命へと導く神
15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、
18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。<わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。>そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。申命記 30章15節から20節
○「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」
申命記30章16節のみ言葉でございます。今朝は、この申命記のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。申命記は、先週のレビ記と同様、モーセ五書。トーラーのひとつです。総称して律法と呼ばれる、モーセ五書の最後の書になります。律法の締めくくりとして、出エジプト以降の出来事を整理して、振り返りながら、改めて神の民にあたえられた恵みの律法をおさらいしていきます。その意味で、律法と言いながら、その内容はお説教とらえたほうが読みやすいと思います。特に、旧約聖書のなかでも一番古い律法の中にありながら、イエス・キリストによる救いの実現を宣言する新約聖書と非常に使い近い、親和性の高い書であると言えます。
実際、イエス様が宣教に出られる前、荒野で40日を過ごされました。そこで、サタンによる試練に遭われるのですが、サタンの三つの誘惑に対して、聖書のみ言葉をもって、それを退けられました。そのみ言葉が、全てこの申命記のみ言葉でありました。
また、律法学者が「律法の中でどの戒めがいちばん大切ですか」と問われた時、イエス様は、「 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」
という、申命記6章の5節を引用して、「これがいちばん大切な、第一の戒めである」とお答えになりました。
このように、申命記は詳細な律法が書かれた部分が多いのですが、改めて読み進めると、非常にメッセージ性の強い文書であることが分かってくると思います。
申命記には、律法の部分が多いと申し上げました。実際、出エジプト記で、モーセがシナイ山で与えらえた律法を、ほとんど繰り返して教えられています。この繰り返しにも、やはり理由がございます。申命記1章3節から5節の途中まで(旧244頁)をお読みします。
「3 第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。4 これはモーセがヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホン、およびアシタロテとエデレイとに住んでいたバシャンの王オグを殺した後であった。5 すなわちモーセはヨルダンの向こうのモアブの地で、みずから、この律法の説明に当った、そして言った、」
申命記が記されたのは、エジプトを出て40年目。目の前のヨルダン川を超えれば、約束の地カナンという、モアブ平野に到着して、イスラエルの民が荒野の放浪を終えようとした、その時でした。モーセは、メリバの水事件で、主に召された指導者でありながら、主の栄光を表さなかったため、カナンに入ることは出来ないと告げられていました。モーセは、120歳になっており、カナンを目の前にしながら、自分が民を導いて入ることができない、と知っていました。
約束の地であるカナンは、乳と蜜が流れると言われる、豊かな土地でしたが、そこに住む人々は、罪に満ちており、不信仰と不品行が蔓延する社会でした。そこに神の民イスラエルが入るということは、罪に満ちた人々への、神の裁きの側面もあったのです。
逆に、イスラエルにしても、様々な誘惑の試練が待ち構えていることになります。エジプト
から救い出され、主のわざを見てきた第一世代は既にいなくなっていました。モーセ自身も、召される前に、かつてシナイ山で神様から頂いた律法を、再び語って聞かせ、改めて神と民との契約関係を自覚するよう、促したわけであります。申命記29章13節から15節(旧289頁)。
「13 これは主がさきにあなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである。14 わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。15 きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。」
ここにいない者とも結ぶ契約、と言われています。これから生まれ来る者。他から主を慕ってくるもの。主が永遠の内に救いに定めていられる全ての者。主が招き給う全ての人々との間に発立てられた契約であります。この時点で、契約において求められる内容は、二つの事柄に集約されて、繰り返し述べられています。その第一は、先ほど申し上げました、イエス様が引用された戒め。「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛」 しなさい、ということ。
そして、もう一点は、今日お読みいただきました30章16節。「わたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。」
