月報 2023年6月 「神の霊感による聖書」
【聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。】ペテロの第二の手紙 1章20節から21節
「私たち人間の生きる、その人生の主な目的は何か?」という、普遍的な問いに対し、聖書の答は「神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことである」と教えています(ウェストミンスター小教理問答・問1)。その「その目的を果たすには、どうすれば良いか」を教える唯一の書もまた、聖書なのです。今回は、そもそも聖書とはどのような書物か、ということを、御言葉に聞いて参ります。
標記の御言葉は、聖書が「神様が霊感された、神様による書」だと言っています。確かに著者は人間ですが、「人々が聖霊に感じ、神によって語ったもの」と明かしています。新旧約聖書全体が、神様ご自身から、私たちに与えられた神様の言葉であり、恵みであるというのが、聖書自身が明かし、また私たちが信じるところの真実です。
神様の霊感とは、よく「わたしは霊感が強い」とか「霊感が無い」と言う時の霊感とは、全く違う意味です。霊感の語義は「神が吹き出された」という意味です。つまり、聖書の言葉自体が神に霊感された書ということ。神様ご自身が吹き出されたという、神様主体の、神的行為であるということになります。また霊感は、書いた人間の上に働いた、聖霊なる神様の、超自然的感化と言われます。この感化は、書いた人間と、書かれた言葉そのものにも及んでいます。
霊感について、改革派の神学者B.B.ウォーフィールドは次のように説明しています。
「例えば、ルカの福音書、使徒行伝について考えると、まず神はそこに書かれる歴史を準備し給うた。従ってこの歴史的事実はそれ自ら目的を持っている。そしてルカを準備し給うた。その出生、教育、経験などを。そして啓示をうける様にも。それから摂理によって神は、それを書かす働きに従事させられた。しかし、ルカ自身は自ら進んで書こうとする。このような意味で、彼の特異性(個性)、人間性を生かされつつも出来上がったルカ伝、使徒行伝は、ルカが単に聖霊の助けのみで書いたのではなく、神がルカを備え、用い、書かしめ給うたのであるから、それはルカと言う信仰深い人間の言葉ではなくて、神御自身の言葉で、読む人に神が語り給うのである。」
こうして、千数百年に渡って40人以上の記者たちが、時代も場所も背景も隔てながら、互いに示し合わすことなく書き記し、編纂されたのが聖書であります。書いたものは、王や学者や、預言者だけでなく、農夫や、牧畜の民、漁師など多岐にわたります。しかし、その内容は一貫しており、最初から最後まで、契約(=神様と私たちの関係)、神の国、救い主キリスト、という具体的なテーマで貫かれています。
その内容をさらに、まとめれば「信仰と愛」ということになります。ですから、聖書を読むことは、信仰と愛を求めて。信仰と愛をもって読むことが肝要になります。『あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。』(Ⅱテモテ 1章13節)その時、御言葉を通して、聖霊が私たちの内に働いて下さいます。人間の魂に働き、信仰を与え、保ち、成長させ、また癒し、慰め、励まし、確信と力を与えて下さるのです。
永遠の命を与え、私たち自身を実際に変えていく、力を持った神様の言葉。それが聖書です。そして、聖書を富士山のような山にたとえるなら、イエス・キリストこそが山頂です。何処から登ろうと、その道は必ず救い主イエス・キリストへと導いているのです。