ただ恵みによって
(21) しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
(22) それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
(23) すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
(24) 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
(25) 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、(26) それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。ローマ人への手紙 3章21節から26節
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
今日は宗教改革記念礼拝ということですが、これは1517年10月31日に、マルティン・ルターがヴィッテンベルグの教会の門に「95か条の提題」を掲げたことによります。この提題のおもな内容は、当時のカトリック教会が免罪符を売っていたことに反対するものでありましたが、このことをきっかけに宗教改革の波が起こり、全ての人々が聖書を通して神様のみ心を正しく知り、お従いすることができるようになったのであります。今日はその宗教改革によってもたらされた正しい教え、特に信仰義認ということについて、み言葉に聴いていきたいと思います。
ところで、今私たちは日頃の礼拝で使徒行伝からみ言葉に聴いておりますが、そこで神様がご計画を進められるに当たって、神様の器として人を用いられるということを知りました。キリスト者を迫害するものからキリストの伝道者として召されたサウロ(パウロ)、サウロの助けてとして召されたアナニヤ、エチオピヤの宦官に洗礼を施したピリポなど、神様のご計画に召され用いられた人々の出来事は、記憶に新しいところです。神様はご計画に従って、それぞれの人の性格や知識や置かれた立場を、実にふさわしく用いられます。宗教改革においても、神様は様々な人をご計画に従って召し、用いられました。今日は宗教改革の端緒を開いたマルティン・ルターの人となりにも触れながら、み言葉に聴いて参りたいと思います。
さてルターが立てられた当時のカトリック教会の状況ですが、中世と呼ばれるその時代、キリスト教会(カトリック教会)は国教として大きな権力を持つに至っていました。そしてそれと共に堕落して権力争いの場、権謀術数の場になっておりました。
そして教会で用いられる聖書はラテン語聖書であって、最早教会の外の人には読めないものとなっておりました。説教も式文も、教会内で用いられる言葉は全てラテン語でしたから、もう会衆には意味の分からないものでした。というのも、もともとラテン語はその時代の人の言葉でありましたが、ローマ帝国が崩壊して様々な民族による国家が立てられ、そこでもキリスト教が国教となっていったにもかかわらず、聖書は旧態依然としたラテン語のままだったのです。ラテン語がわかるのは学者や聖職者に限られ、人々は教会に行ってもそこで語られる言葉は理解できない、ただミサと言う儀式に与るだけになっていったのであります。教会によるみ言葉の独占は、教会の権威の肥大化を招きます。人々はみ言葉によって、神様のみ心に従って歩むのではなく、教会の教えに従うようにされたのです。
そのような時にルターが現れました。彼は、元々は法学を学ぶ世俗の人でしたが、ある日激しい雷に会った時に、死の恐怖の中で聖アンナに「修道士になります」と命乞いをしてアウグスティヌス会の修道士になりました。かれは極めて厳格に修道会の規約に従い修行をしたのですが、平安を得ることができない、自分の魂の汚れを取り去ることができない悩みの中にありました。
そのような中でルターはミサにおいて儀式文を読む勤めを与えられました。その勤めには様々な厳格な規定がありましたが、その中に全ての罪を懺悔して赦しを得なければならないというものがありました。ルターは生まれて以来の罪を、思い出すかぎり懺悔するのですが、帰って来るとまた別の罪を思い出す、そして一日に何度もその頃にはにわたる懺悔をすることとなり、聴聞司祭をうんざりさせるまでになっても、平安は得られないのです。
このような罪の懺悔を、痛悔というのですが、その痛悔には神様を愛するが故に神様のみ心に背く罪を悔やむ完全痛悔と、神様からの罰を恐れ地獄や煉獄(クリスチャンが死後送られるところ。カトリックの教え)の恐怖から罪を悔いる、不完全痛悔があるとされていました。ルターは自分の罪の懺悔が神様の罰を恐れての不完全痛痛悔であることを自覚し、それでは神様との和解が成立しないことを悩みました。神様との和解が成立するのは、神様を愛するが故に罪を憎み、自分の罪を悔いる完全痛悔のみだからです。彼の厳しい修行も、長時間にわたる懺悔も、全て神様罰を恐れての自己中心的なものだという自覚が彼を苦しめました。
ルターはそのような苦しみの中で聖書の研究に没頭したのですが、やがてルターは真理を知るところとなります。
ローマ人への手紙3章21-22節。
「(21) しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
(22) それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」
神様から与えられる信仰による義であります。
