愛はどこにあるか
7節)愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
8節)愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
9節)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10節)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
11節)愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
12節)神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
13節)神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
14節)わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
15節)もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。ヨハネの第一の手紙 4章 7節から15節
○「9節)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10節)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
ヨハネの第一の手紙4章9節、10節のみ言葉でございます。この2節は、いわゆる新約の福音。イエス・キリストが来て下さって、実現され、明らかにされた、救いの福音そのものと言われるみ言葉であります。今朝は、このヨハネの第一のみ言葉に導かれたいと思います。
ヨハネの第一の手紙は、公同書簡に含まれています。書簡の中で、ヘブル人への手紙と、このヨハネの第一の手紙だけは、差出人が記されていません。第二、第三ヨハネでは、「長老の私から」と、一応自己紹介はされていますが、第一は、一切ありません。ただし、ヘブル人への手紙は、本当に著者が不明ですが、ヨハネの手紙は、イエス様の使徒・ヨハネであることが、ほぼ間違いないと言われています。
それは、この手紙自体から、内容や使われる言葉が、ヨハネ福音書と非常に密接な関係にあることが分かりますし、また、ヨハネの直系の孫弟子にあたる、有名な教父、エレナイウスらの証言にもあることから、総合的に、使徒ヨハネによる手紙であると受け止めて良いと思います。
ヨハネは、使徒たちの中でも一番若い使徒でした。イエス様が埋葬されたお墓から消えた、という報告を聞いて、ペテロと一緒に飛び出して、一番初めにお墓にたどり着いた、イエス様が愛された弟子、というのがヨハネと言われています。実際、ヨハネは若く、多くの使徒たちが殉教したり、召されていく中で一番長生きすることになります。そのヨハネがこの手紙を書いたのが、紀元90年代前半、1世紀の末頃と言われています。この頃になると、先ほど申し上げたように、他の使徒達は残っておらず、イエス様を直接しる弟子たちも、非常に少なくなっていました。ローマによる何度かの迫害があった中、使徒がいなくなっていく状況は初代教会にとって、大きな不安であり、実際そのとおり、多く煮偽教師や異端、世俗主義が入り込んで、混乱を向かえつつありました。
そのような時代背景の中で、最後の使徒、ヨハネが筆を執ったのがこの手紙であります。手紙の書き出しを見て見ましょう。1章の1節から3章前半(新約378頁)。
「(1)初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―(2)このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―(3)すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。」
そして5節前半。
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。」
最初に申し上げましたように、差出人の自己紹介はありませんが、この手紙を書いた人が、明らかに、イエス様と交わりがあり、直接教えを受けた人物であることが分かります。2章では、書き送った教会の信徒たちに何度も「私の子たち」と語りかけています。
わが子とも呼べる信徒たちに、使徒がいなくなっていく不安と迫害の中で、異端に混乱させられている、教会員に対して、これを励まし、確かな福音信仰に立つことができるように、イエス様の証し人で
ある、最後の使徒ヨハネが、真の福音とは何か。イエス・キリストはどなたかということを、教えているのがこの手紙であります。まさに、福音の真実が凝縮された手紙と言えると思います。本日のみ言葉に聞いて参りましょう。4章の7節から8節。
「7節)愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。8節)愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
「神は愛である」。文語訳では「神は愛なればなり」ですね。教会のガラス扉にも、そのように貼ってあります。聖書全体の中でも、ある意味最も知られているみ言葉かも知れません。キリスト教の神髄は、まさにこの点にあると言って差し支えないとおもいます。まことの神様がおられて、その神様は愛なる神様である、ということであります。「神は愛である」という原文「ホ セオス アガペイ エスティン」では、神、セオスに冠詞がついていて愛にはついていません。神と愛が並行ではなくて、完全に神様が主役です。神様の属性、神様が持たれる性質が「愛」だということ。「愛」は神様において存在するものです。人間の感情や思いではなく、神様のご本質。それが愛であります。
神さまが愛であるということは、どういうことかと言いますと、それは私たちの人生が間ということでもあります。神様の愛は、私たちの命を慈しまれる愛です。神様に逆らう罪のもと、地上の命に終わって、永遠の滅びにいたるままのゆくままにされず、永遠の喜びと栄光へと、導いて下さるご計画、御業そのものであります。従って、私たちが、生きているということは、まさに神様の愛の内に生きている、ということ。生、命そのものに絶対的な意味と価値があるということです。
