主の偉大な御業
1)主をほめたたえよ。
わたしは正しい者のつどい、および公会で、
心をつくして主に感謝する。
2)主のみわざは偉大である。
すべてそのみわざを喜ぶ者によって尋ね窮められる。
3)そのみわざは栄光と威厳とに満ち、
その義はとこしえに、うせることがない。
4)主はそのくすしきみわざを記念させられた。
主は恵みふかく、あわれみに満ちていられる。
5)主はおのれを恐れる者に食物を与え、
その契約をとこしえに心にとめられる。
6)主はもろもろの国民の所領をその民に与えて、
みわざの力をこれにあらわされた。
7)そのみ手のわざは真実かつ公正であり、
すべてのさとしは確かである。
8)これらは世々かぎりなく堅く立ち、
真実と正直とをもってなされた。
9)主はその民にあがないを施し、
その契約をとこしえに立てられた。
そのみ名は聖にして、おそれおおい。
10)主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。詩編 111篇 1節から10節
○「Ph主はその民にあがないを施し、Tsその契約をとこしえに立てられた。Qそのみ名は聖にして、おそれおおい。」
詩篇111篇、9節のみ言葉でございます。今朝は、この詩篇のみ言葉をごいっしょに味わい、導かれたいと願っています。詩篇は讃美歌集で、神様のみ言葉そのものが教える、讃美ということになります。ですから、そこに讃美の本質が教えられていると言えます。歌ですけれども、その中身は、非常に整理された、教理的な教え。讃美する者をイエス・キリストへと導く、聖書全体をまとめのような内容になっていると言えます。
神様を讃美することは、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶという、人のおもな目的とされることの実際の表れです。永遠は天国に行ってからになりますが、そこでは永遠の喜びに満たされて、神を讃美するわけです。地上で行われる讃美は、その御国の栄光と幸いを、私たち自身が先取りすることでもあり、同時に多くの人々にそれを表わす務めもある、ということであります。
讃美自体が、すでに神様との交わりに入れてもらっていることであって、信仰による、神様との交わりが無ければ讃美もありません。罪によって絶たれていたこの交わりが、イエス・キリストが十字架にかかり、そして復活、昇天されて、天から聖霊を遣わして下さることで、回復して、今こうして共に主を讃美する礼拝に与っているわけであります。
さて、詩篇111篇は、107篇から始まる、第5巻に入っています。1~41篇の第1巻は、個人の、生活、人生における讃美。42~72篇の第2巻は共同体。教会で、主の民として家族における讃美。第3巻は89編までで、礼拝における讃美。90篇から106篇が第4巻で、出エジプトとダビデによる讃美で、その中心は、主の王権の讃美になります。
そして、107篇から150編が第5巻になっていまして、ここでは、讃美とは何か、ということが歌われています。第5巻はさらに、細かく五つの小歌集に分かれています。107篇から118篇がその第1歌集で、本日の111篇と、来週の112篇はここに含まれています。第1歌集のテーマは、讃美は感謝であるということ。主なる神様への感謝から讃美が生れて来る。これが歌われています。
この二つの詩篇は形の上で特徴があります。どちらもいわゆる、あいうえお作文の形で書かれていると言う点です。口語訳聖書も、ヘブル語にあわせて改行されていますが、各行の最初の
一文字目が、ヘブル語のアルファベット順に並んでいます。ヘブル語のアルファベットは、22文字ありますので、「主をほめたたえよ」という歌い出しの一行目これは「ハレルー・ヤァ」です。このハレルヤを除いて、後ろの22行の文頭が、アルファベット順に並んでいます。
詩篇の146篇以降で、ハレルヤの大合唱になるハレルヤ詩篇が並んでいますが、111篇から第一歌集が終わる118篇も、ハレルヤで始まったり終わっているものが多いので、同じくハレルヤ詩篇とも呼ばれています。ですから111篇はハレルヤ詩篇の
それでは、111篇のみ言葉に聞いて参りましょう。
