帰って来なさい
(17) さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
(18) 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
(19) だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。
(20) それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。
(21) このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。
(22) モーセは言った、
『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。(23) 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。
(24) サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。
(25) あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、
『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』
と仰せられた。
(26) 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。使徒行伝 3章17節から26節
○「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」
使徒行伝3章19節のみ言葉でございます。今朝も、引き続いて、使徒行伝のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。
使徒行伝では、地上の教会の誕生と発展の過程。全世界に向けた宣教が描かれています。イエス・キリストへの信仰のみによって、永遠の命に至る、神様との交わりの回復が、全ての国の人々にもたらされるという、救いの宣言であります。福音すなわち、救いの実現と宣言が、歴史の中に明らかにされていく、その過程であります。
先週は、エルサレム神殿で行われた、ペテロの第二説教の前半を見て参りました。ペンテコステの説教に続く、第二弾になります。ペテロの説教、これはお説教ではなくて福音の伝道ということですが、それに先立って、美しの門での癒しの奇跡が行われました。そこから、ペテロの話は、奇跡の業の説明と救い主イエス・キリストの証しへ、と進んでまいります。
この前半で語られたことを振り返ってみましょう。
まず、「癒しの業、奇跡は、主のみわざである」ということ。「奇跡を行った人、また受けた人。そのどちらの力でも、信心・敬虔さでもない。」、ということでした。奇跡の癒しは、イエス・キリストへの信仰へ人々を導くための、ただ、主の救いのみわざでした。
また、その業はナザレ人イエスの名によって行なわれました。イエス様が、全ての罪を赦し、死に至る病から癒やすことが出来る、権威を持たれた、ただ一人のお方。命の君、直訳では「命に導く者」という意味ですが、そのような方だということでした。
それはイエス様が、アブラハム・イサク・ヤコブの神。イスラエルが信じる「あってある」お方。「救いの契約の神が」つかわされた「しもべ」。つまり約束のメシヤである、という事の証でもありました。その証拠に、神はこの方を死人の中から甦らせられた。
その上でペテロは、神が遣わされたメシヤを、死に追いやったのが、あなた方である、と宣言しました。あなたがたが、待ち焦がれていたメシヤを、拒み、十字架に架けてしまった、ということを伝えたのであります。
そこから、本日のみ言葉にすすんでまいります。13章17節から18節。
「(17) さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
(18) 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。」
「さて、兄弟達よ」とペテロは言葉をつづけました。パウロやヤコブの手紙でもそうでしたが、「兄弟たち」と、親しげに呼びかけをする時は、たいてい、大事なことを話す前の注意喚起であったり、相手をなだめる時であったりと、口調が変化することが多かったと思います。
ここでもやはりそうで、ペテロは神殿に詣でていたユダヤ教徒たちに、あなた方が、神様が遣わされた救い主を殺してしまった、ということを指摘していました。聞いていた人たちにとってみれば、もしそれが事実であれば、とんでもない衝撃的なことになります。私たちは、何という恐ろしいことをしてしまったのか、と。
実際、ペンテコステの第一説教でペテロが同しように語った際に、聞いていた人たちは、知らされた事実に対して、おののいてペテロたちに問いかけていました。「兄弟たちよ、私たちはどうしたらよいのでしょうか?」
これに対するペテロの答は「悔い改めなさい」。そして、罪のゆるしを得るために「イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」。というものでした。ペテロの言葉を通して、イエス様を、救い主キリストと受け入れて、メシヤを殺してしまった、と恐れた人々。彼らに対して「悔い改めなさい」という勧めは、まさにぴったりの言葉であったと思います。
さて、ソロモンの回廊での説教で、ペテロは、自分たちをの周りに駆け寄ってきた、群衆に対して、より慎重にというか、丁寧に語りかけて行きます。
「あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。」
遅りいいほど大きな罪を指摘された人々に、あなた達と、指導者たち。市民を扇動してイエス様を陥れた祭司や長老、役人たちもまた、知らずに行った。無知であったのだから、と告げました。そして、
「神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。」
知らないこと。実際は、神の民を自認するのであれば、知らない事自体、罪になるのですが、結局、異邦人であっても、イスラエルの民であっても、同じだということです。イエス様を神の御子、救い主キリストと受け入れないこと。拒むこと。神様を神様としないこと。また神でないもの。自分自身も含め、神のようにあがめること。支配されること。これが、全ての人が罪の支配の下に置かれるあかしでもあります。
それでも、神様は、その救いのご計画の実現に当たって、これらの罪や不信仰までお用いになって、その予言を成就なさいました。そして、神が遣わされた救い主を、十字架にかけるような罪人であっても、なお、主はその罪を赦し給うかお方でした。ペテロは、神のあわれみ深いご計画を人々に証し、救いへの道へと招いていきました。19節。
「(19) だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」
悔い改めて、立ちかえること。それで、罪は拭い去られる、ということであります。ここではバプテスマにも触れていません。事実、救いの条件は、ただ信じることであって、洗礼は救いの条件ではありません。祝福であります。洗礼は信じたことの告白であり、表明です。聖霊によって、魂に刻まれた救いの福音。
