神は光であり、
(5)わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
(6)神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
(7)しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(8)もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(9)もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
(10)もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。ヨハネの第一の手紙 1章 5節から10節
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
ヨハネの第一の手紙1章5節のみ言葉でございます。今朝は、この「神は光である」とのみ言葉に導かれたいと思います。
ヨハネの第一の手紙は、特定の送り先が書かれていない、いわゆる公同書簡に含まれています。さらに、書簡の中で、ヘブル人への手紙と、このヨハネの第一の手紙だけは、差出人が記されていませんが、様々な証言からこの手紙は、イエス様の使徒ヨハネであることが、ほぼ間違いないと言われています。使徒の中でも若く、迫害を逃れて最後まで残っていたヨハネ。彼が、教会から、だんだんと使徒がいなくなっていく不安の中で、この世の迫害に苦しみ、異端に混乱させられている、信徒に対して。これを励まし、変わることの無い真理、確かな福音信仰に立つことができるように。残されたイエス様の証人である、使徒ヨハネが、真の福音とは何か。救われるとはどういうことか。イエス・キリストはどなたかということを、教えているのがこの手紙で
あります。
少し前、先月ですが、この手紙の4章のみ言葉に聞いて参りました。それは「神は愛である」。という、神ご自身による間違いの無い自己開示です。まことの神様がおられて、その神様は愛なる神様だ、という事実。そして、神様が愛であるということは、それは私たちの人生が愛のうちにある、ということが教えられました。私たちが、生きているということは、まさに神様の愛の内に生きているということ。人生、命そのものに絶対的な意味と価値があるということです。その価値は私たち自身の、相対的な曖昧な価値ではなく、神様が愛しておられるという、絶対的な客観的な価値ということであります。
そして神の愛は、御子イエス・キリストにおいて完全に表されていること。それも、イエス様が地上で話された言葉。実際に成し遂げて下さった救いのみ業。そのイエス様を、私たち罪人の下に送り、生贄とし、更に甦らせ、天おいて全権を委ねておられる父なる神のみ業に顕されます。愛は、観念ではなく業、行動に示されているということでした。
このように実際、神様が私たちを愛して下さっているから、私たちも、それに倣い、互いに愛し合うこと。その交わりの中で、神様が共におられること。神様の愛の内に置かれていることが確信される、ということです。主に倣って愛することは、聖霊によってもたらされることであって、御霊のお働きを願うことが求められました。具体的な手段は、み言葉に聞いて祈ること。その最も顕著な表れが礼拝ということになります。私たちが、主の日に、まことの神様を礼拝することが、実は私たちが愛に生かされるために。世界に神内が表されるために、最も有効なことであります。
さて、このヨハネの手紙は5章から成ります。その真ん中3章から4章において、「神は愛である」ことが語られました。それより前で何が教えられているか。それは、神が光である、ということであります。本日のみ言葉をもう一度お読みします。
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
神様が光であるということは、純粋に光のみのご存在であって、全く暗いところがないと教えられています。その中には暗闇が、全く存在していない、という強い否定形です。それが、神の御子であるイエス様から聞いたことです。つまり、完全な善、完全な正義、真理であって、ひとかけらの悪も罪もない。曖昧さもないということ。当然なことです。罪は神様に背くこと。悪は御心にかなわないことですから、主なる神様ご自身には全くそのような要素がありません。
存在と知恵と力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊。それが神の言葉、聖書が教える神様ご自身のご性質でした。
そして、ヨハネはその神様の完全な光の中を歩くように、と私たちに勧めています。6節から8節をお読みいたします。
「(6)神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
(7)しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(8)もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」
闇の中を歩いているなら、偽っている。神様との交わりがあると言うのが偽りである。しかし、光の中を歩くなら、二つのことが起きます。一つは、信徒同士の交わり。霊の交わり、主の愛の交わりが持てること。もう一つは、イエス様の血によって、全ても罪がきよめられる。きよめられ続ける状態になる。聖化されていく、ということです。
この清められることは、結果というより、必要なこと。必然であります。それは、神の完全な光の中を、私たちが歩けるのか、ということを考えると分かってきます。新約聖書。テモテへの第一の手紙6章を見てみます。(新約332頁)第一テモテ6章16節。
