変わらない約束
(14) 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
(15) わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。創世記 3章14節から15節
○「(15) わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
創世記3章15節の御言葉であります。本年も、主のお守りのうちに、はや年末を迎えようとしています。一年が過ぎる速さに驚くばかりです。クリスマスまであと3週間になってしまいました。天にいました神の御子イエス・キリストが地上に来て下さったこと。私たちのもとに、それも私たちのために血を流すために来て下さいました。この歴史的な日を記念するクリスマスをひかえ、あらためて、主なる神様が、歴史のはじめより、私たちに与えてくださった約束について。実際に実現した恵みの約束について、み言葉に聞いて参りたいと思います。
本日のみ言葉は、いわゆる、原福音と言われています。永遠からおられた全能の神、主が世界をつくり、生き物を、命を造り、地を整えて、最後にご自身にかたどって人間をお造りなりました。人間・アダムとエバが、神様との交わりのうちに、はなはだ良く造られた世界を管理し、主の御栄光を表すためでした。
その、エデンの園での働き、営みは、アダムたちに委ねられ、厳しい制約はありませんでした。神様が定められたことは、ただ一つだけ。善悪を知る木から、とって食べてはいけない、ということでした。それを「食べたら必ず死ぬ」と主は教えておられました。
その、唯一禁じられた木のそばには「命の木」がありましたが、こちらは禁じられてはいません。にもかかわらず、エバは蛇にだまされ、アダムもエバを諭すことなく、同調して禁じられた木の実を食べてしまいます。主が定められたこと、教えてくださったことに背いてしまったわけであります。
さらに、アダムとエバの二人は、主の言葉に背いたことを、主にとがめられた時、悔い改めることなく、アダムはエバに、エバは蛇に責任を転嫁して、言い訳をしてしまいました。そこで、主が蛇に向かって語りかけられたのが、本日のみ言葉であります。14節。
「(14) 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。」
人を主に背かせた蛇に対し「お前は・・最ものろわれる」という言葉で始まっています。エバに対しても、子供を産む苦しみが与えられたこと。夫に虐げられる事。また、アダムに対しては生活の苦労が尽きないこと。努力が十分に報われないこと。やがれ、死んで塵に返ることが宣言されてしまいます。これらの事から、この主の言葉は「神の呪い」と受け止められることもありました。
しかし、今や私たちはこれを「原福音」と、そう呼んでおります。福音とは、神の御子、イエス・キリストを信じて救われるということ。イエス様を救い主と信じることで、天国での永遠の命と、栄光と喜びに満ちた主との永遠の交わりが約束されている、その事実であります。ということは、本日の創世記のみ言葉。神に背いた蛇と人への報いの宣言の中に、すでにキリストを信じる救いの約束が含まれていた、ということであります。
「(15) わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
主なる神様は、蛇、すなわち人を神様から遠ざけよう、背を向けさせようとする存在。すなわちサタンと、女の間にうらみを置かれました。うらみというのは「敵意」であり、背を向けるということです。神様の言葉に従わず、蛇の言葉を信用したということは、人間は自ら、神様に背を向けて、サタンの方を向いたということになります。たった一つ禁止されたことを守れなかった。それは死に向かうことが決定した瞬間でした。人間はサタンと死の支配の下を歩むことになってしまいました。
しかし、主は、背いて堕落した人間を、ただ裁かれただけではありません。人間が、サタンの方を向いて、主との間に置いてしまった敵意、不信仰を、人間とサタンとの間に置き直して下さったのであります。背を向けた罪人が、サタンから離れ主に立ち返ることができるよう、ちゃんと保険を下さいました。
この関係を見ていると、前に瀧田先生が説教して下さった、ルカ福音書の放蕩息子のたとえ話が思い起こされます。勝手に出て行った息子は、その先で当然苦労しますが、父親はちゃんと迎える用意をしていました。一文無しになった息子に返りを、心から喜んで祝っていました。父が財産を分け与えて送り出したように、原福音でも、主は福音の約束をそえて、アダムとエバを送り出しています。サタンとの間に敵意を置き、さらに「女のすえが、サタンの頭を砕く」という、み言葉。神はみ言葉で世界をお造りになりました。神の言葉はそのまま必ずなる。確実な保証、約束になるわけです。
約束された「女のすえ」。女のすえですから、それは人間として生まれる存在であります。やがて生まれ来る。「すえ」が単数で語られていることは有名です。ひとりの末、救い主が来られて、サタンの頭を砕き、完全に勝利するという約束であります。サタンへの勝利は、人間を主から遠ざけよう、切り離そう、という力が無くなり、それによって神の御許へ帰ることが適うのであります。神の御許にかえるということは、禁じられた木の実を食べることによって定められた、死から解放されること。さらに、もしアダムたちが主に背くことなく、エデンに置かれていたなら。そこには、食べることが許されていたもう一本の木、命の木がありました。アダムが本来得たであろう命が、一人の末によってもたらされる、そのような約束であります。
これが、旧約聖書の第一書。創世記の初めに記された、福音。キリストによる救いの恵みの契約ということになります。
実は、少し前に神学館で学んでおられる兄弟が、教会で、旧約聖書のお説教を聞いたことがない、というようなことを仰っていました。引用で使われることはあっても、直接旧約からの説教は、ほぼ聞いたことがないような気がする、ということでした。私は「それも極端だなぁ」、と
少し驚いたのですが、聞いてみると、教派・教団によってはそういう傾向があるそうです。ちゃんとイエス・キリストを信じ、聖書を神様の言葉と認めている、福音的な教会でも、旧約聖書については、一段低く評価するという、そういう立場もあるそうです。
私たちは「新旧訳両聖書は神の言葉であり、信仰と生活の唯一の規準である」と、最初から聞いておりますから、そのように感じるのですが、旧約聖書をあまり扱わない、というところは多数派ではありませんが、一定数あるとのことです。
