○「(11) 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国(王国)もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。」
今朝は、歴代誌のみ言葉に聞いて参りたいと思います。今、お読みいたしましたのは、歴代誌上・29章10節のみ言葉であります。読み上げますと、なにか聞き覚えがあるように感じ津と思います。これは、先にご一緒にお捧げしたお祈り、主の祈りの締めくくり。結びのことばの、元になっているとされる聖句であります。
イエス・キリストが「あなたがたこう祈りなさい」と教えてくださった、キリスト者の祈りの模範としての「主の祈り」。これは、マタイ福音書6章9節から13節に教えられていますが、最近の聖書本文には、ご存じの通り、主の祈りの結び「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という記載がありません。あっても、括弧がついていたり、脚注に記載されたりします。これは、最も古い写本には、この一文が無いためです。
おそらく、教会の礼拝などにおいて、主の祈りが広く用いられるようになった頃に、体裁的な
事柄も含め、神様に祈りを捧げた、締めくくりの頌栄として加えられたもの、とされています。
イエス様が教えてくださった祈りそのものは、聖書本文にあるように、6つの祈りからなるものですが、み言葉によって、み言葉に私たちの心を重ねて、信仰によってお祈りした後に、「祈る」という恵みに与れた幸い。まことの神様に向かって、唯一の仲保者、御子キリストの名によって祈ることが許されておること。これを思い、主を讃美する。ご栄光を表す、ということは相応しいことであります。長きに渡り、教会で共有され、伝えられてきたものであります。
そして、単に人によって付け加えた、というだけではなく、その元には、先に申し上げたように、この歴代誌のみ言葉。ダビデによる主の讃美が、主に捧げる祈りに相応しいものとして認められていたということであります。ダビデの讃美から、祈りに求められる大切なことを教えられたいと願っています。
このダビデの讃美のみ言葉を見て参りますが、その前に、歴代誌そのものの、概要をお話ししたいと思います。歴代誌は旧約聖書では13番目と14番目の書になります。モーセ五書があって、ヨシュア、士師、ルツ、サムエル上下、列王上下と来て、歴代誌上下が続いています。歴代誌は英語で「クロニクル」と表記されるように、いわゆる「年代記」です。イスラエルとユダの国家の歴史が記されていて、その多くの部分が列王記と重なっています。 列王記との相違点は、列王記がダビデの晩年から始まって、バビロン捕囚までを描いていますが、歴代誌は始まりがアダムになります。そして、ダビデ、ソロモンを経て、バビロン捕囚と捕囚からの解放で記事が終わります。扱っている時代が長くて、その分、上延々と系図が描かれています。上巻の半分ちかく、1章から9章までずっと、民族の系図が記録されています。続く10章から21章がダビデ王の治世と功績、22章から27章が神殿建設の準備。材料を集め、役割分担をしています。そして28~29章。最後、全てが整ったところで、若いソロモンに対して、神殿を引き継いで完成させるよう、任命しています。
この、最初の長い系図が、通読する上で、高い壁になった記憶があります。延々と律法が書かれていたレビ記に続いて、第二の壁でした。ただ、歴代誌では、列王記と違い、描かれた系図や王たちの記録も、ほぼ南ユダが中心になっています。つまり、アダムから始まって、ダビデ王まで。そしてダビデ直系の子孫が王として立てられた南ユダ。神である主がダビデに約束された、とこしえの王権の正統性を証言する、という目的をもって、描かれていることになります。
また、列王・歴代どちらも、ダビデ王とソロモン王の親子が中心的な人物ですが、歴代誌の場合は、二人の王が、特にエルサレム神殿との関係を中心に描かれているようです。ダビデは神殿建設の準備をした王として。ソロモンはそれを引き継いで、神殿を建設した王として。それが主の主導されたご計画の実行であったことを証した内容となっています。
これは、歴代誌が記された時期と関係があります。歴代誌が記されたのは、紀元前5世紀半ば。440年頃になります。著者はエズラとその弟子たち、言われています。エズラ記のエズラです。紀元前586年位に南ユダが滅び、捕囚に遭って、その70年後。516年に神殿の再建が行われました。その後、帰還したエズラによる宗教改革が行われました。バビロン捕囚から帰還したユダの人々が、神の民の国をもういちど再建するために。契約の民としてまとまって固く立つために、主なる神の恵みの契約の象徴として、神殿とそこでの礼拝。神の言葉である律法に従う生活、これを必要としていたのであります。
端的に示していることは、列王記は預言書(ネビーイーム)で、歴代誌は諸書(ケスービーム)です。イエス様の時代では、歴代誌は、聖書の一番最後に置かれていました。
それでは、ダビデの讃美について、見て参りましょう。29章10節から13節。
「(10) そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖
イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。
(11) 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、
地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有の
かしらとして、あがめられます。
(12) 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと
力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。
(13) われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。」
