新しい命に生きる

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新しい命に生きる

(3) それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
(4) すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
(5) もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
(6) わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
(7) それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
(8) もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
(9) キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
(10) なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである
(11) このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
(12) だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、(13) また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
(14) なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。ローマ人への手紙 6章3節から14節

○「(4) すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」

 ローマ人への手紙6章4節の御言葉でございます。救い主イエス・キリストが、十字架によって死なれ、墓に葬られた3日目の朝、よみがえらえました。本日は、主の復活の喜びを記念するイースターでございますので、あらためて、キリストが甦られたこと、それが私たちにいかに大きな恵みであるかを、御言葉に聞いて参りたいと思います。
 ここでは、まずキリスト信仰による救いとは。第一はキリストの死にあずかる、ということ。次に、その甦りに倣うということ。そして、新しい命に生かされる恵みを覚えたいと思います。一言でまとめると、救いと信仰の実体は「キリストとの結合」にあるということでございます。
本日のみ言葉は、6章3節から5節が、まず見出しというか結論をのべて、6節から11節で繰り返して、説明しています。ここまでが信仰編、しんずべきこと。そして、12節から14節が生活編。キリストにある生き方の勧めです。信仰と愛の構造です。まず3節。
 
「(3) それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」
キリストの死について。先々週、詩篇の22篇のみ言葉を見て参りました。イエス様が十字架上で叫ばれた「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という言葉。これは詩篇22篇1節の冒頭のみ言葉であります。その意味は「わが神、わが神、/なにゆえわたしを捨てられるのですか。」という言葉です。しかし、これは決して、嘆き悲しむ、絶望の叫びではなく、主なる神様が約束されていた救いが、今、まさに実現している、という宣言でありました。詩篇22篇で、ダビデが御霊によって歌った、不安や恐れ、自分を待ち受ける困難や屈辱が、すべて、書かれていたとおり、目の前で今、イエス様が体験しておられる。そのことを知らされたのであります。詩篇22篇では、「主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。」という、ダビデの願いに主は答えて下さり、救いの御業を果たして下さった。そのような讃美へと続いていきます。
 その救いは「貧しい者が飢えることなく、また、あなた方の心がとこしえに生きるように」そのような、霊肉共に養われ、保たれる主の恵みの御業。それを讃美していました。イエス様はご自身が十字架に張り付けられた状態で、その命を捧げようとされながら、救いの実現と、父なる神、主をほめたたえる讃美を口にされたのであります。

 今お読みいたしました、6章3節に「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」とあるように、私たちキリスト者は、信仰を告白して、洗礼を受け
ることによって、イエス様の死とつなげられた、というのであります。つまり、イエス・キリスト様の死こそが、まず、私たちの救いであることであります。
神に背き、蛇であるサタンの誘惑に従い、堕落した、すべての人類が持つ罪。永遠の命が約束された木の実ではなく、不従順の選んだ人間は、罪と死の裁きを受けるにふさわしい存在でありました。しかし主は、このような者を滅ぼすことなく、ご自身一人子であるキリストを、この地上へ、私たちのもとへと送ってくださいました。それも、この滅ぶべき罪を、御子がすべて背負って、十字架で死ぬためでありました。罪なき神の御子が、こうして罪を引き受けて下さったからこそ、私たちイエス様を信じる者は、永遠の死と滅びに至る、罪からの解放されたのであります。これがキリストの贖い。神の御子が、ご自身の命を支払って、私たちを死から買い取って下さった、ということです。
 イエス様を信じることによって、私たち全てが、その命が、イエス様に結びつけられた。イエス様の死が、私たちの死として、神様がこれを認めて下さった、ということです。私たちは、こうして今地上に生きておりますけれども、実は死んでいる。イエス様の死と繋げられて、罪に死んでおる、ということであります。6~7節。
「 (6) わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。(7) それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」
 救われても、信仰を与えられていても、それでも生きている間は日々、罪を犯し続けるのが人間であります。たとえ自分で気づかなくても。しかし、今、甦って天にいますイエス様が、私たちの仲保者として、保証人として、日々執り成していて下さる。私たちがやがて御許に召されるまで、主は日々赦し続けていてくださるのであります。私たちはキリストの死に繋がることで、死に至る罪からは解放され、さらに守られている、このの幸いを覚えた地と思います。

 次に4節5節。
「(4) すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(5) もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」
 私たちとイエス様を結び付け、つないでいるのが、信仰であり、その主体は御言葉を通して働いておられる、御霊であります。私たちがイエス様の死、すなわち命の贖いにあずかるかっているのは、御霊によって、イエス様と結びつけられて、一体となっているからでます。イエス様と繋がっているということは、当然イエス様がよみがえられたということは、私たちもまた、甦りの命に生きる、ということになります。
 これには、二つの意味があります。いわゆる、御国で約束された永遠の命。たとえ、地上で死んでもその魂、そして終末に甦る肉体は、主の下での永遠の平安と栄光みちた交わりが約束されています。そして、もう一つは、地上の人生。今生きていることであります。
8節から11節。
「(8) もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
(9) キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配し
ないことを、知っているからである。(10) なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。(11) このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」

 キリストと共に死ぬ。つまり、キリストの死が、私たちの死とされたのでありますから、命もまた同じくキリストの命と繋がっているということであります。イエス様は、ただ罪をあがなって死んでくださって、私たちが助かった、というだけではありません。今天で、父なる御神の御後の座におられるイエス様の命と、お体とも繋がっておる、ということであります。イエス様は、天地の主権を委ねられて、全被造世界の王として、再臨の日まで、御霊によって世界を治められています。肉体を持ちつつ、罪に死んだため、罪に支配されること無く、人の全ての弱さから自由になられて、ただ神に対して生きておられる。この方が私たちの頭、長子、命であるお方であります。
 この主が、私たちはこの方に繋げられることで、私たちの心が神様に向くように、天を仰ぐように、イエス様のみ足跡を追うようにと、日々きよめられていく。それが信仰生活であり、教会生活の恵みであります。私たちが何か聖いのではなく、立派なのでもなく、ただ甦って天にいますイエス様の命に繋がっておるがゆえの聖さ。主の民とされておるという恵みであります。
 
ですから、12節から14節。
「(12) だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、(13) また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。(14) なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」

 キリストは死んで我らの罪を贖い、甦って、永遠の命の保証となって下さいました。今この時も天にいまし、御霊を遣わして、私たちと繋がっていて下さり、私たちをご自身につづく、神の子として御許に迎え入れるために、愛をもって世界を摂理され、守り導いていて下さいます。
「あなたがたは、恵みのもとにある。」私たちの永遠の命と、地上の歩みを守り給う主の恵み・この甦りの命につながる私たちもまた、神にささげる命、神の義を証しする人生として、主が喜びの内に用いられますよう。祈りたいと思います。

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