キリストにより新しくされる

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キリストにより新しくされる

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
5:16それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世界をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。コリント人への第二の手紙 5章 14節から19節

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」


コリント人への第2の手紙5章17節の、有名な御言です。本日はこの前後から、私たちが、本当に新しくされるという事実。その意味と喜び、さらには新しくされたものの生き方について、聖書から教えられたいと願っています。


 特に、当教会員の方にとっては、毎年1回は目にする、お馴染みの御言です。大﨑時子夫人の年賀状にこの御言を選ばれていますね。私たちは確かに、すでに新しくされたものではありますけれども、顔や体が変わったわけではない。性格や能力が向上したわけでもない。日々の、この世との様々な交わりの中で、実は本当にもう新しくされているんだ、さらに日々、聖くされつつあるんだ、ということを、罪あるわたしたちは意外と忘れがちというか、実感が弱まってしまいます。


 その意味で、この御言を毎年の初めに目にすることができることは、恵です。ここには、イエス様にある神の愛と、私たちの感謝を新たにする。させられる恵が迫ってきます。ここを聞いてまいりましょう。


 まず、コリント人への第2の手紙について。コリント人への第1手紙にあるように、コリントの教会では、パウロを悲しませる、様々な問題が発生していました。コリントは、イスラエルからみれば、ギリシアの大都会で、ローマ帝国の一大商業都市でした。ローマ帝国の拡大に伴い、そこには、様々な民族の人が集まっており、多くの異教の文化も存在していました。さらに、何と言ってもギリシア哲学の膝元ですから、人間の知恵や理性を基準に、それらの宗教を人間中心の考えで理解しようとする、あるいはごちゃまぜにして組み立てなおすような哲学文化がありました。


 第1コリントでの大きな問題の第一は、分派、分裂の傾向ということでした。それは先の状況からイエス・キリストの福音を自分流に解釈をして、同調する人を集める。または、自らが共鳴している指導者を自慢することで、結局は自分を誇っていたというわけです。


 このような状況は、ある意味、私たちが置かれています我が国に似ているかもしれません。その意味で、コリントの教会が抱えた問題は、現代の私たちも参考にすべき事柄が多いと思います。同時に、パウロが彼らに送った手紙は、信仰生活を現実の社会生活中で、いかに適用すべきかという、具体的な回答と、それを支える神学的、信仰的奨励がともに含まれています。


 第2コリントは、第1コリントに記された教会の危機に対し、テトスを派遣し、パウロも短期訪問し、繰り返し指導しました。その結果、7章の9節にあるように、ほとんどの人が悔い改め、パウロをよろこばせましたが、一部まだ悔い改めない人々が残っており、そのため改めて福音と奨励とを書き送ったのがこの手紙ということになります。ですから、第1に比べて、教理的な部分は限られており、パウロの個人的な奨励、信仰の告白、指導が強調されています。その中で、本日の5章は比較的教理的な部分を説明に加えた箇所だと言われています。その主なテーマは「新生」ということになると思います。


 


5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。


 ここで、「見よ」と言われています。新共同訳だけ何故か「見よ」が抜けているのですが、ギリシア語では確かに命令形で「見よ」と書かれています。気づきなさい、知りなさいという意味もあります。英文では「見よ」という単語の代わりに、「新しくなった」のあとに「!」がついていますね。


強調されていることは同じです。


 「新しくなった」という言葉は完了形です。キリストにあるならば、即ちキリストを、救い主と信じる信仰が与えられ、霊的な交わりの中に置かれておるならば、「もうすで」に霊的に新しくされている、と言うことであります。霊的にということは、17節の頭に「そこで」とか「それゆえ」というギリシア語が入っているので、前の16節からの繋がりであることがわかります。


5:16それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。


 つまり、肉的とかこの世的。新改訳の旧版では「人間的な標準で」人を知ろうとはしません。と説明的に訳しています。「私たちは今後」と言っておりますから、一つはパウロ自身の経験から、かつてはイエス様を、一人の人間としてこの世的な視点からのみ判断し、迫害していたこと。もう一つは、コリントの教会において同様に人をこの世的基準で判断していたことが分かります。やはり、ここでも人の知恵、この世的な価値判断では、霊的な即ち霊なる神様からの啓示は受け取ることができない、ということをはっきりと言っています。その具体的な事例が、さらにその前の15節です。


5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。


 これは、イエス・キリストの十字架の贖い、贖罪の真理を簡単明瞭に表現しており、キリストが人類の身代わりとなって下さった、その意義を明らかに記されています。この出来事は歴史的事実ではありますけれど、その意義を知ること、信じることは御霊による霊的な導きがなければ、知りえません。人の知恵、この世の知識ではたどり着き得ない真理であります。


 それゆえ、「新しくされる」ことは霊的なことであることが分かります。聖書を1カ所引いてみましょう。ローマ人への手紙6章3節から6節(新約聖書239頁から)です。


6:3それともあなた方は知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。


6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた新しいいのちに生きるためである。


6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。


6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪の体が滅び、私たちがもはや罪の奴隷となることがないためである。


