落ちた先の世界
1: さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2: かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
3: また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
4: しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
5: 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし ― あなたがたの救われたのは、恵みによるのである ―
6: キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
7: それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
8: あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9: 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10: わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。エペソ人への手紙 2章 1節から10節
本日は、エペソ人への手紙2章のみ言から、救いということの、大切な意味を教えられたいとおもいます。この手紙は、パウロによるいわゆる獄中書簡といわれるもので、パウロがローマで2年間、軟禁状態に置かれた際に書かれた手紙です。「エペソ人へ」とされていますが、エペソの教会だけにあてて書かれたものではなく、小アジア今で言う、トルコ西部の諸教会を意識して書かれたと言われています。
エペソは小アジアの西の端で、海を渡ればすぐアテネでしたから、手紙はまずエペソの教会に届けられ、そこから小アジアの諸教会に回されていったと考えられます。そのため、パウロが意識していたのは、神の民とされていたユダヤ人だけではなく、異邦人。イスラエルに対して自らをお示しになり、自らの民とされ賜うた。ご自身を「あってあるもの」と名乗られた、唯一の生ける真の神を知らなかった人々。しかし、今やイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、神の民なった異邦人達を意識して語っているということであります。
さて、まず4節から10節を見てまいりたいと思います。ここには、主なる神様が、御子イエス・キリストを通して、私たちに示してくださった愛と、賜った恵みの大きさが余すところなく述べられています。4節では、
<しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5:罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし ― あなたがたの救われたのは、恵みによるのである ―6:キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。>
私たちは、罪と過ちによって死んでいたのであります。今現在は生きていますから、これは霊的な死のことを言っています。神様との交わりを断ち、霊的な糧を得られず、死んでいたことが告白されます。これは、同時に肉体的な死をも含んでいます。ロマ書6章23節で言われる通り、罪の報酬は死であり、実際に人間は肉体的死を免れ得ない存在とされていました。さらに、私たちの時間軸で言えば、将来的には、肉体の死の後に、永遠の死。地獄というものが定められていたわけであります。
しかし、イエス・キリストが十字架上で死に給うて、3日目によみがえり、天に昇り、神の右に座したまえる、という、先ほど私たちが使徒信条で告白した通り、そのキリストの救いの御業に、私たちも共に与っているのだと、パウロは断言しています。キリストと共に生かし、キリストにあってよみがえり、共に天の御国に座るべき座を備えてくださっていると言うのです。なんという光栄でしょうか。しかも、ここでは、完了形です。すでに、キリストにあってよみがえり、天上に入れられていると言うのです。
へブル11章1節に<信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである>とある通り、パウロは確信どころか、もう確認しているのです。これは主なる神の永遠のご計画。定められたことでありますから、時間の内にある有限な私たちは知ることはできませんが、主にあっては既に実現した事実であり、信仰によって、御霊の照明よってのみ、私たちはその確かさに感謝できるのであります。
そして、それは神の憐れみと、私たちへの大きな愛による、神の愛ゆえだと言っています。決して私たちに何か理由があるのでなく、神が主体である。ただ神の愛によるのだ、ということであります。
さらに7節では
<それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。>