「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光に中に住み、人間の中で誰も見たことがなく、みることもできない方である」
「近づきがたい光」完全な光は、人には近づきがたい光です。あらゆる闇を払い、罪を焼く光であって、神様はその光の中におられる、光そのものであり、だれも、見たことも、見ることもできない、
聖なるお方であります。太陽を直視できないように、罪を持ったままの身には耐えられない光が、神様の光であります。その光を見ることが出来るのは、イエス・キリストという、日よけの下にかくまわれているから、かなうわけです。私たちは暗いところも、罪も汚れも持っていますが、イエス様を通して、はじめて、この光を見ることができる。日よけと言いましたが、陰ではなく、今で言えば紫外線がカットされている、といった感じでしょうか。十分に明るいけれども、身を焼かない光に中に、イエス様の血の贖い、代償によって、私たちは、実はもう既にこの光の中に入れられているのであります。
明るい光に中にいるとどうなるか。エペソ人への手紙5章13節に次のように書かれています。(新約306頁)
「(13)しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。(14)明らかにされたものは皆、光となるのである。」
すべてのものは明らかになる。私たちは、傷の手当てをする時。爪を切る時。何かを修理したり、爪を切る時も、明るい光を必要とします。悪いところ、手を加えるべきところ、状態が光によって明らかになるからです。同様に、神様の光の中では、私たちの全ての傷、暗いところが明らかにされてしまいます。全身すべて、隠すことが出来ません。体の中も、心の内、魂の奥まですべて、神様の光に照らされて、すべて明らかにされています。光の中を歩む、ということはこの事実を受け入れて進む、ということです。
私たちは、信仰を与えらえて、イエス様を信じ、まことの神様を知ることで、その光の中に入っています。神様が求めておられること、喜ばれることを教えられました。そして、それができない罪と、自らの弱さにも直面します。見たくなくても見えてしまいます。すべてをが明らかにされる光の中にいるとどうなるか。8節。
「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」
光に照らされた傷。明らかな罪を認め、告白して懺悔せざるを得なくされてしまいます。そのため、人はつい、この光から顔を背け、目を瞑ったまま、闇を闇と認めず、暗がりを歩こうとしてしまうわけであります。
しかし、私たちは、み言葉によって教えられています。イエス・キリストの血によって、すでに、光なる神の御前に義と認めていただいていること。イエス様が天で執り成していて下さり、神が許し続けて下さること。これをヨハネは続いて教えています。9節、10節。
「(9)もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(10)もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」
神様は、私たちを赦し、きよめて下さいます。罪を告白するなら、です。罪を告白するためには、罪を知ること。神様が求めておられることを知る必要があります。それは、み言葉によって、十戒という形で示されています。私たちがそれを完全に果たせず、ただイエス様代わりに果たして下さったことを知っています。イエス様を信じることで、その義が私たちの義とされます。私たちは、罪を持ったまま、イエス様と一体で同じだと認める、と宣言されているわけですから、安心して、自分の弱さをありのままに告白する。すると、神様は許して下さいます。
神様の完全な光の中を歩くということは、私たちが完全な光の存在でもなければ、全く聖いわけでも、立派でも無く、ただイエス・キリストを信じて信頼するということ。信頼して、イエス様を通して、愛して下さる神様を見上げ、目を向け、まさに上を向いて歩くことが出来るのであります。ヨハネの福音書14章で、
「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
と、イエス様が仰っている通り。私たちはイエス様と共にあって、イエス様に繋がることで、永遠の命への希望の光の中を、今、手を引かれて進んでいるところ、ということです。
ここでは、「罪を犯したことがないと言うなら、神の言は私たちの内に無い」と言われています。逆に言えば、罪を認めて告白することができるであれば、それは神の言葉が私たちの内にある、ということです。実際、この後の2章14節に後半で、ヨハネは次のように語っています。
「若者たちよ。あなたがたに書き送ったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者に打ち勝ったからである。」
恥じることなく、恐れること無く、しかし高ぶることなく神様の光を目指し、罪を告白し、悪から離れる強さは、神の言葉が私たちの内に宿ることで与えられます。
「あなたの御言はわが足のともしび、わが道の光です」
と歌われる通り、み言葉を通して私たちの内にはたらく聖霊が、光の中へ私たちの足を進めて下さいます。激しい戦争があり、長く疫病が続き、また大きな地震があり、甚大な被害が生れています。イエス様が仰っていたような困難が、地上にあふれる終末の時を、私たちは生きています。この歩みが、いつも希望の光。主と共ある平安と喜びの光の中に置かれますよう、あらためてみ言葉の力に信頼し、イエス様を仰いで参りたいと願います。