天は喜び、地は楽しむ。
1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。詩編 96篇 1節から13節
「1新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。2主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救をのべ伝えよ。3もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしき
みわざをあらわせ。」
詩篇96篇1節から3節のみ言葉でございます。今朝は、詩篇96篇のみ言葉に導かれたいと思います。
96篇は、先日の103篇と同じく、詩篇の第4巻になります。ということは、原則的に、その主なテーマは主の王権の讃美だということになります。事実、10節で「主は王となられた」と歌われています。これは、当時の、実際の王様が即位した際に使われた、即位宣言の文言になります。
詩篇の第4巻は、90篇から始まります。90篇は「神の人モーセの祈り」という題がつけられ、世界の造り主である神様の、憐れみと祝福の願いが歌われています。91篇では、その主を知る者へに対して、全能の主が守って下さる、主の守りが告げられます。
92篇は、以前学びました「安息日の歌」です。礼拝の幸いが歌われます。93篇は、現代の聖書には題がありませんが、70人訳では「安息日前日のための、ダビデの賛歌」という題がつけられていました。安息日の歌である92篇と併せて歌うことで、安息日に向かう魂が整えられ、備えられていくように、歌われていたようです。93篇の1節が「主は王となり」。主こそ王である、という告白から始まり、礼拝とは、まことの王の前に平伏すこと、という礼拝の本質の一つが教えられます。礼拝の語源は、み前に膝をつく、み前に伏すという意味です。神様に平伏す心が、安息日への備えということであります。
次の94篇は、少し趣が変わります。91から92篇で歌われた、主の守りと祝福に対し、主の報いとさばきが書かれています。高ぶる者、悪しき者、不義を行う者を主は裁き、滅ぼされるという戒めが歌われます。
そして、95篇から100篇が、一括りの礼拝への招きの詩篇となっています。実際95篇と96篇は、カトリックや聖公会。昔ながらの祈祷書を使うプロテスタントでも、礼拝の冒頭で、招詞。招きの言葉として用いられてきました。95から100篇は、続けて読んでいきますと、順番に2篇ずつが対句のようにセット
になって、繋がっていることが、分かります。97と99は「主は王となられた」で始まり、96と98は「新しい歌を主に向かって歌え」で始まっています。100篇も冒頭は「全知よ、主に向かって喜ばしき声を上げよ」と、讃美への招きで始まります。今の讃美歌でも、礼拝讃美になる、4番と9番の歌詞も詩篇100篇からとっています。
それでは、主の王権の讃美でもあり、礼拝への招きでもある、詩篇96篇に聞いて参りたいと思います。
もう一度、1節から3節をお読みします。
「1新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。2主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救をのべ伝えよ。3もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしき
みわざをあらわせ。」
この1節から3節は、それぞれ最初の文字が「S」で始まっています。前回の103篇と同じように韻を踏んでいます。詩篇は、ほとんどが対になった言葉を並べたり、表現を変えた繰り返しの形。ヘブル詩と言われますが、そのような形式で書かれています。さらに、ここでは、1節の「全知よ、主に向かって歌え」以降は、歴代誌上の16章23説から24節の引用になります。そちらを、見てみたいと思います。
旧約聖書585頁。歴代誌上、16章の23節から。
「23全地よ、主にむかってうたえ。2主に向かって歌え。日ごとにその救をのべ伝えよ。24もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。」
ほぼ、同じそのままです。では、この詩がいつ歌われたかと言いますと、16章1節以降。人々が神の箱を運んで、ダビデの幕屋の中に置いた時。ダビデが、戦いを重ね、命を狙われたり、裏切られながら、主が約束通り守られて、最終的にイスラエルをまとめ上げて、やっと神の契約の箱を迎え入れた時になります。歴代誌上16章7節。この時、ダビデは、初めてアサフたち兄弟を立てて、主に感謝を捧げさせた、とあります。詩篇に多く出て来る、礼拝讃美の指揮者のアサフによる、最初の讃美になります。それは、主が約束されたを果たして下さり、ダビデの王座を堅く立て、その王国を長く保つ、というご契約が、実際に果たされた、その御業が明かになったときでありました。
そこで、詩篇96篇の1節の始まりは「新しい歌を主に向かって歌え」でした。つまり、新しい歌は、主が契約を果たして下さった時。救いの御業が実行されたことを、ほめたたえる歌として歌われるということであります。この讃美は、96篇2節「御名を褒め、日ごとにその救いをのべ伝えよ」。3節「そのくすしき御業をあらわせ」と歌われているように、主の御業への感謝と、栄光をあらわし、世界にのべ伝えるためであります。これが、讃美、そして礼拝の目的の一つとして教えられています。
幸いにも、新約の時代に生きる私たちは、最終にして究極の救い主、イエス・キリストが来られて、
その救いの御業を完成されたことを知らされました。ただ信仰のみによる救いを与えられました。この主を讃え、礼拝を捧げたいと願うものです。
続いて4節から9節までお読み致します。
「K4主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。5もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。H 6誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
7もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。8そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。9聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。」
4節5節はKで始まり、6節から9節はHで始まります。ただし、内容は7節から切り替わっています。4から6節は、ほめたたえるべき方、讃美を捧げるべき主が、どのようなお方か、を歌います。それは、この主こそが、唯一の真実なる神でいますことであります。他のどんな神々と呼ばれるものに、勝って畏れられるべき方。諸々の民の神は空しい。空しいは、実体がない。本物ではない、偽物という意味です。人の手による、意味のない、造られた神と呼ばれるものでなく、世界をお造りになった、主のみが、生けるまことの神、力ある神である。
7節から9節は、私たちが讃え、平伏すべき真実の神は、主であるから、世のあらゆる栄光を主に帰すように、と勧められます。全ての賜物、恵みが、主からくるのだから、その栄光も、当然主に帰すべきである。み名に相応しい栄光。救いの契約において「あってあるもの」と名乗られた、永遠より自律自存の主の御名。「主は救い」という名の通り、永遠の滅びから救い出して下さったイエス様。インマヌエルと言われる通り、私たちと共にて下さる主であります。この御名の通り、恵みの主の御前に来たれ、と招かれています。空しい偽りではなく、真実の力ある、愛の神様への、礼拝への招きであります。
96篇の10節から13節に進んでまいります。
「10もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
11天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、12田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
13主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。」
詩篇は、韻を踏んでいることが多く、その変化で、注意点が見えたり、あるいは聞こえたりする、ということを前回まで見てまいりました。韻律が変わったり、破れているところがポイント、ということです。この詩篇96篇でも、同じことが分かります。1節から3節は最初の文字が「S」。4節5節はKで始まります。6節から9節がH。10がAの音で始まっています。そして11から12節はYで始まっています。13節は、Lで始まりますが、少し特殊で、「レフネイ・ヤハウェ」つまり「主のみ前に」という慣用句で始まりますが、翻訳では12節に入ってしまう形になってしまいます。ですから、13節は少し切り離して見た方がいいように思います。内容的にも妥当だと思います。
そうすると、全体で浮き上がってくるのが、唯一「A」で始まる10節ということになります。では、その10節で歌われていることは何か。
「10もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。」
すでに、冒頭で聞いてまいりました、「主は王となられた」という、即位宣言であります。93篇の引用でもあります。まことの神。恵みの契約を果たされる、真実の力ある神、主が、私たちの王となって下さった。主が世界の真の主権者であられます。この王が世界を堅く保っていて下さる。公平であられる、裁きは治める、という意味合いが強いと思います。愛の主が治め、守って下さる。この幸い、喜びを、あらゆる国の人々の中で言い表しなさい、ということであります。
そして、主が王であられることについて、11節12節。
「11天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、12田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。」
世界の造り主であり支配者である主は、元々、天地の主権者であられます。その主が、あらためて王となられる、という意味は、主が救いの御業を実行される、ということであります。私たち、人の罪をあがない、主が求めておられた本来の姿。御国で主を讃美する、永遠に入れて下さる救いの実行が宣言された、とうことです。ですから、人の罪が赦され、聖とされた時、その救いと幸いは天と地、その全ての存在に至るのであります。
王なる主の、救いの御業は、私たち人間だけではなく、全ての被造物がにいたります。天は喜び、地は楽しむ。イザヤ書の49章。第2のしもべの歌です。49章の13節では、同じように歌われています。旧約聖書1015頁。
「13 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」
天地の喜びは、主が「その民を慰め、その苦しむ者をあわれまれる」ところから生まれてきます。直前のイザヤ書49章8節は第二コリントに引用された聖句です。
「8 主はこう言われる、「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。」
つまり、主が、その民を救い、助けられるその時、世界の全てが喜び、主を讃える、と言うのです。それは、元々、万物はすべて、キリストにあって造られたからです。人の罪によって、呪われた地が、人の罪があがなわれることで、主がはなはだ良かった、と満足された姿に立ち帰ることが出来るからであります。主は御子キリストを地上に遣わし、そして天に上げて、万物をキリスト足の下に従わせられました。
私たちの主。唯一の頭であるイエス・キリストは、ただ私たちの救い主というだけではなく、被造世界全ての救い主であり、王でいらっしゃいます。
詩篇96篇は最後に、この救い主、メシヤの預言をもって締めくくっています。13節。
「13主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。」
最終の裁き主、そして世界を治めるお方が、今、私たちと同じ体をもって天におられ、私たちのために御霊を遣わし、執り成し、守り治めていて下さいます。世界の真の主権である、主が私たちの王となって下さいました。感謝して、主の前に平伏し、共に主を讃美いたしましょう。