は全てイエス様の歩みの中に表わされていました。私たちは、み言葉に聞いて、天国への道のりを、今正に天におられるイエス・キリストを仰いで、そのみ足跡を辿りたいと願う次第です。
最後に、2章1節から2節。
「(1)わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け(弁護)主(人)(παρακλατος)、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。(2)彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」
ヨハネは、弱っている教会の信徒たちに、キリストに繋がり、神との交わりが保たれるよう、喜びに満たされるように手紙を書きました。同時に、彼らが、実際の罪を犯さないように、との願いを込めて書いています。そのため、後半に、神の新たな戒めを説いて行ったのですが、私たちが、自分の力では、果たせないことも分かっていました。「もし罪を犯すものがあれば」。私たちは、救われてなお、罪を持ったまま、地上に遣わされています。律法主義のままでいくと、罪から抜け出せない事実が、信徒をつまずることになります。
しかし、「父のみもとには、わたしたちのために助け(弁護)主(人)(παρακλατος)、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」
助け主。パラカレイトスは弁護する人、という意味です。ヨハネ福音書で、イエス様が聖霊の事を「もう一人の助け主」と言われたのと同じ言葉です。イエス様は、裁く権を持ったお方。つまり裁判長が私たちの弁護人というわけです。この方は「贖いの供え物」。保証人、代位弁済者として、私たちの罪の償いまで、すべて支払って下さいました。
全ての人の裁き主は、執り成して、弁済者、助け主であられました。この方に繋がれて、私たちは安心して、歩むことが適うわけであります。私たちの主に感謝し、讃美を捧げてまいりたいと思います。
