「(19) ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。(20) さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。」
今朝も使徒行伝のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。10章のみ言葉をお読み頂きました。
使徒行伝の10章は、まるまる1章が、コルネリオという名の百卒長。イタリヤ隊と書かれている通り、ローマ軍の100人の兵士の隊長です。そのコルネリオと、彼の家族や、周囲の人々の回心、イエス・キリストを救い主と信じ、教会の一員とされて行ったできごとが描かれています。
コルネリオの回心も有名なお話ですが、どんどん信徒が増えて広がって行く教会の中で、一つの家族の回心について、ルカが1章全部を費やしているのは、キリスト教会の誕生と成長を記していく使徒行伝の中で、重要な出来事であったいうことになります。その証拠に、ペテロは、11章でこの出来事をそのまま繰り返して報告していますし、さらに15章、いわゆるエルサレム会議の場で、この出来事を語っているところであります。
さて、前回の9章の終わりでは、サマリヤ伝道のエピローグとして、ペテロが登場して、ルダと言う町と、(ヨナが主の召しから逃げようとして船に乗った)港町ヨッパでの奇跡。イエス・キリストの御名によって、中風が癒され、亡くなった娘が蘇る、という業を行いました。この業は、福音書でイエス様が、ご自身を証するために行われた御業と、おなじものでした。使徒がイエス様から、救い主の証人として召され、力を授かっていたことの証明でもあります。キリストの教会というものは、すべからく、この使徒の伝統に繋がる存在であります。
その9章の最後には、ペテロがそのままヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に滞在した、というところで終わっていました。そして、10章で、カイザリヤのコルネリオが登場いたします。
カイザリヤも、サマリヤの地中海沿岸の港町で、ヨッパの50キロほど北にありました。先に、エルサレムで命を狙われたサウロを、生まれ故郷のタルソに逃がすために送り出した街になります。そこに、コルネリオは赴任していました。彼はローマから派遣された、イタリヤ人でしたが、10章2節。「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈りをしていた。」とありますように、ユダヤの地で、彼等が信じる神、主に対する信仰を与えられていたことが分かります。「施しと祈り」は、信仰生活を表わす表現です(Mt6:2、1Pet4:7)ただ、彼らの一族は、割礼を受けていなかったことから、まだユダヤ教徒としては、完全に受け入れられてはいませんでした。
これは、ユダヤ人の社会的な判断、常識がそうだったということです。しかし、私たちは既に教えられています。人は社会的ン属性や外見、体裁をみますが、主は、心を見られるということ。主は、コルネリオの信仰をご存知でした。当然と言えば当然で、彼の信仰は、主がお与えになったものであります。そこで、ある日の午後3時頃。主のみ使いがコルネリオの下にこられました。午後3時というのは、ユダヤの祈りの時間になります。3章1節「美しの門」の癒しの時、
ペテロとヨハネが宮に上ったのも「午後3時の祈りの時」と書かれています。
コルネリオに現れた御使いの第一声は「あなたの祈りや施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている」ということでありました。この御使いの言葉は、どれほど喜ばしいことでしょうか。自部たちの祈りを神様が聞かれておる、ということを教えられたわけですから、これほど嬉しいことはないです。私たちも、日々お祈りを致します。それは、イエス様の御名による祈りであります。そして、この祈りを主が全て聞いておられる、ということを改めて自覚したいと思います。それは、自分の思い通りかなうかどうかは、主の御心次第です。だから、御心にかなうように祈る。しかし、祈ったことは、すべて神様が聞いておられる、のであります。
み言葉に聞いて、主の無いよって祈り、聞かれる。祈りの時は、神様との実際の交わりの時として与えられた幸いであり、同時に、交わりを許された私たちに託された務めでもあります。この確信の元、日々の祈りを新たにしたいと思います。
御使いがコルネリオに命じられたことは、「ペテロを招きなさい」ということでありました。そして、ペテロがヨッパの「皮なめしのシモン」の家にペテロがいる、と教えられます。それを聞いたコルネリオは、ただちに、僕二人と、部下の兵士をヨッパへと送り出しました。
このあたりの記事の表現は、ちょうどサウロの回心で、アナニヤの幻に現れた主のお告げと、重なってくるところであります。
さて、一方ぺテロは、というところで、本日お読みいただきました。9節以降になります。
9節から10節
「(9) 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。(10) 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。」
コルネリオの僕たちは、カイザリヤを夕方出発していますから、50キロ離れたヨッパに着くのは翌日になります。ペテロは、シモンの家の屋上で祈りを捧げ、昼食を待っていました。
ここでペテロは「夢見心地」になった、と訳されています。「エクスタシス」ですので、恍惚とした状態、といういみです。ただ、眠くてうとうとしていた、のとはニュアンスが違います。超自然的な、主の啓示が臨んでいるということ。ペテロには幻が表されました。11節から16節。
「(11) すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。(12) その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
(13) そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
(14) ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
(15) すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
(16) こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。」
出来事、歴史的事実を追いかけて使徒行伝の中では、印象深い幻の記事です。旧約聖書によく
出て来るような内容です。当然、意味があるのですが。
