あなたがたは私の宝
1 イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。
2 すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。
3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
7 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、
8 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。出エジプト記 19章1節から8節
○「5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」
出エジプト記19章5節から6節のみ言葉でございます。今朝はこのみ言葉に導かれ、励まされたいと願っております。
司会者にお読みいただきましたのは、出エジプト記19章の前半になります。出エジプト記自体は、全部で40章からなります。これを、前後半に分けるなら、この19章からが後半が始まります。1章から18章では、イスラエルの民のエジプトからの脱出について。奴隷の地からの解放と救いの経緯が描かれていました。主のご計画と予言の成就。それは、創世記15章で、主がアブラハムに告げておられた預言でした。400年間、他国で仕えることになり、主がその国を裁かれ、救い出される、という内容でした。これが成就したわけです。約束を果たされる主の、万能の御力と奇しい御業の記録になります。
そして、19章以降。今度は、救いだされた民、イスラエルが主の民とされ、やがて神の国として地上に立てられるための、備え。下準備というか、基礎と土台が据えられていきます。その過程が描かれていく場面になります。この土台が、恵みの律法でした。20章以降は、シナイ山での律法授与と、律法の内容が記録されていきます。この土台のさらに下。基礎部分が、主がイスラエルとの間に立てられた契約ということになります。
ただ、ここでの中心的なテーマ。おもに何について書かれているかは、この後見て参りますが、ここの根底に流れているのは、「まこと神様との交わりに生きる」ということ。それがずっと一貫しているところだと、個人的には感じています。それは、主が選ばれ、救いだされた民の生き方がどのようになるか。どうすべきか、という教えでもあると思います。
20章以降、主に書かれているのは律法ですが、内容的には大きくまとめると「契約」と「幕屋」についての記事が、多くを占めていると思います。先ほど「神様との交わりに生きる」と申し上げましたが、そのために必要なこと、というわけであります。
まず、主の民となり、主が彼らの神となられるために、イスラエルの民との間に契約を立てられるわけです。この契約は、ノア契約やアブラハム契約との大きな違いは、個人や族長に対してではなく、民全体との契約であるというところが第一点。もう一つは、明確に文字によって記された律法と言う形をもって与えられたところにあります。
その律法で定められた「幕屋」もまた、主との交わりのために備えられたものであり、交わりの回復には聖別ということと、贖いが必要であることが、明らかにされて行きます。神様との交わりは、堕落以降、自分では、主に立ち帰ることが出来なくなっている人間にとって、「神様によって赦されて回復される必要がある」ことが教えられるわけです。
それでは、本日のみ言葉に聞いてまいります。19章の1~2節。
「1 イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。2 すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。」
エジプトを脱出したイスラエルは、シナイ山に到着します。エジプトから見て、約束の地、カナンとは逆方向になるわけですが、そこで、主は彼らをご自身の民とするために契約を立て、律法をあたえられます。これはエジプトを脱出して三月目。原語の解釈や、ユダや伝承から、最近では三月目の新月、と翻訳されています。1月の14日の夜にエジプトを出て、45日目あたります。3日目に水がないと騒ぎ、1か月目に肉鍋とパンが恋しいとつぶやいた民でしたが、主によって不足を与えられ、またアマレク人との戦いを経て、45日目でシナイ山の麓に到着したところです。この後、シナイ山で主がその指で、二枚の岩に記された律法が与えられます。それが、ユダヤの大きな祭の一つ、7週の祭と呼ばれる祭りになります。律法授与記念の祭りで、これが新約ではペンテコステになりました。岩に記された律法が、新約ではイエス様が遣わされる聖霊によって、魂に刻まれることになるというわけです。
続いて、3節から4節をお読みします。
「3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。」
3節で、主はまず、モーセを「呼ばれ」ました。それまで、多くは主が召したものに言葉を掛けられたり、み使いが遣わされたり、夢や幻を通して語りかけられました。ここでは、モーセを呼ばれました。つまり、モーセは主の呼びかけ、召しにお応えする・・という、そのような関係が示されています。
これは、私たちも全く同じです。神様のもとにたどり着くには、神様の招きが必ず必要ですから、こうして礼拝に与っているということは、まさに主なる神が、私たちを招いて下さっている証拠なのです。
ヨハネ福音書6章44節(新約146頁)で、イエス様はこのように仰っています。
「わたしを遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、だれもわたしに来ることは出来ない。」
