サウロの回心
○使徒行伝 9章1節から9節
○使徒行伝9章5節。迫害者サウロに語りかけた、主の御(み)言葉でございます。今朝も使徒行伝のみ言葉に聞いて参りたいと思います。
前回8章前半まで、ペンテコステに生まれたばかりの教会。聖霊に満たされた使徒たちによって、信徒の数を増し、広がって、とうとうサマリヤまで進んで参りました。そのきかっけは、ステパノの殉教でした。これを契機に、パリサイ派。特にギリシャ語を話すパリサイ派のユダヤ教徒から、激しい迫害を受け、信徒たちはエルサレムから逃げ出しました。この散らされた人々によって、イエス・キリストによる救いの福音がのべ伝えられ、広がることになります。主は迫害をもお用いになりました
福音はユダヤを飛び出し、宗教的に敵対していた、また差別の対象でもあったサマリヤにまで広がっていきました。そこでは、さまざまな問題も生まれつつありましたが、それでも、イエス様が言われた「エルサレム。それからユダヤ・サマリヤの全土。そして地の果てまで、私の証人となる」という、その第2段階まで、進んで参りました。
サマリヤ伝道では、執事ピリポが大き働きをして、8章後半では、やがて世界への広がりを予感される、エチオピアの高官への伝道の記録があって、そこからサマリヤの北部カイザリヤに到着しています。このサマリヤ伝道の最後に、使徒や信徒の働きではなく、迫害者サウロが登場いたします。
サウロは、ご存じの通り、この後パウロとして、大きな伝道の働きに召されていきますが、先ほどのイエス様の言葉にあった、第3段階。サマリヤの全土を超えた、地の果てまで。つまり、異邦人の世界。全世界に福音がもたらされるために、その大きなポイントであるサウロが召される、その出来事が記されております。
本日は、サウロの回心について、見て参りたいと思っています。9章の1~2節。
「(1)さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、(2)ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。(権限を得た26:10)それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。 (エルサレムから240㎞)」
まず、このサウロという人物について、ルカの記事では、迫害者の代表のように描かれています。主の弟子たち、イエス・キリストへの信仰を持つ者、それはイエスの御名を信じて告白し、伝道する者と、言うことと一体であることが分かりますが、クリスチャンをことごとく捕まえて、脅したり、裁判にかけて、言うことを聞かなければ殺してしまえ、とばかりに息巻いていた、と書かれています。このダマスコは、サマリヤの北にあるガリラヤのさらに北、シリヤにあて、エルサレムから240㎞ほど離れていました。交通の要所で、すでに多くのユダヤ人が住んでおり、ユダヤ教の会堂が立てられていました。
そこに向かうに際して、キリスト教徒を逮捕する権限を得るために、大祭司の書面の交付を願い出ていました。その結果、使徒行伝の26章でサウロ自身が「大祭司からその権限と委任を受けた」と証言しています。
そこまでして、徒歩で240キロ先まで追いかけよう、と言うのですから、サウロは相当な執念というか、決意、熱意をもって、クリスチャンを捕まえようとしていたわけです。サウロの回心前後の事は、9章以外に、22章と26章にサウロ自身の言葉として記されています。この時のサウロの様子について、22章の3節から5節(220頁)
「(3)そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。 (4)そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。(5)このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。」
つまり、サウロのキリスト教迫害の、非常な熱心さは、「主なる神様」への信仰の熱心に他なりませんでした。少なくとも、サウロ自身は、まことの神様への熱心な信仰によって、同じ神の民、ユダヤ教徒として、主の律法や神殿への冒涜は、決してゆるされるものではない、と考えていた、ということであります。またサウロは、ガマリエルに師事していました。サンヘドリンのメンバーで、国民全体から尊敬されていた律法学者、ガマリエルに習う、パリサイ派のいわばエリートになります。最高の学者に学んだ自負心、自信を持っていました。
こうして、「神に対して熱心」なサウロは、その責任感を実行に移しました。キリスト者逮捕のため、仲間を率いて、遥かダマスコへと向かったわけであります。
そのようなサウロに対し、主のご啓示が表されました。9章3節から6節。
「(3)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
(4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
(5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(εγω ειμι)(6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。(12のアナニヤの件、召命の目的)」
サウロは、何としてもキリスト者を捕まえようという、自分の行動を、主の御用の為と信じ、200キロを歩いてダマスコの近くまでやってきました。そこで真昼ごろ、天からの強い光が、回りを照らし、サウロも同行者も地面に倒れ込んでしまいます。
そして、サウロは自分を呼ぶ声を聞きました。「サウロ、サウロ」。サウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と、問い返していますが、この時点で、おそらくある程度感じ取っていたのではないかと考えられます。しっかりと、認識していたというわけではありませんが、単に驚いたというだけの反応ではありません。主がご自身を表わされるとき、その前では人間は畏み、平伏さ
ざるを得なくなります。