この幻の中でペテロは、主の声を聞いて、応えるというやりとりを三度繰り返しています。ペテロはかつて、「イエス様を知らない」と三度言って、そのことを予言されたイエス様の言葉を否定していたことを思い出して、泣いていました。ここでも、ペテロは命じられたことを三度否定していますが、こちらは悪い意味で無いと思います。素直に、心を開いて、自分が信じている、神のみ前に正しい、と思われることを語っています。ただし、それは正確ではない、というか間違っていたわけですが。彼は律法に定められた、禁じられた食べ物は食べないということ。それに逆らうことを恐れていました。それは、信仰と言うより、文化・習慣として根付いたもので、主のみ心ではありませんでした。
その証拠に、イエス様自身が、福音書で教えておられました。マルコ福音書7章18~19節。
「(18) すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。(19) それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」
これをペテロはまだ十分理解できていなかったようです。ただ、注意しなければいけないのは、ペテロが見た幻は、ペテロの答える部分も含めて、ということになります。食べ物だけの事ではなくて、それを譬えにして、ペテロ自身が、ある誤った常識に囚われている、ということを、主はお示しになりました。これは、非常に的確な譬えをもって示されましたが、この時点では、ペテロはまだ十分に悟ることが出来ていなかったのであります。
17節から20節。
「(17) ペテロが、いま見た幻はなんの事だろうかと、ひとり思案にくれていると、ちょうどその時、コルネリオから送られた人たちが、シモンの家を尋ね当てて、その門口に立っていた。(18) そして声をかけて、「ペテロと呼ばれるシモンというかたが、こちらにお泊まりではございませんか」と尋ねた。
(19) ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。(20) さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。」
ペテロは、自分に示された幻の意味について。主のみ心について、思案に暮れていました。コルネリオに派遣された人々がやってきても、まだ思いめぐらしていました。「ペテロはなおも」と
あるように、訪問者が来たとしても、もし怪しかったら、居留守を使うために、あえてすぐ出て行かず、様子を見ていたと考えられます。今回は特に、兵士が一人ついていましたし、ローマ側の人であれば、当然ユダヤの支配層、クリスチャンを敵視していたサドカイ派とは繋がりがありますし、しかもペテロ指名で訪れましたから、逮捕しに来た、ということも考えられます。
そのため、すぐ出て行かず、シモンか家の人に対応を任せて、自分は引っ込んだまま、幻について考えていました。
そこで、ペテロに御霊が臨みます。主の御霊、聖霊はペテロにお命じになりました。
「(20) さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」」
「立って」と、主が、行動を命じられる時、特にご自身の、救いのご計画のために、人を召して、お用いになる時には、このように言われます。「立って、行きなさい」。召されるものが、どのような状態にあるか。おびえているか、悲しんでいるか、傷ついているか。何かできる時や状態ではない、というような、私たち有限な人間の、感覚や常識を超えて、主がお用いになるということです。お命じになることは、主がそれを為されるということ。御心は必ずなります。だから「ためらわないで」。つまり、何一つ疑念を持たず、降りて行きなさい。彼らと出かけなさい。
ペテロは、聖霊と共にありましたから、聖霊がお命じになると、ただちにこれに応じます。
21節から23節。
「(21) そこでペテロは、その人たちのところに降りて行って言った、「わたしがお尋ねのペテロです。どんなご用でおいでになったのですか」。
(22) 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。
(23) そこで、ペテロは、彼らを迎えて泊まらせた。翌日、ペテロは立って、彼らと連れだって出発した。ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。」
カイザリヤの百人隊長コルネリオの使いと、ヨッパに遣わされていたペテロが出会いました。
コルネリオはみ使いを通して、ペテロを招くことを命じられ、ペテロは聖霊によって、彼等を受け入れました。キリストの教会の誕生、伝道、広がり。使徒を中心に、多くの人物、人々が登場して来ましたが、それらを用い、また繋ぎ、歴史の中に実現してこられたのは、聖霊のお働きであります。
今朝、私たちは、あらためて、今この時代。究極の救い主イエス・キリストが来られて、天におられるこの時。主が天から遣わされる聖霊によって世界を治め、また導いておられることを確認したいと思います。
三位一体の第三位格。聖霊なる神様の御業は、主に、神のみ言葉。聖書を通して、それを聞く人の心を開き、魂に働いて、イエス・キリストへの信仰をおこし、キリストの救いの御業に与からせて下さるところにあります。
しかし、それだけではないことも思い起こしたいと思います。元来、聖霊は、創造の御業をもその働きとされてきました。創世記1章2-3
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」 同じく創世記2章7節
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
息は「霊、魂」と同じ意味です。なにより、イエス・キリストが地上来られる際、聖霊によって、お生まれになりました。このように、聖霊さまは、世界の完成、そして命の創造に深く携わっておられます。さらに、世界の上に、神の摂理の御業の実行者として、働いておられます。
使徒行伝の、この人との出会い。迫害者サウロとアナニヤ。ペテロとローマ兵士コルネリオの
出会いのように、聖霊がこれをとりつぎ、繋いでいかれるのであります。それは、ここでは神様の救いの福音が世界にもたらされる、その実現のために、目的をもってなされました。
この世の人は、人との出会いを、運命や奇跡のような、偶然的なもの。あるいは縁とか天命、と言ったものを原因として、何か曖昧な意味を持たせようとします。
しかし、実際は、これは聖霊のお働きなのです。そこには、曖昧ではなく、ちゃんと明確な意味や目的があります。ご人格を持たれた御霊なる神の計らい。それは、愛に基づくご配剤であります。すべての民を、ご自身の元へ招き、永遠の命に導こうとされる、主の愛が、罪の世界の中で人を繋ぎ、福音のみ言葉を、託されていくのであります。
私たちが生きる、この世界に働く主の愛に基づく御霊の業に感謝し、信頼して、その導きに従ってまいりたいと願います。