確かに、イエス・キリストの前か後かというのは、それほど大きな差というか、区切りがあるkとは事実です。ただ、それはイエス様によって旧約預言が成就した、明らかになった。イエス様が正しく解き明かされた、という意味で、解き明かされた以上、旧約もまた神の福音の言葉に他ならないわけであります。なにより、イエス様ご自身が、旧約聖書を「神の言葉」とされています。「天地が消え去るまで、律法(トーラー)の一点一画も消え去ることはない」と仰いました。
たとえば、クリスチャンでなくても、聖書の知識があれば、「旧約は古い契約で、新約は新しい契約でしょう」という風に言われます。それでは、新しい契約が、信仰による救いの約束だとすると、この契約はどこから始まっているか、と考えますと、この創世記から始まっていることになります。旧約聖書の始まり、創世記の原福音において、神様はすでに新しい契約を交わしてくださっています。主が最初から約束されていたことが実現して、ただ、当初は、明確ではなかった。ベールが掛かっているように、暗号のように記されていましたが、約束されていたことは明らかでした。イエス・キリストが来て下さることで、約束が成就したことで、約束の事実、内容が、全て明かにされた、ということであります。
新しい救いの契約が、旧約聖書のはじめから始まっていることを見て参りましたが、古い契約とはどこか、と申しますと、エデンの二本の木のところです。創世記2章16節から17節。
「主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」
主のみ言葉に背けば死、従えば命が約束されました。人間の完全な従順、その行いが命の条件でしたから、これを業の契約とも呼ばれています。この契約はアダムが不履行でしたので、はたしていたら得ることができた利益、恵みを、人類は失ってしまったわけです。結局、業による救い、律法の行いによっては救われないと言われたのは、すでに背いて、堕落して、主との交わりから離れてしまったが故に、決して完全な従順を果たせなくなってしまっている。御心を完全に行うことはできない。そのような神様に御前での罪の状態に、全ての人があるということです。
そこで、罪ある人間のかわりに、人間の代表として、御心に完全な従順を果たすことができる存在が必要になりました。しかし、本日のみ言葉に書かれているとおり。実は、人間がエデンから追放される前に、すでに備えられていたのであります。
旧約聖書の始まりから、主は救い主、サタンの頭を砕く方を備えて下さっていました。ただ、それは永遠のご存在である神の、深い御旨に基づくご計画でありましたから、歴史上に生きる、
有限な人間の目には、少しずつ、徐々に明らかにされていきました。創世記の少し先を見て参りたいと思います。創世記12章1節から3節(旧約13頁)
「(1) 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(2) わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。(3) あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。」
アダムとエバがエデンを出てから、人類は地に広がって行きました。案の定、罪も拡大していき、人の心があまりにも悪いため、主は心を痛め、ノアの洪水を起こされます。その後、人類はノアの家族から増え広がっていきますが、罪もまた地に満ちていきました。しかし、主はノアに「もう滅ぼさない」と約束してくださっていました。洪水でこらしめて、ちょっとましになったから、とかではなく、人間は悪いから。「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」という、驚くべき理由で、憐れみを示して下さいました。滅ぼさない、というその契約のしるしが虹です。
そして、ノアの先にアブラハムを選び、信仰を与え、偶像に満ちた地から導き出されました。そこでアブラハムに臨んだ主のお約束がこのみ言葉でございます。3章の原福音では「女のすえ」でしたから、人間、ということしか分かりません。ここでは、ぐっと絞られてきました。アブラハムが「祝福のもとい」となる。「地のすべてのやから」とはあらゆる民族ということ。すべての国の民が「アブラハムによって祝福される」と、主が約束されました。サタンの頭を砕く方は、アブラハムの子孫として遣わされる、ということが明らかにされました。
アダムとエバに与えられた原福音は、全人類に対する福音でした。人類は二人きりでしたから。この、アブラハムに対する契約もまた、すべての国民にたいする祝福の約束でしたが、その道筋が少し明確になってきました。アブラハムの子孫にぐっと狭められています。このサタンの頭を砕く救い主の系図が、明らかに浮き上がるほど、その対象が「地のすべてのやから」であることに、人々の目が向かなくなっていったのも事実であります。
アダムとエバから、アブラハムまで来ましたので、もう少し先を見ていきたいと思います。
申命記18章15節(旧約273頁)。
「(15) あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。
これは、モーセがイスラエル民をエジプトから連れ出して、荒野の放浪が終わろうとしていた時。カナンの地を目前にしたモアブ平野で、民に語った預言でございます。
この時点で、主が原福音に示されていた女のすえ、救い主が、どのような方であるか、が示されてきました。それは「わたしのような預言者」である。その方に聞き従いなさいと。全能の父なる神様、ご自身の民を奴隷の地から救い出し、荒野を守り導き通された主が、御心を表すために召された、預言者モーセのように、御心を示し、主の言葉を取り継ぐ、預言者である女のすえ
を起こされる。この方に聞き従いなさい。主がモーセに示された、救い主イエス・キリストの御姿でありました。
主なる神様は、人類の歴史のはじめから、私たちのために、主のもとに帰る手段を備えて下さっていました。それは、サタンの頭を砕き、アダムが果たせなかった従順を果たし、御心を解き明かして下さる、救い主であります。
私たちは、イエス・キリストを通して、主が初めより、一貫して変わることなく、私たち罪人を愛し給うたお方であること。救いの恵みの約束を、果たして下さった幸いを覚え、主を讃美致しましょう。