人の業・神の業
(1)サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。
(2)信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。
(3)ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。
(4)さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。
(5)ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。
(6)群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。
(7)汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。
(8)それで、この町では人々が、大変なよろこびかたであった。使徒行伝 8章1節から8節
○「(1b)その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」
使徒行伝8章1節の御(み)言葉でございます。今朝も、続いて使徒行伝の御言葉に導かれたいとねがっております。
先週は、キリスト者への迫害による、最初の殉教やステパノについて、彼の弁明を中心に見て参りました。非常に長い、使徒行伝の中でも最も長い説教を、駆け足で見て参りました。本日は、このステパノが語った内容のまとめと、それが引き起こしたこと。どのような結果につながったのかを、聞いてまいりたいと思います。
ステパノは、7人の執事の一人として任命され、按手を受けて、多くの奇跡を行い、力強くイエス・キリストを証して行きました。それによって、ユダヤ教徒から大きな反発を買い、偽の証言者まで立てらえて法廷での尋問を受けました。その告発はステパノが「神殿を打ち壊すもの」また「律法を廃棄する、律法に逆らうもの」という、主なる神様への冒涜の罪でありました。
この告発に対して、ステパノは、民族の父アブラハムから、ヨセフ、モーセ、ダビデからソロモンに至るまで、イスラエルの歴史を語りました。
誤った偽りの証言に対し、ステパノは聖書をもって応えました。それは、告発者も大祭司もステパノらキリスト者も、共に神の言葉と信じる聖書(旧約聖書)をもって、弁明いたしました。
その中で、彼が語ったことは、主は神の民イスラエルに対し、預言者を通して語り、また律法をも授けられましたが、その預言者を迫害し、偶像を礼拝し、律法を曲げ、背いてきたのは誰あろう、イスラエル、ユダヤの民そのものであった、ということ。
さらに、イスラエルは、各地を転々とし、荒野を放浪し、カナンに入りました。その中で、祭壇を立て、幕屋や、ソロモンが立てた神殿において神への礼拝を捧げてきました。しかし、天地の造り主、霊なる神、主は決して、地上の神殿にのみ済まれているわけではない。人が造ったものに縛られるお方ではない。それを先祖たちは理解していた、ということでした。
つまり、ステパノが宣教において語っていたこと。それはイエス様の教えではありますが、それは、神殿や律法を否定しているのではなく、それらを尊ぶからこそ、神殿や律法に対するユダヤ人の誤った理解を、聖書をもって正そうとした、ということであります。
さらに、あなたがたは、先祖たちと同じように、神が遣わされたお方を殺したのだ、と告発したわけであります。
ユダヤの人々は、ステパノによって語られた聖書の言葉を受け入れることが出来ませんでした。目を背け、耳を覆い、石打ちの刑によってステパノの命を奪ったのであります。
ステパノや使徒たちのよる、福音の伝道は、多くの回心者を得ましたが、同時に大きな反発を生み出しました。人の世に、神様の言葉が臨んだ時、世は分裂するのであります。分かれていきます。それに聞くか、あるいは反発するか。み言葉は、世を分けていきます。
ルカによる福音書12章51節(111頁)
「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。」
神の言葉、聖書は、聖霊によって信仰を与え、私たちを救うためのみ言葉です。御子イエス・キリストはその実現のために来て下さいました。永遠の死、滅びより選び分かち、御国へと救い入れるためであります。その意味で、命の言葉、福音は、それを聞くか聞かざるか、世を分けるものとなります。
しかし、この分裂は、本質的なものであると同時に、一時的限定的なものである、という一面を忘れてはならないと教えられます。ステパノの最後の祈り、7章60節
「「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。」
イエス様が十字架に着けられた時に、「父よ彼らをおゆるしください」と言われたのと同じ祈りであります。まことの神様への信仰は、確かに地上に分裂を呼びます。イエス・キリストへの信仰によって、私たちは「聖」とされます。聖とは、神のものとなること。区別され、選ぶ分かたれる、ということです。事実、御国での永遠の命が約束されています。地上の人生においても、信仰によって、価値観、世界の見え方、感じ方、生き方が変えられていきます。
しかし、誰がいつ、どのように信仰を与えられるか、神のみもとに招かれるかは、私たちには知らされていません。ひと時、世の反発を受けたとしても、それは一人一人を見れば、あくまでひと時の事であり、次の瞬間には、回心へと導かれるかも知れません。
ステパノは、石打ちという残酷な刑罰を受けながら、迫害を目の前にしながら、聖霊によって、このことを悟っていました。天にイエス様の姿を見たように、天の主を仰ぐことで、自らを迫害する者のために、主に執り成したのであります。地上の生活と伝道において、このステパノの信仰と愛を覚えたいと思います。
そして、事実、このステパノの願いは、御心にかなっていました。8章の1節の前半、
「(1)サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」 そして、8章の3節。
「(3)ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」