直前の6章37節は次のように仰います。
「父がわたしに与えて下さる者は、皆わたしに来る。わたしに来る者を決して拒みはしない。」
みな、必ず来る。主の招きは完全な効力を持っているということです。更に、確かに来ますけれども、それは強制的に、無理やりではないです。私たちは、自分の意に反して教会に来ている
わけではなく、自分で判断して、自分の喜びとして集い、礼拝を捧げているわけです。ここに主の招き、ご計画の確実なこと(予定です)と、私たち一人一人の自由が、全く矛盾なく、同時に存在していることが明らかにされています。
主はモーセを呼び、話されました。それはモーセがイスラエルの民に、主の言葉として、伝えるべきことがらでした。その最初は、4節。主が救いの主であること。民をエジプトからご自身のもとまで、来させるために、全能の御力を顕して来られたこと。それを民が目にしたことの確認でした。
主はモーセを召されました。民全員。主の民をご自身の下に来させるためでした。民を奴隷から救い出して、ご自身の下に帰って来させるために、主は様々な、超自然的な、特別なみ業を示されました。それはやがて、私たちを含め、すべての国の人々からなる、神の民を、御許すなわち天国での、永遠の命に招き入れるために、さらに大きなみ業。ご自身の御子を遣わし、生贄とし、甦らせるという、本当に特別なみわざを、なされるかということを、表わしているのであります。救いは主の特別な恩恵、そのみ業であって、私たちはそれに与っている幸いを覚えたいと思います。
続いて5節から6節
「5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。」
5節で、その救いの主の「声に聞き従うこと」を求めておられます。主に聞くことと従うこと。これが、主がその民に求められる第一。すなわち信仰となります。信じて従うことです。
そのために、「私の契約を」というように、契約を立てられるわけであります。主の御心、求めておられる事が分かるように、律法が与えられるわけです。
そして、その契約によって、御許に召された主の民を、主は「わたしの宝」と言われました。造り主であり、全能の神、主が、私たちを「宝だ」と思っていて下さると言う、まことに大きな光栄。幸いを覚えたいと思います。
私たちが、全地の所有者、主権者なる神様の宝であるということ。キリストの教会の全員を、主は大切な宝として扱って下さる。教会の交わりにおいても、兄弟姉妹の一人一人が、主の宝であると知ることから、主にある交わりが生れてまいります。「主にある」幸い。それが、御子イエス・キリストに繋がっていることで与えられる恵みであります。地上でも昔から「子は宝」と言います。事実、神の一人子、イエス様にあって、私たちもまた神の子とされる。主の宝として下さっているのであります。
6節では、「祭司の国」となる、言われました。ここには原語に「王」という単語が入っています。つまり「祭司の王国」ということです。いわゆる神政国家、と言えばよいでしょうか。神が治められる国。その完成形が、御国。天国ということですが、その予型として、また御国をもたらす方を、迎える飼い葉桶として、この地上に、神の民の国が建てられることになったのであります。
祭司の王国というと、祭司はとりなすもの。王は治める者。まことの王、主が治められる、祭司の国、と言う意味あいでしょうか。主は民の神となり、また王となられるわけです。そこに選ばれ、入れられた民もまた祭司である、ということになります。この後、律法において祭司の選出、任職などが規定されていきます。祭司の任職は、聖別と生贄と油注ぎによって、行われます。儀式を執り行い、神と民との取り次ぎ手、執り成し役となります。神の交わりを保つ務めを与えられています。イスラエル全体が、世界を神様にとりなす祭司の国とされたわけです。
今では、万人祭司と言われるように、世界のクリスチャンは、同じ役目に召されていることになります。民全体が祭司となる。神が治められる王国を、地上の歴史上に立てる。それは、やがて来られる最終の救い主、イエス様の受け皿となるためでした。これが、国家として、主が治められる国として成り立つために、国民がみ心を共有できるように、契約による恵みの律法が備えられました。
さらに、その契約の民を、主は「わたしの宝となる」と宣言して下さいました。その言葉に民が応えます。7節から8節。
「7 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、8 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。」モーセは民の言葉を主に告げた。」
民はみな答えた、とありますように、長老たちを通して、モーセに告げられた主の言葉伝えられると、民はみな残らず、応えたわけであります。主が自分たちを、宝として下さる、その恩恵を告げられた民は、主に応えていきます。主の恵みの契約への招きに、一人残らず、契約に与ることを望み、決心いたしました。
ただ、イスラエルは、彼等に示された主が求められること、主に従うことの困難さを、まだ悟ることが出来ていませんでした。主が命じられた律法は、実際的に、地上の国における秩序維持、罪の抑制をもたらしましたが、完全に守り、従うことができない、人をその罪の認識と、罪を贖われる方。律法を成就される、救い主へとその目を導くものであったということです。
私たちには、この律法を成就し、罪を贖って下さった方が与えられました。救い主が約束された恩寵と、招きは確実で、私たちを必ず御国へと招き入れて下さいます。この主に信頼して、より一層主を喜ぶ、幸いな地上の生活へと導かれますよう、祈ります。