神と共に生きる
(4)しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
(5)あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。(6)だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
(7)眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
(8)しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
(9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
(10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
(11)だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。テサロニケ人への第一の手紙 5章4節から11節
○「(9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。(10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」
テサロニケ人への第一の手紙5章9節と10節のみ言葉をお読みいたしました。本日、9月の第一聖日は、当教会の振起日礼拝でございますので、今朝は使徒行伝を離れ、この第一テサロニケのみ言葉から、少し気持ちを新たにして導かれたいと思います。
この手紙は、パウロが書いた比較的初期の手紙になります。宛先はテサロニケの教会。テサロニケは、ギリシャのアテネの上の方、マケドニヤにある都市で、貿易や商業が盛んな町でもありました。パウロは第二回伝道旅行で、ここを訪れ、3週間ほど滞在して、宣教いたしました。
このことは、使徒行伝の17章に書かれています。パウロは、テサロニケでも妬まれて、迫害にあい、新たな宣教先コリントに向かいました。これが紀元51年頃と言われています。そして、コリントに1年半程滞在している間に,この手紙を書いたと考えられています。パウロは、テサロニケの教会を非常に評価していたことが分かります。
手紙の冒頭を見て見ましょう。1章の2節から(P319)
「2わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、3あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。4神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。」
「6そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、7こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。」
テサロニケの教会は、きびしい迫害を受けていました。その中で、信徒たちは「信仰の働き」と「愛の労苦」を、「イエスキリストへの希望」のゆえに、迫害に耐えて保ち続けていた、ということであります。パウロは、その姿を知って、神に感謝し、さらに一層、その希望を確かなものにするべく、この手紙を書いています。
地上の困難の中で、主にある信仰生活を堅く保ち続けるための、キリストの慰めと励ましの手紙であります。この手紙の、さらに数年後に書かれた「コリント人への第二手紙」でパウロは、ピリピやテサロニケと言ったマケドニヤの教会の信仰と、厳しい中での献身が、模範として語っていました。貧しいですけれども、堅い信仰に立つ、弱いけれども、懸命な教会への喜び、いたわり、慰め、励ましのみ言葉であります。
さて、以上の背景を踏まえまして、本日は、5章のみ言葉ですが、その前4章の流れをお話したいと思います。
4章の前半では、テサロニケ教会に見える、主にある聖なる生活、生きる幸い。それを、その通り続けるように。迫害や困窮にあっても、みだらな行い、情欲、あざむいたり、貶めたりすることなく。自らを「聖なる尊いもの」として保つ。良き市民としてのという勧めになります。
そして、善には善の、悪には悪の、報いは必ずある、ということ。その完成がイエス・キリストの再臨。今、天の父の右におられるイエス様が、再び地に来られる、再臨が確実である、励ましています。そして、再臨がどのように起きるか、その状況を描いて、テサロニケの人々が、これをリアルに実感して、確信できるよう教えていきました。
続く5章に入って、この報い。それは最終の裁きの時でもありますけれども、キリスト者は、裁きを恐れる必要はない、ということを教えていきます。キリスト者は光の子であるから。私たち自身の光ではなく、命の光であるキリストにあって、すでに光を歩んでおるから、そのまま進みなさい、という励ましであります。
5章8節
「8しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。」
つまり、信仰と愛と希望。これが地上の信仰生活の実体であり、また支えるものであります。み言葉を通して、御霊によって、これが与えられておりますから、恐れることなく、そのままに歩みなさいとパウロは励ましています。
そして9節。
「「(9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。」
父なる神様の聖定であります。聖定は救いのご計画であります。私たちが、神の御子キリストにより救いを得るように、もう定められているということであります。これが何より確かな真理であり、その証拠に事実、キリストは死に賜いました。それは私たちの為でありました。10節。
「(10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」」
本日は、もう、この10節のみ言葉をおぼえて、お持ち帰りいただきたいと願っています。キリストが死んでくださったのは、わたしたちが、覚めていても眠っていても、キリスト共に生きるように。そのために。この恵みは大きいです。
私たちは、今、このように共に礼拝を捧げています。み言葉に聞き、主を賛美し、祈りを捧げます。この時、まさに主が共にいて下さり、その喜びを感じることが出来ます。
しかし、それだけではありません。全ての時において。目覚めて、活動している時だけではなく、眠っていて記憶がない時でも。仕事や家事や、遊んでいて、神様の事を考えていなくても、主と共に生きている、主が共にいて下さる、ということであります。
つきつめれば、私たちが礼拝や、日々の生活において、感じる様々な喜び。感謝すること。
何か、出来事の後に、ああ、主のお導きがあったなぁ、と感じること。み言葉に、心が動かされること。これらは、あくまで、信仰の恵みの一部であります。ご褒美のようなものと言って良いかもしれません。
なぜかと言いますと、このように私たちが感じることが出来るのは、あくまで主観に過ぎません。ここで、たとえ「眠っていても」と教えられている通り、私たちが気づかなくても。感じなくても、変わらず、主と共に生きるように、ということです。信仰生活にも波があって、聖書を読んでも、あまり頭に入ってこないとか、讃美歌を歌っても、最近、いまひとつ心が動かされない、と言ったことはあります。
それは、あくまで私たちの感覚です。しかし、み言葉は教えています。今一つどころか、たとえ眠っていて、自分自身は何も感じていなくても、主と共に生かされているのであります。これは、すなわち、客観的な事実であり、客観的恵みであります。
何となれば、主イエス・キリスト、すなわち御子なる神と共に生きることができるのは、主ご自身が私たちと共にいて下さるからであります。怪我や病で、意識がない状態でも。高齢になって、忘れっぽくなったり、多少ぼんやりしても、問題はありません。病気等で正気を失って、神様の事を知らない、と言った言葉を口にすことがあるかもかも知れません。それでも、主が与えて下さった信仰を、一度心から告白していれば、大丈夫です。主が共にいて下さる。御国まで導き入れて下さいます。
神なる主と共に生きる、地上での救いの恵みとは、このようなものであります。起きていても眠っていても。主と共に生きることの、おもな主体は神様であり、私たちは自由に、それに応える、応えたいと願うようにされる。恵みと応答という神様と私たちの相互的な関係に入れられるのであります。これは、私たちの主観だけにとどまらない、客観的な救いの真実であります。
救いは、神様との交わりの回復。背きの罪によって、神様から離れた者を、交わりの中に戻す。そのためにイエス・キリストが死に賜いました。キリストの死は、信じる者が彼と共に生きるように。覚めていても、眠っていても。例え死んでもです。この大きな主の愛。全知全能の造り主、神と共に生きることができる、喜び、平安。この事をおぼえたいと思います。
ステパノが天のイエス様を仰ぎ見たように。私たちも、主を仰ぎ、天を思いつつ、地上の歩みを進めたい願います。四六時中キリスト共に生きる、すなわちイエス・キリストに繋がっているということです。キリストに繋がるということ、一番重い重心が天にありますから、地上が揺らいでも、多少ふらつくことはあっても倒れることはないのであります。
「(9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。(10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」
死ぬにしても生きるにしても、私たちは常に神様と共にある。なぜならイエス様の十字架によって、主を信じる私たちは、神の御怒りから出る罰を受けることはない。これが神様定められたことであります。