ルターはいかなる行いによっても神様の義を満たすことはできない、一層自分の罪があらわにされ神様への恐れがますだけであると悩んでいました。彼は「私は義にして罪人を罰する神を愛さず、むしろ神を憎んでいた。なぜならば、私は非の打ち所のない修道士として生きてきたにもかかわらず、神の前で自分が良心の不安におののく罪人であると感じ、私の償罪の行いによって神と和解していると信じることができなかったからである」と述懐しています。
彼は義によって裁く神様を恐れ、その刑罰から逃れようとすればする程罪の意識がつのり、苛まれておりました。そのようなルターに与えられたのが、このみ言葉でありました。
自分の行いによって神様の罰を免れることはできない、神様の義の要求を満たすことはできない、このどん底の思いの中で、律法とは別の「義」が表されたのです。さらにそれは律法と預言者即ち聖書によってあかしされて現されました。それはイエス・キリストを信じる信仰による義であります。
ルターとて時代の子でありました。聖書そのものではなく教会の教えの中にありました。そしてそのころの教会は、救いについて神様と人の協働説を唱えておりました。即ち神様のみ心と人の行い(善行)によって救われるというのであります。罪の赦し、心の平安を求めてあがくルターは、ますます自身の罪の意識に苛まれ、神様への反発を抱く程でありました。
まさに3章20節、
「(20)なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
の状態だったのです。
そのようなルターにみ言葉が与えられました。それは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であり、それは「すべて信じる人に与えられるもの」「何の差別もない」ものであります。それが律法と預言者、即ち聖書にあかしされて与えられたというのです。
3章23節。
「(23) すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」
聖書は、自らの罪の故に神様の栄光を受けられなくなった、全ての人の悲惨な状態を宣言します。そしてそれと同時に
3章24節。
「(24) 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
神様の恵みによって、自身には何の値もなしに、キリスト・イエスによるあがないによって義とされると言います。ルターが必死になって追い求めた義は、ただ恵みによる神様の賜物として与えられるというのです。人は罪の前に全くの無力であります。そして神様はそのような人に値なしに義を贈り物として与えると言われるのです。実に福音の再発見であります。
イエス様こそが贖い主、救い主である、イエス様を信じる者はその信仰によって救われるという聖書が明確に宣言していた真理は、約1000年もの間中世の闇におおわれていました。それがルターの働きによって明らかにされたのです。
雷の中で死の恐怖から修道士になったルター、自己の罪の意識、神様の裁きヘの恐れに苛まれ、平安を求め続けたルターの聖書研究が、閉ざされていた真理を白日の下に引き出したのです。
罪の贖い、救いについて聖書から確信を得たルターは、教会の間違った教えを正すべく95箇条の提題を掲げたのであります。これはその頃カトリック教会が売り出していた免罪符に反対するものでありました。先ほどちょっと触れたように当時の教会は救いは神様の恩寵と人の善行があって得られると教えていました。そして善行をなし得ない人々は、免罪符を買って聖人達の功徳にあやかることで、煉獄(一般的クリスチャンが死後送られて罪の償いをする場所。聖書的根拠は無い)における償いを免じられると説き、金を集めようとしておりました。これは間違った教えでありました。人々を神様の救いから遠のけ、滅びへと向かわせかねない間違った教えでありました。
3章25節。
「(25) 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、」
人は何故神様に義と認めていただけるのか。それはみ子イエス様が自ら贖いの供え物となってくださったからです。神様は義なる方でありますから罪を見逃すことはできません。罪は必ず購われなくてはなりません。血をもって購われなくてはなりません。その贖いの犠牲をイエス様が成し遂げてくださったのです。
3章26節
「(26) それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」
罪なき独り子なる神イエス様の犠牲によって、神様の義は完全に満足されました。そのイエス様を信じる者を神様は義と認めてくださいます。義認というのは義と看做す、義というステイタスを与えると言うことであります。敢えてステイタスと書きましたが、それは罪の前に全く無力、滅びるしかない人を、神様の恵みによってつみのないものとしてとりあつかってくださるということです。私たちの罪が無くなったのではありません。私たちは罪人なのですが、イエス様を信じてイエス様におすがりするとき、神様は私たちをイエス様の義で被い、罪なきみ子と同じように見てくださると言うのです。この壮大な救いのご計画、神様のご愛と憐れみのご計画を聖書は証ししています。神様は1000年もの間隠されていたこの恵みを、ルターを用いて再び明らかにしてくださいました。真理をしたルターは、何ものをも恐れず、み言葉以外には従わないと、真理を貫き通しました。
私たちは今この神様のご愛に満ちた救いのご計画を知っています。アーメン、ハレルヤと感謝をもってこのみ恵みに与っています。宗教改革記念礼拝今日はでありますが、改めて神様が私たちに与えてくださった救いの道=イエス様、そしてみ言葉に記された真理を隠されたままになさらず私たちに再び明かしてくださったみ恵みを、深く覚えたいと思います。