イエス・キリストへの信仰と、救い主への従順を、見て、触れて感じることのできる、イエス様ご自身が備えられた、大切な礼典であります。しかし、救いの条件はただ一つ。信仰、信じる事でした。
ここでは、悔い改めて、立ちかえりなさい、と勧めています。父なる神様のもとに帰ってくること。神様は、「帰って来なさい」と招いておられます。帰ってくるのを待っておられるのであります。神様は私たちを、ご自身にかたどってお造りになり、特別に愛して、交わりのうちに置いて下さいました。人間をその初めから、永遠の命へと招いておられました。堕落して、背を向けて離れて行った私たちを。そのままでは、死と永遠の滅びにいたるしかない罪人を、その罪を神様ご自身が拭い去って下さり、帰って来なさい、と呼び掛けておられるのであります。
19節のみ言葉では、「悔い改めて、本心に立ちかえりなさい」と訳されていますが、原文には「本心」という言葉は入っていません。ただ、「悔い改めなさい」「立ちかえりなさい」という、二つの命令形があるだけです。本日の長いみ言葉の中で、命じられていることは「悔い改めること」「立ちかえること」この二つだけになります。
以前にも少し触れましたが、「悔い改め( μετανοεω )」という言葉は、「認識を、変える・反対にする」という意味の言葉です。後悔する、悔いる意味はあまりありません。キリスト教の「かいしん」が、「心を改める」ではなく「心を回す」と表すのは、まさに聖書の教える真実だということになります。「悔い改めは」認識を変える・心の向きを変える、ということでした。まことの神様の方を向く、ということです。それはすなわち、神様の声に振り向くこと。聖書の言葉を、神様の言葉として聞く、ということであります。
そして「立ちかえる( επιστρεφω )」という言葉は、「○○に向かって向きを変える」とか、「反対を向く」という意味になります。悔い改めると、立ちかえるは、言葉の意味的には非常に近い、ほぼ同義語になります。悔い改めはより内面的で、心の向きを変えること。自分中心、この世中心に向いている心を、神様に向けること。立ちかえるは、そうして、実際に自ら神様のもとに帰ろうとする決意。また行動、ということになるでしょうか。
本当に「悔い改める」自分の罪を悔いる、というのは、その後になります。神様に向いて、み言葉を聞いて、神様の愛と正しさを知って、自分の罪と弱さを悟らされて、懺悔し、そのようなものを、血を流して救い給う主に感謝するようにされて行くのであります。
先ほど、「本心」という言葉が、ここには無い、と申し上げました。共同訳では文字通り「立ちかえりなさい」とだけ訳していますし、新改訳では「神にたちかえりなさい」と、あえて「神に」を付け加えています。なぜ、口語訳が「本心」を入れたか。ここと同じように訳した箇所がります。それは、ルカによる福音書15章17節(新約116頁)
「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。」
ここは先日、瀧田教師がお説教して下さいました「放蕩息子」の譬え話です。
ここで「彼は本心に立かえって」とあります。実は、ここでも本心という言葉はありません。「彼自身に」という代名詞と、「行く」とも「来る」とも訳せる言葉の組み合わせです。つまり「彼自身に来る」=「我に返る」という意味になります。原文を見て、ルカ伝と使徒行伝の言葉が全く違うことに少々驚きました。口語訳独特の意訳だと思います。
ただ、ルカ伝の「我に返る」は、ロマ書8章にある「私たちがどう祈ってよいか分からないような時にも、聖霊が、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、とりなして下さる」というみ言葉のように、自分自身では気づかないような、しっかり把握できてないような、本来の望み、願いを、主はくみ取って下さる。また、聖霊が気づかせて下さる、ということだと思います。
ルカ15章の、三つの譬え話は、
「神様はご自分を離れていった罪人をも愛し憐れんで、帰ってきたことを心から喜んで迎え入れてくださる。招いておられる」ということがテーマでした。放蕩息子では、それは父でした。そして、使徒行伝で、ペテロがイスラエルの人々に伝えようとしたことは、まさに「父なる神のみもとに立ちかえりなさい」ということであります。
翻訳者は、両書がどちらもルカによって記された事。その場面での発言の意図を組んで、重ね合わせて意訳したものと思われます。聖霊によって開かれた心をもって、父なる神へと向き直しなさい。永遠の命の源へ帰って来なさい、という招き。これが、始まりの福音伝道でした。そして、立ちかえることが適うのは、イエス・キリストの贖いのみ業と、イエス様を信じる信仰によること。このペテロが語った、福音を、素直に伝えられるように、と願うものです。
聖書は、少し進んで22節から25節。
「(22) モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。(23) 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。
(24) サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。
(25) あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。」
ペテロがこの説教を始めた、最初に「イスラエルの人たちよ」と話し始めました。そして主を「アブラハム・イサク・ヤコブの神、私たちの先祖の神」と表しています。それは、唯一の生けるまことの神、主を信じる、神の民の一人として、主の契約に共に入れて頂いている家族同士としての呼びかけでした。そして、その目的は、共通の神のみ言葉である聖書、旧約聖書の解き明かしにあったことが、最後にあかされています。
イスラエルを奴隷の地から導き出し、律法を付与されたモーセが預言したこと。サムエルを始め預言者が語ったこと。それらが全て、イエス・キリストを指し示しているということです。またそれは、民族の父アブラハムに対して主が約束されたことの成就である、ということでした。
このアブラハム契約の引用からも、イエス・キリストの福音が、全世界を覆うもの。全ての国に及ぶものであることがわかります。イスラエルの選びは、地上に神が支配される国を建て、その末に救い主を遣わされる為でした。しかし、その救いは、全ての国の人々に及ぶことが明かされました。ペテロはさらに「あなた方は契約の子である」と言っています。契約の子というのは、ただ血縁関係を示すものではありません。アブラハムは信仰によって義とされました。イエス様に繋がる系図も、多くの異邦人の女性たちがそこに存在しました。すなわち、契約は信仰によって成立する、適用されるものだということであります。このことは後にパウロの異邦人伝道によって。より一層、明確に打ち出されていきますが、ペテロも同じところに立っていたのであります。
主なる神様のもとに立ち帰りなさい。主が招いて、待っていて下さいます。全ての人の魂に、この招きの言葉が届けられますよう、祈ります。