ダビデは「主をほめ讃えた」とあります。ダビデの讃美と申し上げましたが、最後の2節は願いを述べていますので、祈りでもあります。ウェストミンスター小教理の祈りの項目をみてみますと、98問。「祈りとは何であるか」。答「祈りとは、神の御心にかなうことのために、キリストの御名により、私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝と共に、私たちの願いを神に捧げることです」。最終的には、神様に願いを捧げる事ですが、願いがまず、御心に適うように、罪の告白・懺悔と感謝と共に、ということであります。
つまり祈りの前提が大切になります。主の祈りで「天にまします、我らの父よ」と始めるように、まず祈る相手をはっきりとする必要がある。人間であっても、何かを依頼するとき、希望する時。それを訴える相手は、その希望を叶えることができる人。その権威があり、力がある相手になります。関係ない人に言ったり、主権者を間違えては意味がないように、祈りはまさに、全てを支配し、摂理される万能の主なる神様に捧げるからこそ、意味があります。
しかし、人間は、自分ではこれを知り得ない。神様から私たちにご自身を示してくださらなければ、決してたどり着けません。これは罪の結果ですが、大切なことは、私たちには、それが明らかにされているということであります。
神様に繋がる電話番号は一つ、イエス・キリスト。神の一人子イエス様宛に掛けないと通じない。そしてイエス様の番号に繋がる一本の回線、聖霊なる神様もイエス様の方から繋いでくださっている。私たちを父なる神様に繋いで、会話して、願いを伝える、そのような交わりの回復のために、イエス様は血を流してくださいました。私たちが、神様に祈れる、ということ自体が、限りなく大きな恵みであり、恩寵であるということを覚えたいと思います。ですから、まず神様に感謝し、ほめたたえることから始まります。讃美と、感謝と懺悔。
ダビデは10節で、主を「とこしえにほむべき方」と言いました。すべての栄光は永遠に主にのみ帰すべき、という信仰の告白であります。さらに具体的に表します。11節。
「主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、
地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国(王国)もまたあなたのものです。あなたは
万有のかしらとして、あがめられます。」
神をほめたたえる事は、神ご自身を知り、知らされた神を表わすことです。造り主なる主が、全てを所有される。天地のご主権をお持ちである。あらゆる頂点としてあがめられるべきお方。その方に、私は感謝しています。国は、kingdom王国です。まことの王、主が治めるべきお方。
このすべてを治める王、主が強くしてくださる。力を与え、大きな働きをさせてくださる。ここでは、実際に、神殿を建てるための全ての準備が整えられた。定められた通りの膨大な材料を集め、多くの民の協力を得ることが出来るようになりました。主はそのご計画を必ず実現されるお方です。そのために召したものに力を与え、お用いになります。主によって、これほどの準備ができました。力の源なる主に感謝します。
主をほめたたえ、感謝を捧げるダビデは、同時に、そのために用いられた自らを振り返っています。
「(14) しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。(15) われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。(16) われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。」
主に喜んで仕え、捧げている、私たちは一体何者であるか。いくら多くを集め、捧げたとしても、それらは元々、全て主から出たものではないか。ダビデは確かに、主に従順であり、大きな働きをなしとげましたが、あくまでその栄光と功績は主のものである、ということ。ダビデはこのことを、しっかり心に刻んでいました。かつて大きな罪を犯し、赦されたことを忘れていなかったのであります。喜んではいるけれども、調子には載っていない。どのように栄えても、地上は一時であります。私たち国籍が天にあるということは、やがて天の永遠の御国に帰ります。それまでのひと時の地上の人生。本当に尽きない喜びは、天に、主にあるということ。地上で自らを誇ることは、まことに空しい影と同じであります。
感謝し、懺悔したダビデは、願いを述べていきます。
「(17) わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。(18) われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ(keep)、その心をあなたに向けさせてください。
(19) またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて(keep)、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。
私たちの神、主は心をご覧になります。目に見える行動、物の量ではなく、その心をみて正直を喜ばれるお方であります。主の示された神殿建設のために、ダビデも、多くの民も、心から喜んで、進んで捧げものをしました。自由意思でそれを行いました。しかし、その主に従い、ささげる自由も喜ぶ心もまた、主が与え、共にいて導いて下さるものであります。
私たちの祈りや行いが、御心にかなうようにと、祈るように。主が私たちの心を、主に向かうように保ち、守って下さるのであります。私たちを動かすのは、私たちの心であります。心が動くことで、心が変わることで、判断も行動も変わります。それは、自由な心ではありますが、御心に適うように、守り導かれるのは主のみわざであります。ダビデはこのことをよく悟っていました。自由に喜んで主なる神様に向かう心を、主が守り、導いていて下さる。イエス様にあってこのお約束は確実であります。
「主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。」
ダビデによる讃美と祈りのみ言葉を味わい、私たちが自らの祈りを主に捧げることが出来る幸いを覚え、また、主の御名による祈りが、私たちにしかできない、地上での大切な御用であることを覚えたいと思います。