最初に、内容の前に、形式について少しお話しておきます。先程、この詩篇は「あいうえお作文」と申し上げましたが、それが崩れている箇所が2カ所あります。それが、1節と6節ですが、ヘブル語原文では順番どおりですが、口語訳では各節の1行目と2行目が入れ替わった形になっています。前後半の切れ目だとしても、5節と6節は内容的には前後と繋がっていますので、あまり気にしなくても良いように思います。
形から読み取れる最も大きな違いは、やはり9節と10節。この2節だけが、3行。つまりアルファベットの3文字が割り当てられています。ここに、大きな山があるようです。順に見て参りましょう。まず1節から2節。
「1:He主をほめたたえよ。 A わたしは正しい者のつどい、および公会で、B 心をつくして主に感謝する。
2: G主のみわざは偉大である。Dすべてそのみわざを喜ぶ者によって尋ね窮められる。」
<それを喜ぶ人に求められる>
まず、ハレルヤ。讃美への招きから始まります。その讃美は感謝をささげることです。それも、私は、心の全てで感謝する。と歌います。その感謝の讃美は、正しい者。これは心のまっすぐな誠実な人。そのような人の集まり。集会で感謝を捧げる。会衆の前で。感謝の讃美は、共に集って、心の全部を注ぎだすように、讃美しましょう、と歌い出します。
讃美は感謝だ。そして、その感謝は、主の偉大なみわざによって、それを知ること、また経験から生み出されてまいります。その偉大なみわざは、それを喜ぶ人が、たずねきわめる。つまり追い求めていた、探しているものであります。人々が求めた神のみわざが、行われた、明らかにされました。3節から4節をお読みします。
「3:H そのみわざは栄光と威厳とに満ち、 W:その義はとこしえに、うせることがない。」
<立っている> (とこしえ=アド)」
「4:Z 主はそのくすしきみわざを記念させられた。 Ht:主は恵みふかく、あわれみに満ちていられる。」
この2節は対句になっていて、最初にみわざについて。そしてその意味、主の
主の偉大なみわざは、栄光と威厳に満ちていて、義はとこしえに失せることがない。これは直訳すると「永遠に立っている」と言う言葉です。主の義は、永遠です。薄らいぐことも、欠けることもなく、無い時はありません。永遠に変わることの無い、正しさ、というものが主にあるというのです。
そのうえで、主はその奇しいみわざ、不思議な業を記念させられた。人々の記憶に留めさせられました。実際に行われて、記念させて、心に刻まれたわけです。この栄光に満ちたみわざは、それに与った者みなが記念し、記憶しておるものです。
創世記以降、聖書を読み進めますと、主の言葉が臨んだり、みわざが表されたところは、祭壇が築かれました。また、典型的な救いのみわざが出エジプトで行われた時は、それを記念する祭が定められました。イエス様もまた、十字架の御業を記念して、これを行うように、と聖餐式をお命じになりました。忘れやすい、弱い者が、主が神となって下さって、常に共にて下さることを心に刻むことができるように、礼典を通して、御霊によって、そのみわざ。恵みとあわれみに満ちた主のみわざを、私たちの心に刻み込んでくださいます。私たちが記念して、というより、主が、させて下さるのであります。
そして、今度はその主のみわざの、恵みと憐れみが説明されていきます。5節6節。
「5:Te:主はおのれを恐れる者に食物を与え、 Yその契約をとこしえに心にとめられる。(ヨーラーム)
6:K主はもろもろの国民の所領をその民に与えて、 Lみわざの力をこれにあらわされた。」
この2節も対句になっています。具体的に表されたみわざと、その説明になります。恵み深くあわれみに満ちた主は、日曜の糧、食べ物を与えて下さいます。そして、土地。生きてゆく手段と場所も与えて下さいました。これらは、主の民、イスラエルの上に表された歴史でした。
この恵みは、その契約。主のお約束によって与えられました。真実なる主はその約束を、決して忘れることなく、確実に果たし給う神であります。全てを超えて、超自然的に働かれる、天地の主権者であられることを証明するわざを表されました。
「契約をとこしえに」主の契約は」私たちの理解を超えて、永遠に堅く立てられます。ここで「とこしえに」と書かれているように、この111篇では「とこしえ」と言う言葉が、5カ所あります。
この111篇では「とこしえ」と言う言葉が4回出てきます。3節、5節、9節と10節。そして、もう一ヶ所は8節の「世々限りなく」というところになります。
~~続く~~