この、キリストの救いの御業というは、ただ、私たちだけの救いというだけでなく、もっと大きい、広い範囲にわたる恵みのわざであることが述べられています。私たちがまだあずかり知らない、ずっと将来の世々に。すなわち、キリストにあって賜った神の慈愛の絶大な富を示されるためだ。神様が私たちに賜った恵みと憐れみは、もう永遠に示され、記録されるものである。パウロは神の恵みが、それほどまでに豊かであることを悟り、ほめ讃え、ここで教えています。私たちもこのパウロが確信しているところの、キリストにある神に恵みの豊かさに、あらためてこれに思いをめぐらせたいと思います。
続いて、8節から9節では、
<あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。9:決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。>
ここで、5節に言われていました「あなた方が救われたのは、神の恵みによる」ということが、もう一度、さらに詳しく強調されています。救いは、神の恵みと、わたしたちが信じる信仰によるのですが、その信仰自体も、神から賜ったもので、ただただ神の恩寵であり、私たちのうちから出たものではない。ということが強調されています。本当にあらゆる善きことは上から来る、栄光はすべて主なる神に帰すべきことの念押しがされます。当然、決して私たちの行いによるものではない。何となれば、5節にあるように私たちは既に死んでおるのですから、何も生み出しえないのであります。
それにもかかわらず、自らを誇り、すぐ高慢へと向かってしまう、神様の恵みと憐れみを過少なものとし、自らの誉れとしようとしてしまう、人間の罪深さ、弱さをパウロはよく知っていました。私たちもこれを覚えたいと思います。
このあとの、10節をお読みいたします。
<わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。>
ここでは、「新生」ということが語られます。以前にも第2コリントから導かれましたが、キリストにあって生かされたもの、すなわち新たにつくられたものは、自然と善きわざへと導かれていく、そのような生活へと、主が備えてくださるということであります。
さて、ここまで、4節から10節聞いてまいりました。ここでは、キリストによる私たちの救いということについて、主なる神様の、本当に一方的な憐れみと愛が示されてまいりました。神様は、永遠の内より、憐れみの内にご計画され、時を定めて、御一人子キリストをこの世に使わされ、私たちを救い、さらにその救いに与る信仰をも御霊によって与えてくださいました。救いも、信仰も、新たなそして永遠の命も、全てが神様の賜物である、ということが明言されています。あまりにもと言うと変ですが、一方的な、豊かな恵みの内に召されていることが教えられます。
実は、今朝特にもう一つ覚えたいことは、1節から3節に明かされている事実であります。それは、何故救われるのか、救っていただく必要があるのか、何から救われるのか、ということであります。このことに思いを馳せたいと思っています。1節から3節をお読みいたしますと、
<さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2:かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3:また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。>
「生まれながらの怒りの子」というのは、文語訳から引き継いでいるので、少々わかりにくいですが、「生まれながらにして、神のみ怒りを受けるべきもの」という意味です。ここでまずパウロが1節で「あなたがたは」といっているのは、キリストによるまでは、まことの神を知らずにいた異邦人の人たちに対して語りかけています。あなたがたは死んでいたものだ。5節でも触れましたが、これは神様との霊的断絶のことであり、神の呪いの内に置かれている、ということを意味しています。その源は「原罪」です。先日、創世記から学びましたが、アダムによる、主なる神に対する不従順。命の契約に背いたことによって、全ての人は死に定められたのであります。
ウェストミンスターの小教理問答で、原罪ということについての問18は、「人が堕落した状態の罪性とはどの点にあるか」という問いに対して、「人が堕落した状態の罪性とは、アダムの最初の罪とのとがと、原義を失っていること、普通に原罪といわれる全性質の腐敗と、これから生じるすべての現実の犯罪にある」という答えが聖書から応えられています。何か、遠い昔の私たちがあったことも聞いたこともないような、人間の祖先であるアダムが犯した罪、私たちに何か関係があるのか・・・今現在、世の中で起こされている、本当の様々な犯罪であるとか、人間の罪というものは、そこから生まれてきて、直接繋がっているのだ、ということを聖書は教えているのであります。
