「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前である」
今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
今お読みいただいたのは、有名な放蕩息子のたとえの一部であります。このたとえはここにおられるどなたもご存知のことと思います。またキリスト者でなくても知っている方の多いたとえだと思います。有名な話で知る人が多いのですが、一方で何かしら釈然としないという感想を持たれる方の多い話でもあります。私は、以前キリスト教主義の学校で働いておりましたが、そこでこの話を取り上げると、学生から疑問や反発の声が上がるのが常でした。「これでいいのか」「兄息子が気の毒だ」「そもそも父親の教育が間違っていたのじゃないか」と、いろいろな声が上がって、ディスカッションが盛り上がったものです。
私もかなり長い間何か釈然としない思いを抱いていたのですが、最近その思いが少しほどけてきたので、今日はそのことをお伝えしながら、み言葉に聴いていきたいと思います。
放蕩息子のたとえを理解する上で、最初のきっかけになったのは、瀧浦先生の「15章の3つのたとえを連続して読むべきです」というアドバイスでした。放蕩息子のたとえだけではなく、「迷える子羊」、「失われた銀貨」のたとえと共に読むと言うことですね。そのようなわけで、今日は15章全体を見ながら放蕩息子のたとえについて、み言葉に聴きたいと思います。
15章1節
「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。」
取税人や罪人たちが皆、イエス様の話を聞きにやってきたとあります。ルカによる福音書では、これまでイエス様の話を聞いていたのは弟子、群衆、律法学者、パリサイ人であって、取税人や罪人たちはイエス様の話を聞きにくることはありませんでした。彼らは人々から蔑まれ、疎まれて、交わりに入れてもらえない人たちでした。しかし今や彼らもイエス様の話を聞こうとやってきました。イエス様なら自分たちを受け入れてくれるのではないかと、望みを抱いてやってきたのでしょう。
すると早速15章2節
「するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。」
パリサイ人や律法学者達がブツブツ言いはじめました。一緒に食事をしている、罪人を仲間扱いしていると文句を言いはじめたのです。そのような状況の中で、イエス様がたとえをお話しになりました。
イエス様のたとえを読み解く上で、どのような状況で誰に向かって話されたのかと言うことは、とても大切です。
ここにはいつもの人々と、初めてやってきた、おそらく恐る恐る、みもとに近づいてきた取税人や罪人がいました。そして、パリサイ人や律法学者がいつものように、イエス様が罪人を仲間扱いすると非難の声をあげている、その中でイエス様が3つのたとえをお話しになったのです。
まず「迷える子羊のたとえ」です。(15章4節~6節)
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」
100匹の羊を持つものが、いなくなった1匹を見つけるために、99匹を野原に置いて懸命にさがす話です。そこにはいなくなった羊を懸命にさがす姿と、見つけたときの喜びが鮮やかに描かれています。さらに見つけた喜びは持ちぬし独りに留まらず、友人や隣人にも及ぶ喜びであるとされています。そして15:7それは罪人が悔い改めたときの、天にある喜びの姿であると教えられます。
そして「失われた銀貨のたとえ」です。
「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。」
これも失われた1枚の銀貨を懸命にさがす女の姿と、見つけたときの友だちや近所の女達に及ぶ喜びが描かれています。
そして15章10節。
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。」
それが罪人の悔い改めに対する神の御使達の前の喜びであると教えられています。
ふたつのたとえの中心テーマは、「罪人の悔い改めに対する天にある喜び」であることがよくわかります。
そして3つ目が「放蕩息子のたとえ」です。
15章11節~13節
「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」
ある人の二人の息子の弟の方が、父親に財産分けを求め、自分の取り分をもらうと遠いところにいって、そこで身を持ち崩して財産を使い果たしてしまいます。
そして15章14節~16節
「何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。」
そこに飢饉が起こり、弟息子は堕ちるところまで堕ちてしまいました。
そして15章17節~19節
「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。」
彼は父の下に帰ろうとしました。
そして15章20節~22節
「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。」
父のもとへ行くと、まだ遠く離れているうちに父は息子を見つけて、哀れに思い走りよって、その首を抱いて接吻しました。息子が考えていた詫びの言葉は、半分までしか言えませんでした。父は息子に皆まで言わせず、僕に言いつけて最上の着物を持ってこさせて着せ、指輪をはめ履物を履かせたのであります。
息子は父に背いて出た自分は最早息子と呼ばれる資格は無い、せめて雇い人として置いてほしいと臨みましたが、父は憐れみをもって受け入れ、たちどころに彼の身分を回復させたのでありました。
そして15章23節~24節。喜びの宴が始まります。
「また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
そこへ兄息子が仕事から帰ってきます。そして15章25節~27節。
「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、(26)ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
(27)僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。」
宴会の理由を知ります。そして15章28節~30節
「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。」
宥めにきた父に兄は怒りの言葉をぶつけます。
それに対して父は、15章31節~32節。
「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」
―と述べるのです。
さてこの3つのたとえに共通するのは、失われたものを探し求める熱心と、探し得たときの喜びであります。羊、銀貨、息子、いずれも神様のもとを離れた罪人を表していることは、皆さまよくご存知のところです。神様はご自分のもとを離れ去った民をなおも憐れみ、探し給う。そしてご自分に背いた罪人であっても、見いだし連れ戻すときには、天に大いなる喜びがわき起こるのです。
羊、銀貨、息子これは罪に陥ったものの、3つのタイプを表すと考えられます。「羊は愚かにも罪に陥ったもの」、「銀貨は罪を犯してそれを知らずにいるもの」、「息子は故意に罪を犯したもの」を表すと考えられます。
そのいずれに対しても、神様は見放されず熱心に探し求められる、そして帰ってきたならば大いなる喜びを持って迎えてくださる。15章を貫くメッセージは、そのような神様の愛と憐れみにつきます。
この章の冒頭にあるように、このとき取税人や罪人がイエス様の話を聞こうと来ていました。共同体の中で蔑まれ疎まれていた彼らが、み言葉を求め救いを求めてイエス様のもとに来ていました。このときイエス様が最もみ言葉を伝えたい相手は誰であったか。その取税人や罪人でありましょう。あなた達も神様の大切な民である、神様はあなた達の独り独りをかけがえの無いものとして探し求めてくださる。そしてあなた達が悔い改めて神様の下に帰って来るならば、それは神様と天のみ使いたちの大いなる喜びである、これが3つのたとえを通して語られました。
たとえが語られるとき、そこで語られるテーマは一つです。ここでは神様のご愛と憐れみ、神様はご自分を離れていった罪人をも愛し憐れんで迎え入れてくださる、あなた達取税人も罪人も、漏らさず神様のご愛によって迎えられる、救いに入れられるということが、懇切に語られたのです。
ですから、パリサイ人を思わせる兄息子に対しても、弟息子を取り戻した喜びのみを語って、彼を論破する方向にはいきません。
私たちは、どうしても物語の内容に引かれていろいろ考えてしまうのですが、イエス様のたとえ話は中心テーマに沿って聞くべきで、そこを離れて連想をめぐらせると、迷路に迷い込んでしまいます。
ここでは、自らの罪に怯えつつ、それでも救いを求めてイエス様に近づいた取税人や罪人が聞いた神様のみ心、背いたものすら見捨てたまわない神様のご愛に聞くべきでありましょう。
「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前である」
私たちもまた、この神様のご愛によってみ救いに与ったのであります。