神の子とするために

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神の子とするために

(26) 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
(27) そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
(28) 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
(29) 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
(30) そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。ローマ人への手紙 8章26節から30節

【8章】聖霊なる神様の御業について、御霊なる主は、私たちに救いについて決定的な働きを成して下さる。その到達点として、クリスチャンの栄化の実態と宣言。信仰を与え、キリストに繋ぎ、御父にとりなす御霊の業が教えられていく。

<信仰による救い=義認のまとめ> 全体としては、聖霊の御業の深さ、広さ、完全さ、力強さ

(1) こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪(神の御前に)に定められることがない。
(2) なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
(3) 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
<信仰よって義と認められる=罪と死から自由になる:キリストへの信仰は、キリストイエスの御霊が与られることによる。御霊によってキリストに繋がっているということ。万物の創造主であり、永遠の神の御子、人となって、死んで甦られた方から、御霊を送られて、与えられた信仰によって罪の束縛から自由にされる。
これがキリストにある御霊の法則、原理。
<私たちは、今天のキリストから送られた御霊と共に、天に向かって、御国の永遠の栄光に向かって歩いているところ>

○<御霊の法則によって、すなわち御子と繋がって、救われるということはどういうことか。我らは神の子とされる。>
(14) すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
(15) あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
(16) 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
(17) もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
○御霊が私たちの中に働いて、それはイエス様が霊において共にいて下さる、ということ。イエス様を通して、天の御父に呼ばわり祈り、願うことができる。神様との親子の交わり。御霊によって御子に繋がれて、その体となって、神の子とされる。子と見なして、扱って下さる。今、人も体をもって天におられる、神の御子と同じ栄光、天の御国が約束されている。・信仰による苦労>

○現在の世界の苦しみ
(18) わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
(19) 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
<被造物=全世界、全生物の願い:はなはだ良い、エデンの回復「堕落がなければさらに表された栄光の世界」>
 それは神の子たち=クリスチャンが召し集められ、主の民が満ちてもたらされる、終末の再生の願い。自然は美しく、雄大ではあるが、実は、そこに不完全さ、理不尽さ、空虚な世界であることを余儀なくされている。エントロピーの法則のように、無秩序な崩壊に向かう、空しさを知ることができる。世界も嘆きを抱えている。

(22) 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(23) それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。(24)わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
<世界の嘆きは、御心に満ちた、完全に善なる世界への回復を望んでいる。それは、それをもたらした私たち罪人の嘆きであり、御子にあって、御子のために造られた世界と、そこにおいて神栄光を表す務めを与えられ、神の似姿として、特別に愛されて造られた、本来の姿へ戻ること。「体の贖い」神様の子供として、御子が甦られように、栄光の復活を待ち望んでいる。そのような存在であるということです。>
「御霊の最初の実」 =神の「証印」(Ⅱコリント1:22)「保証」(エペソ1:14)信仰が与えられている、ということは
御霊が私たちの中にいて下さって、保証して下さっている、ということです。だから、24節「救われているのである」は、不定過去形で、すでに救いが完了していることを表しています。
確かに、永遠において、終末の救いは完全に保証されているとはいえ、地上にある間は、不完全な罪の体のまま、キリストの民として、歩んでいくなかで、様々な弱さ、迷い、困難が訪れます。自分の本当の願いが何か分からず、祈っていたり、様々な思いがありますが、究極のところは一つという真理を表しています。
そして、このような弱い、私たちを助けて下さるのが、私たちの内にいてくださる、主の御霊であります。
 
○助け手なる御霊=執り成し給う神と、執り成しの成果=栄化
(26) 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
(27) そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
<イエス様が天に昇られる前、使徒達に、助け手を遣わすまで待っているようにお命じになられました。主の御霊は、私たちの直接の助け手であり、私たちの中にいてくださって、私たちと思いや願、迷い苦しみを共にしてくださいます。イエス様にあって、信仰のうちに私たちは決して孤独ではなく、誰にも見えない、自分すら気づかない、内面の奥底まで、イエス様が共有して下さっておる、ということです。この御霊が、父なる神様に執り成しをしてくださる。御旨にかなうとりなし。切なるうめきをもって。神なる御霊に信頼して、み言葉に聞いて祈る時、その祈りを御霊が導き、不完全であっても、御旨にかなうようとりなして下さいます。そして、心を探り知る主は、御霊を通して、それを聞き、働いて下さる。御心に適うようにして、私たちの真の願いを実現したまうのであります。>

そしてその究極の願い=それは最高の益、最も善なる、良いことであります。それは神の御子、イエス・キリストと似た者とされる、ということ。
(28) 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
(29) 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
(30) そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

28節は、翻訳が難しくて、意味がつかみにくいところがあります。神様が、召された信徒と共に働かれるような表現にとれますが、原文を見ますと、もっと分かり易くなっています。
「共に働かれる」は三人称単数で神様ですが、「神を愛する者たちは」与格なので、「神を愛する者たちに」「ものたちのために」。万事=すべての事がら、は対格になるので、そのまま訳すと。
「神は、神を愛する者(すなわちご計画に従って召された者)のために、あらゆることと共に働いて」。あるいは「すべての事を通して働いて下さって、益として下さる」という意味になります。
 

「益」はαγαθονなので、
 もともとは「善」よくして下さる。単数ですので、一つの益、たった一つの究極の良いこと、
 
 私たちを取り巻く、すべての事がらをお用いになって、あらゆることを通して、あらかじめ知っておられたものを。私たちを神の子としてくださるために、働いて下さるのであります。
 そのために、ご自身の御子を人として、地上にお送りになり、罪なくして罪を負い、十字架に架け、私たちの初穂として、甦って天の栄光の座につかせられました。私たちが、主を知る前から主は知っていて下さり、御霊を遣わして、私たちを長子なる御子につなぎ、同じく、英会陰の神の子とし給うのであります。
 ここでは、信仰による、救い。自由なること。救いの完成形である、神の子として復活させられる、栄化の恵みが宣言されています。途中の聖化の働きをすっ飛ばして、御国までは、いろいろあるけれども、御子がそうであられたように、栄光受ける前の苦難は待ち受けますが、最終の御国に至るまで、イエス様の霊、御霊なる主が共にいて、導き給うのであります。
 御霊が共にいて下さる幸いを、覚えるために、み言葉に聞き、祈る礼拝。また礼典にあずかるという、イエス様が備えて下さった、信仰生活への思いを強くしたいと願います。

2024年度 メッセージ一覧

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○12) 主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。  詩篇33…

新しい命に生きる

○「(4) すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは…

神の祝福のもとに

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定…

心がとこしえに生きるように

○「(1)わが神、わが神、/なにゆえわたしを捨てられるのですか。 なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、/わた…

仕える王として

○<(8) 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷…

神の子とするために

【8章】聖霊なる神様の御業について、御霊なる主は、私たちに救いについて決定的な働きを成して下さる。そ…

実現する力

<(11) その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつか…

喜びが溢れるため

3) すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、…