つまり、主を愛すること。そして主に聞き従い、その教えを守ることであります。そうすれば、「祝福される」という、約束であります。しかし、従わなければ、必ず滅びる。これが契約に定められた条件でありました。ここではまだ、「救われる」ではなく「祝福される」という表現も注目すべき点かもしれません。いずれにしましても、主は、御自身の民との約束の内容を、ここで自ら要約されて、その意味を明かされました。
もう一度、30章15節から18節までをお読みいたします。
「15 『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。』」
ここで、主は私たちに、二つの道をお示しになりました。一つは命と至る幸いの道。そしてもう一つは、死に至る災いの道であります。命と幸いに進むために必要なことが、主を愛し、主に従い、戒めを守ることだと言われました。しかし、私たちが、心をそむけて、聞き従わず、誘惑に陥るなら。必ず滅びる。死と災いの道を進むことになる、と宣言なさいました。これはまことの神、主による真実を告げる言葉であります。
「他の神々を拝み、それに仕える」というのは、単純な偶像礼拝でなくて、主を第一としない
ことです。主である神様に仕えるのではなく、この世の人や、富に仕えること。自分に仕えることも同じです。自分が何に支配されているか、ということが問われているのであります。神様の他に優先して使えるのであれば、それは滅びへの道へ踏み出すことになります。主を愛し、主に仕えなさい。そこに命と幸いが備えられている。これが主の戒めの真実として教えられました。
ここだけを聞くと、脅されているのではありませんが、怖さを覚えざるを得ません。確かに、怖れる、ということも大切ですが、主の教え、主が賜る契約は恵みの契約でした。続く19節をお読みいたします。
「19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。」
「あなたは命を選ばなければならない」と主は仰います。命と死。幸いと災いの、二つの道を示された主は、どっちに行こうが、あなたの勝手です。好きにしなさい、とは仰っていません。「あなたは命を選ばなければならない」と、私たちに命を選ぶように、命じておられるのであります。ただ祝福と呪い、救いと裁きを並べて置かれているのではない、ということを覚えたいと思います。主は、私たちが命に至るように。祝福の道を選ぶように、導いておられるのであります。これは、ずっとそうです。人を創造された時から、主は命へと招いておられました。
エデンの園に、善悪を知る木と、命の木を用意されたのも、もともとは、主に聞き従うことで、人が命を選ぶように、ちゃんと備えておられたのであります。そして人は、そのような主の導きにもかかわらず、主に背いて、すでに滅びへの道を進んでいる最中でした。
憐れみ深い主は、そのような背きの罪により、主が見えず、命の道を見失った私たちを、そのまま放っておくことをなさいませんでした。あらためて、御自身を表して下さり、主への従順による命への道を教えて下さったのであります。
直前の11節で次のように言われました。
「11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。」
つづく14節、
「14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。」
これは、この時には、言葉として。律法が書き記されて、神の民に与えられたことの幸いを教えられた、と受け止めらえたと思います。書かれた言葉は覚えることが出る。だから守れるはずだ、というように。
しかし、すでにイエス様が来て下さった、新約の時代に生きる私たちには、これが聖霊によって、主の教えが私たちの心の内に、魂に刻まれることだ、ということが分かると思います。文字によらず、救い主イエス様が、天から送って下さる、御霊による律法のことです。
それでもなお、主が示された命への道。心をつくし、力をつくして主を愛し、また、聞き従うということの難しさ。むしろ、完全に御心にかなうことの不可能さも思い知る所であります。
当時の人々も、同じだったかもしれませんが、逆に主の戒めを守ろう、という決意から、守ることが出来る、という過信へと進んだのかもしれません。でも、主はここでも、ちゃんと教えて下さっているのです。30章の6節を見て見ましょう。お読みいたします。
「6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。」
主は、私たちの心に割礼を施されます。そして、心をつくして主を愛しさせられる。命を得させて下さる。私たちが主を愛し、命を得ることができるのは、主がそうさせて下さるからだ、という、一方的な主の恵みが、すでにここで宣言されています。信仰も救いも全て、私たちを命へと導こう、という主のご決意と、その表れだということです。その実現が、御子イエス・キリストの贖いとなって、今、私たちにもたらされていのであります。
このように見て参りますと、この申命記。モーセ五書最後の書は、最も古い律法の書でありながら、イエス様が明かされた、新約の恵みに極めて近い、主の恵みの契約が明かされていることが分かってまいります。創造の始めから、一貫して私たちを愛し、命へと導いてこられた、主の御愛を覚え、あらためて感謝したいと思います。