唐突に、サウロが登場いたします。この不自然な記事は、迫害の急先鋒であったサウロが、やがて主に召され、大伝道者として用いられることになる、伏線として、ステパノの祈りと共に、歴史しに顕された、主の御心として記録されております。
さて、それまでの主な迫害者であった、ユダヤの支配層、サドカイ人だけではなく、比較的好意的ですらあった、パリサイ人。死者の復活を信じ、律法による救いを信じていた、民衆の大多数を占める人々による、キリスト者への迫害が始まります。その中でも特に、リベルテンと呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人によって、本格的な激しい迫害を受けることになりました。
その結果、キリスト者はエルサレムを追われることになります。1節後半。
「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」
飛んで、4節
「(4)さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。(5)ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。」
「使徒以外の者はことごとく」とあります。キリスト者を迫害した人々の中心は、ギリシャ語を話すユダヤ人でした。ステパノもまた、同じくギリシャ語を話すクリスチャンでしたから、主な迫害の対象が、エルサレムの外にルーツを持ったキリスト者だったのかも知れません。
迫害の中、使徒達はエルサレムに踏みとどまりましたが、そこで得た多くの信徒たちが、迫害によって、エルサレムから各地に避難していくことになりました。
ステパノの事件は、ステパノ自身の死と、大迫害に繋がり、せっかく増えた信徒が、エルサレムを追われ、各地に散らされることになりました。これは、それだけを見れば、悲惨な結果であり、宣教の失敗、挫折のように思えます。恐らく、当時の人の目にはそのように映ったことでしょう。しかし、教会にとっては、この不都合な迫害をも、主は伝道のためにお用いになられたのであります。
迫害を受けて、人々は「ユダヤとサマリヤの地方に」散らされていきました。しかし、ただ逃げただけではありません。彼らは「御言をのべつたえながら、巡り歩」きました。エルサレムから逃げた理由を問われることもあったでしょう。その経緯を話すだけでも、伝道になり得ます。
これは、私たちに、たとえ迫害にあっても、逃げていても、めぐって来る状況がいかに、自分にとって、いかに不都合に思えても、福音の伝道は出来る、ということを教えられます。私たちは、伝道に相応しい時や、場所、環境を求めてしまいがちですが、それらは私たちが求めるものでは無く、主が備えられるもの。主が定めておられます。
人の目には、この世的には、相応しいと思えない場所や時。こんな騒がしいところで、とか、みすぼらしいところでも、ちょっとタイミング悪いなぁ、とか、いろいろであっても、主が今この時、ここと備えられた時に、私たちをお用いになるのであります。そこで、必要なことは「御言をのべつたえ」ること。聖書のみ言葉を届けること。神様の言葉にこそ力がある。なにより、み言葉に信頼しましょう。
先程、「誰がいつ、どのように信仰を与えられるか」は分かりません、と申し上げましたが、正確には、どのような経緯で、ということです。どのように、という方法は分かっています。み言葉によって、ということであります。
み言葉を届ける方法や、機会など、いろいろ工夫することはよいとは思います。また、交わりの入り口として、様々な関係構築や、その手段はあると思いますが、たとえ、どのような関係を築くことが出来なくても、その人を救い、神との交わり、永遠の命に導く信仰を与えることが、出来るのは、ただ、聖書のみ言葉、そのものだけであります。
5節6節。
「(5)ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。(6)群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。」
ステパノと同じく、執事となったピリポもまた、ギリシャ語を話すクリスチャンでした。彼もエルサレムを追われ、サマリヤに向かいました。そこで、キリストを宣べ伝えています。キリストを伝えること、すなわち聖書の言葉を伝えることです。そして、人々はこれを聞きました。
ローマ10章17(246頁)
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」
と書かれている通りであります。
こうして、キリストの伝道は、エルサレムから「ユダヤ」「サマリヤ」の各地に広がって行きました。使徒行伝のはじめ。1章8節でイエス様が「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」と言われた通り。キリストの証人による、福音伝道は、第二段階へと進んで参りました。
主のみ言葉は、ステパノの殉教と、教会の迫害という、災難・試練を、主がもちいて、これを実現なさったわけであります。
歴史の中で、時の流れの中で、私たち人間はその時々の思いや、判断で活動しております。自分ではどうしようもない環境や、状況に流されることもあります。しかし、それらの全てを超えて、また全てを用いて、主は御心が成るように働いて下さいます。永遠の御計画は、永遠において定められています。定められたご計画とは、私たち、神に逆らう罪人の救いであります。
主なる神様は、人を愛し、ご自身のもとへ帰ってくるように。キリストにあって、命を得るように、世界の全て、歴史の全てを、摂理なさっています。無限永遠不変の主の、私たちへの愛が、この有限な宇宙を保ち、動かされる、ご摂理の原理であります。これを覚えたいと思います。永遠の主、天のキリストへの心の目が開かれることで、この地上での人生、世界というものが見えてまいります。天を思うことで、地を愛することがかないます。天に国籍を置くことは、地上の国籍を放棄することではありません。天にあってこそ、地での務めが果たせます。
ステパノが信じ、天を仰いで祈ったように、私たちの思いをはるかに超えて、働いて下さり、御心をなさる、主の御力。キリストにあって、我らを愛し賜う、主の約束。ご決意。この主に信頼し、お委ねして、地上のひと時を、共の歩んで参りたいと願う次第です。