問19ではさらに「人が堕落した状態の悲惨とは何であるか」との問いにたいする聖書の答えは、「全人類は、堕落によって神との交わりを失い、神の怒りとのろいの下にあり、そのためこの世のあらゆる悲惨と、死そのものと、永遠の地獄の罰をまぬがれ得ないものとされている」という答えが、やはりみ言より教えられています。
3節のところで、「生まれながら怒りの子であった」つまり、神の怒りを受けるものであったということで、人がみなこの罪の内に置かれていることが示されています。それゆえ、3節の最初にパウロは「また、私たちもみな」といいました。つまり、異邦人だけでなく、自らを選びの民、私たちは神の民だと自負していたユダヤ人も同じく、罪のうちに死んでおったと、正直に告白しているのであります。そのすべての人が置かれている罪の内では、2節。
<かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた>
空中の権を持つものとは、サタンのことです。まことの神から離れておれば、私たちは自分を取り囲む世界の中で、本当に気づかずに、当たり前のように、常識だとももって過ごしていた普通の生活と思われることが、実はサタンの支配のもとにあった。ということが、キリストによって生き返されることで、わかるということであります。3節の
<肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い>
この行い。この日々の過ごし方について、具体的に書かれた聖書きいてみましょう。新約聖書62頁、マルコによる福音書の7章20節の後半から。
<人から出て来るもの、それが人を汚すのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、そしり、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである>
この前では、イエス様は、外からはいってくるものは人を汚しえないことがわからないのか?ということを仰っています。つまり神様が与えてくださる、外からのものは汚さない。自分の内から出て来るものが自分を汚し、また周りをも汚していく。そのような罪の中に私たちはいるのです。私たちは「いや、当然殺人なんかは犯していない。盗んだこともないです。」と表立っては言うのですけれど、その「殺人」ということの中には、十戒にある「殺してはならない」ということは、これは、神様の似姿である、その、人の人格の尊重であって、誰かを無視することや、あるいは軽視すること。人格を十分に尊重しないということもまた、その罪の内におかれているわけであります。完全に、実際に行っていなくても、私たちの心の内には、このようなことを思い、あるいは表にも出しかねない、そのような罪が常に蓄えられている。そのような中にある。
これが、本当に原罪に基づき、人の広がりとともに進んでいった、罪の、人間の現実であります。エデンの園から追放され、堕落した人間が落ちていった先の世界。人がその様にしてしまった現実の世界であります。私たちは、かつてはこのようなものであった。いや、救われた今もなお、この世にあっては完全には抜けてはいないのだ、ということを覚えたいと思います。私たちは、まったく自力ではこの罪の身から抜け出すことはかなわず、このような罪びとは、主なる、聖なる神様のお裁きを受けざるを得ないような存在であることを、もう一度思い起こしたいと思います。この事実を、しっかりと認識しなければならない。罪のため、私たちに当然である神の怒りと呪いを逃れるために、私たちに求められることは、イエス・キリストへの信仰と、命に至る悔い改めと、礼拝であります。外的手段と言われますが、み言と礼典と祈り。すなわち礼拝に求められることであります。私たち与えられた信仰というものは確実です。本当に御霊が私たちに証てくださいます。そして礼拝。このように守られています。
そしてもう一つ、この「悔い改め」ということを今一度、心に覚えたいと思います。私たちは本当に悔い改めているんだろうか。真の、深い悔い改めに、ちゃんと告白したんだろうか、ということを自分で吟味してみたいと思った次第です。本当の悔い改めから、より深い信仰と、そして神様が、主なる神様がいかに豊かに私たちを恵んで下さり、大きな愛をもって私たちを招いてくださったか。いかに偉大で、全知で、全能であられて、そしてすべてをご支配されている方か。その方が、私たちのために、このような、どうしようもなく罪に落ちた者のために、自分では何一つなしえない者のために、大きな大きな犠牲を払って救い出してくださった。その、愛の大きさというものと、私たちの卑小さというもの。これを曖昧にしてはいけない。それをここでは教えられていると思います。しっかりと悔い改める。それを心に刻みたいと思いました。
それによって、父なる神様と、神様が遣わしてくださった贖い主イエス・キリストと、その贖いの御業に与らせてくださる聖霊のお働き。この三位一体の神様による、救いの御業の恵みの豊かさ。愛の大きさが私たちをとらえて離さないのであります。そのことを覚えて、主を畏れて感謝して、祈る。そのような信仰生活を送れるよう、上からの導きを祈りたいと思います。(以上)