目もくらむような天からの強い光。26章では、太陽よりもっと光輝いた、と証言しています。
光と、そして「サウロ、サウロ」と呼び掛ける声。かつて「サムエルよサムエルよ」と主は呼びかけられました。主が呼びかけられる時、それは一対一です。誰でもいいけど、たまたま目の前にいるあなた、ではないです。皆、とか民といっても、一まとめの一団ではなく、一人一人の集まり。個性を持った、ただ一人のあなた、そしてあなたに対して、主は呼びかけられます。
サウロは、地に伏しながら「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。主なる神様か、厚いはみ使いか、それとも一体どのようなお方であるか。この、明らかに尋常ではない状況、特別な出来事。その上、自分に語り掛ける、聖なる御声は「なぜ私を迫害するのか」と問かけています。自分に臨んでいるのは一体どなたなのか、彼は尋ねました。
「すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
サウロにとって恐るべき御声でありました。「わたしはイエスである」。あの、十字架に送って、処刑されたはずのイエス。その弟子を捕まえ、処罰するために自分が熱心に追いかけている、神を冒涜する者。まばゆい光の中、聞こえた声は、その名を名乗られました。
ここで「わたしは・・(イエス)である」のギリシャ語は「εγω ειμι」です。イエス様がご自身を表わされる時に使われた言葉。「あってあるもの」という、主なる神の御名。神様の恵みの契約のお名前と、同じ言葉です。ヨハネ福音書で、イエス様が、わたしは「道である」「門」「羊飼い」「命のパン」「世の光である」と仰っいました。それは「光である主」「道である主」「羊飼いである主・神」と言う意味でした。
唯一のまことの神、アブラハム・イサク・ヤコブの神だけに赦された御名「主」ヘブル語のYHWHであります。
光の中からの声が語る意味を、サウロは悟らされます。「わたしは、あなたが信じる主であり、イエスは主であり」「あなたは主を迫害している」。
主の御声は心の奥まで、魂に直接届きます。声が語るすべてが真実であることを、サウロは思い知りました。それは、同時にサウロの行動の否定でもありました。愛する主のため。主のお仕えするため、と熱心に働き続けていた、その行動がすべて、主への迫害であった、ということを知らされたのであります。サウロが受けた衝撃はどれほどであったか。怖くて想像もできません。正しいと、愛する者の為にと思いつくしてきたことが、すべて逆効果であった分かった時、
一体どうすればよいのでしょうか。穴があったら入りたい?自分を消してしまいたい?
主の御声によって、衝撃を受けた、あまりのことに茫然自失したサウロは、主の御命令に従うしかありませんでした。立ちなさい。町に行きなさい。そこで、為すべきことが告げられる。サウロは、主が言われるままに立ち上がりました。
7節から9節。
「(7)サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。(8)サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。(9)彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。」
サウロは目が見えなくなってしまいました。何も見えず、ただ聞こえるのみ。サマリヤのシモンが、ピリポやペテロたちの奇跡を、ひたすら目で追っていた姿と対照的です。目に見える世界、この世と隔絶され、サウロはただ聞くだけ、思うだけの世界に置かれました。ここでは書かれていませんが、サウロは主のお告げを確かに聞きました。分かっていることは、やがてアナニヤがやってきて、サウロの目を見えるようにしてくれる、というお告げでした。
また、26章のアグリッパ王への弁明では、サウロへの「立ちなさい、行きなさい」とのご命令に続いて、主の御心が明かされたことを次のように語っています。
「(16)わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。(17)わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、(18)それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。」
キリスト教会への強烈な迫害者であったサウロに、主イエス・キリストが、御心を明かされました。これを受けたサウロは、目が見えず、飲み食いもできないまま三日間の時を過ごします。
これは、丁度、ヨナが魚の腹の中で過ごした三日間が思い出されます。
主に召された預言者でありながら、主の御命令に従わず、逃げ出して、嵐に遭い、その海に放り込まれて、絶望のうちに沈んでいったヨナは、主によって魚に飲まれて、救い出されました。魚の中の三日で、ヨナは主を覚えて、主に祈って、そして地上に戻り、天敵アッシリアの首都ニネベに御言葉を届けに向かいました。
サウロもまた、主が示された真実によって、自分の考え、行い、人生を自分で完全に否定せざるを得ないような状態になりました。その中で、ただ聞こえる主のみ言葉、み心によって、再びそして、真実に主に仕える者として、地上に送り出されました。
サウロ(望まれた者)がパウロ(小さい者)となり、悟らされた御心を、第一テモテ1章13~16節(327頁)
「(13)わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。(14) その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。(15)「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(16) しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」
主イエス様のみ言葉は、聖霊によって聞く者の魂に働き、根底から変えて行かれるのであります。主のみ言葉の力に信頼して、これを届けるために、歩んで参りたいと願います。