そして、その価値は私たち自身の、相対的な曖昧な価値ではなく、神様が愛していられるという、絶対的な客観的な価値であります。この価値は、人の知恵からも、どれだけ科学が発展しても、それを見出すことが出来ない価値であります。
じつは、この7節から10節は、少し詩篇のような形に似たところがあります。繰り返しや、対照的な表現によって書かれていて、読む者、聞く者に、強く訴えかけるギリシャ語になっています。それだけ、使徒ヨハネが強調したかった、ということでしょう。新改訳2017では、この4節が、一段下がって、節の一文ごとに改行して印刷されています。詩篇や預言書の韻文の部分と同じような形です。
7節8節は一体で、出だしは「アガペイトイ」「アガポウメン」。愛する者たちよ、愛し合おう。というよ非常にインパクトのある文書に変わっています。そして、わずか2節の間に「アガペー」。「愛」という言葉が6回使われていきます。2節を、なるべく原文に近い印象で直訳しますと、
「愛する者たち。愛し合おう。お互いに。なぜなら、愛は神から。すべて愛する者は、神から生まれていて、神を知ってる。愛さない者は神を知ることない。なぜなら、神は愛だから」
まるで、問答のような、今で言うとラップのような。歌いあげるように教えられています。神こそが愛だ、ということです。続く、9節から10節では、さらにその愛とは何か、が宣言されていきます。
9節10節
「(9)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
(10)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
この2節も、非常に大きな聖句です。ただ、日本語ではわかりづらいですが、明らかに対句になっています。9節の始まりと、10節の始まりが、全く同じ構文で書かれているからです。
9節が「エン トゥートウ エファネロゥセィ ヘィ アガペィ」
10節は「エン トゥートゥ エスティン ヘィ アガペィ」
違いは単語一つ。「明かされた・表された」の「エファネロゥセィ」と、「ある」という「エスティン」だけです。7節8節と同じように直訳すると、
9節は「この中に 明かされた 愛が」。10節は「この中に ある 愛が」となっています。歌詞のサビの部分の1番と2番のように繰り返して書かれています。
さらに、わずかな単語の違いの中に、時制の違いもあって、ちゃんと教理的なことを教えています。9節の、愛が「明かされた、表された」は過去形。すでに起きて、確定したことを意味します。10節の「ある」は、現在形。既に、明らかにされた神の愛は、今もここにある、ということになります。
神様が愛の神様であること。その愛はどこに示されたか。神様が一人子。ただ一人神様からお生まれになった、御子イエス・キリストを、私たちが生きるために、地上に遣わして下さったこと。この、神の救いの御業、そして実際に果たして下さった、キリストの御業によって、明らかに示された。現わされたのであります。9節が教えていることは二つ。完全な神の愛は、キリストのうちに表されている、ということ。そして、愛は、感情や思いではなく、行動であるということです。
愛は、主の御業の中に表わされました。愛は、感覚的、目に見えない、感情的なものではなく、客観的で、目に見える、行動である、ということであります。
10節は、愛の御業の本質を更にあきらかにしていきます。神様が御子を遣わして下さった、のは、ただ遣わされたのではなく、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」遣わして下さいました。私たちを愛して下さって、私たちのために生贄となって、血を流すために一人子を送って下さったのであります。ここに愛がある。御子のあがないの効力は、今、私たちと共にあるのであります。神の完全な義と、愛の完璧な調和です。この御業に愛があります。
そして、11節では愛の行動が勧められ、12節では愛がが見えないものではなく見えるものだと言われます。
「(11節)愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。(12節)神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
愛は、見えない神様が、見える形で表されたように具体的で、現実的です。第一コリントの13章では、次のように教えられています。
「(4)愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」
ある註解者は、これを「選択と行動」と表現しました。為すべきことと避けるべきことを選び、実行する、ということです。
しかし、自分自身の日々の生活の与えはめた場合、選択の誤り、程度の問題など、実行の困難さを思い巡らせて、重い気持ちになってしまいます。そしてその解決策。重荷自体、主が背負って下さる励ましと慰めが教えられます。13節から15節。
「(13節)神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。(14節)わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。(15節)もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」
私たちは、神様が愛の神様であることを教えられました。見えない霊である神様が、御子を人として遣わされ、そこに愛を明らかに表して下さいました。この神様に愛されるものとして、愛し合うことが勧められています。それは、主がそうして下さったように具体的な行動でした。さらに、それを果たすことが出来ない私たちのために、御霊を遣わして下さいます。御霊、聖霊によって私たちは、私たちを知り、愛していて下さる神様を知ることが叶います。それは、イエス様を、救い主神の子キリストと告白して、明らかになります。御霊によって、イエス様を信仰する者。イエス様を信じ仰ぐ者と共に、神様がいてくださるのであります。私たちが、主観的に感じることが出来なくても。神様から姿を隠したり、逃げたくなるようなことがあっても、神様が共にいて下り、私たちをその愛の内に捕まえ続けていて下さるのです。