この二つの聖句で、共通して教えられている真理は「信仰の主体は神様である」、ということだと思います。イエス・キリストを神の御子・救い主と信じ、告白することは、私達自身の思い・行いです。私たちそれぞれの考えや感情、また判断、決断であることは事実です。私たちは、自分の自由な意思をもって教会に集い、神様を信じ、礼拝しています。しかし、その自由に主を信じる信仰を与え、喜んでみ言葉に聞いて、従おうとする心を与えて下さっているのは、神様であるということです。それはすなわち、神様を信じる私たちの信仰の主体は、私たちではなく、神様ご自身にあるという、信仰の本質であります。
最初の「ヨハネの福音書」15章16節は、今年の2月、天に召された大前長老が、よく口にされていた御の一つだと記憶しています。ここでは、まさにその神が主体であること。まず先行する神の愛が述べられています。私たちではなく、まず神様が私たちを選んでおられたという真実です。神が永遠のうちに御心に定め、私たちが生まれる前から、既に主が私たちを知っていて下さり、御霊を遣わして下さり、御言葉を通して、私たちにご自身を表わして下さいました。この御霊の照明によって、私たちの目が開かれ、まことの神を知らされ、救い主イエス様が、まことの神であり人であられる、私たちの救い主である、と信じるに至ります。その先に、御国での永遠の命と平安を備えていて下さる、神の絶対的な恩恵があります。
「コリント人への第一の手紙」12章3節では、聖霊によらなければ、だれもイエス様を主と呼ぶことが出来ない、という「全的堕落」の事実。そして、罪に対する、神の聖なる御怒りから私たちを救い給う、キリストへの信仰を告白することが出来るのは、その時まさに、私たちの内に御霊が働かれている事を証ししています。人は自ら、イエス様を主と呼ぶことは出来ない。それは、御霊のお働きによるのであります。
また、「ガラテヤ人への手紙」4章6節では、「アバ、父よ」と、神様を呼び求める特権が与えられている幸いが教えられています。それもまた、父なる神の一人子、唯一、造られずして、父よりお生まれになった御子キリストの霊によって。御子を信じる信仰によって、御子に結びつけられて、私たちは、造り主であり、全知全能の至高のお方である、神様の「子とみなされます」。それ故、この聖なる方にたいして、幼子が親を呼び慕うように、「アバ」と呼ぶことを許され、またその呼び声に、主は耳を傾けてくださり、神の子に必要なものを与え給うのであります。
救いに至る信仰は、その主体が初めから終わりまで、三位一体の主なる神の御業であることの宣言でありあります。このことが、私たちに救いの完全なること。罪深く、間違えること多く、心変わり激しく、自分中心の不確かな信仰ではなく、神が私たちを御手の内に置いていて下さり、信仰を与えて下さっていると言う、救いの確実なことを確信させられるのであります。危うい自分によらない。主の御業であり、真実であられる主のお約束ゆえ、救いの確信と、尽きぬ希望と平安を、与えられているのであります。
かつて大﨑先生が、よく教えて下さいました「先行する神の愛」。何より先に、まず愛なる神がおわすこと。その愛が人の営みの全てに先行して、御子を通し、御霊によって私たちに注がれ続け、終わりまで固く守り、導いて下さいます。私たちはこの愛に決して十分にお応えすることは叶いませんが、その不十分ささえも、主は、御子ゆえに喜んで受け入れて下さいます。困難を伴う地上の生涯において、召されるまで、主に忠実であられた多くの兄姉を思い、彼らを守り通された主を讃えつつ、信頼して、私たちも歩んで参りたいと願うものです。