 ここでは、さらに詳しくキリストの十字架と、キリストに結びつくことによって私たちが新しい命を得て、罪の支配から自由になって生きることが示されています。「新しくされる」ことは、霊的な出来事だと申し上げました。確かに、信仰を与えられたから、受洗したからと言って、突然なにか自分が変わるものではありません。性格が変わったり、頭脳明晰なったとか、身体能力が上がったり、背が伸びたりというようなことはありません。しかし、霊的に新しくされたことによって、実際に,現実生活に様々な変化が出てくることもまた真実です。黒崎幸吉先生はこのように註解されてています。


「キリストを肉によりて知らず、霊によって彼を知り彼との霊的交わりに中に生きるものは、全く新たなる命を持っているのであって、新たに神に創造せられし人である。故にその生活の目的も、その態度も、その思想もその観察点も、これまでの自己中心にして肉的であったのが、一変してキリスト中心で霊的となり、古きは失せて全く新しくなってしまっている」 


 私たちが、当たり前のように前提としていますところの、主なる神さまの御存在。イエス様を救い主と信じる信仰。聖霊のお働きを感じること。これらは、知識ではありません。恵であり奇跡であります。この世の基準とは全く違うものです。しかし、この世の本当の実態を、真実を、御言を通して知らされているわけです。


 


 私自身、いつ新しくされたのか、そのような意識はあまりありません。こんなではいけないのでしょうが、いつの間にか、としか言いようがないところがあります。受洗した時も、実はあまりピンときていなかったといいますか、信仰的には不確かなもので、丁度大学をでて就職するような頃でしたから、何となくこのまま就職して転勤にでもなったら、教会行かんようになりそうやなぁ。考えていましたら、そういえば、最近お説教を「神さまがそう言うてはるのか。ふ~ん・・」程度でしたが、神さまの言として聞いておるなぁと思い至りまして、洗礼を受けようと思ったわけです。受洗したことで、一つは普通に「私はキリスト教徒です」と言えるようになりました。そのため、親戚からいろいろ言われたり、質問されたり、父親に議論ふっかけられたりしましたけれど。でも、お焼香はしなくなりました。当時は軽い気持ちでしたが、今思えば、確かに変えていただいていた。自分は変わっていないけれども、変えていただいた、ということが信頼できるわけです。


 


 この、「新しくされる」、「新生」という、これは救いの御業の表れそのものですが、教理的にも、その仕組みがきちんと説明されているものです。


 救いは、イエス・キリストによる贖いの御業にあずかることによってもたらされますが、キリストと私たちをつないでくださるのが聖霊のお働きです。WSCの問30の答えでは、「御霊がキリストの買いとられた贖いを私たちに適用されるのは、有効召命において、私たちの内に信仰を起こし、それによって私たちをキリストに結合される」とされてます。


 「有効召命」と熟語にするとややこしいですが、必ず実現される招き、召しということであります。やはり、まず神さま側からの召しがあるということ。それによって「再生」が起ります。これは自分の意識の下、無意識のうちに始まっています。聖霊が心の内にも、また外からも働きかけられ、やがて、御言への反応が起きてきます。これは、御言に慰められたとか、感心したとかだけではなく、反発や疑いもまた同じです。さらに進んで、御言によって、死んでいた。つまり真の神さまに対して死んでいた自分の心が、魂が生き返らされます。それが成長して、意識の上に上がってきて、そして「回心」。悔い改めへと導かれ、イエス・キリストを信じる信仰へと至ります。


 この回心は、一人一人、その時期も表れ方もまちまちです。違います。一人一人を神さまが、そのあわれみのうちに見ていて下さるのです。そして、それぞれの心の内に変化が起きて、イエス様を受け入れるようになるわけであります。


 回心は、意識のあちこちに及んでいき、そうして生活にも現れてくるようになります。回心するというギリシア語「επιστρεφω」という言葉は、方向転換する。180度向きを変える、といういみの言葉です。全く違う方向にひっくり返る。本当に新しくされるわけであります。いや、見よ、もうされているんだ、ということを言っています


 そしてそれは、


5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。


5:19 すなわち、神はキリストにおいて世界をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。


と、ありますように、全て神から出ている。


聖書をもう1カ所引いてみましょう。エペソ人への手紙2章の8節から9節です(新約聖書302頁)。これも有名なところです。


2:8あなた方が救われたのは、実に、恵により、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神のたまものである。


2:9決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためである。


 まさに、一方的な、そして絶大な神の恵と憐れみによる救いの御計画と、御子キリストによる自らを捧げてまで私たちを贖ってくださったその愛の、圧倒的な大きさ。自ら選んだ罪の道により、断絶されるしかなかった主なる神様へのとりなしと、和解の実現。この事実が私たちに、御言をとおして迫ってくるわけであります。


5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。


 この「強く迫ってくる」という言葉は、「私たちを取り囲んでいる」という意味と、同時に「駆り立てる」「そうさせずにはおかない」という意味があります。14節では、イエス様の愛が、もう完全に私を取り囲んでいて、私の内にも外にもあふれていて、それに駆り立てられて、せずにはいられないと言っているわけです。


 何に駆り立てられているか、いうことですが、14節の最初に「なぜなら」という言葉があります。これは、どこかにかかっているかと言うと、11節なんです。11節の前半。


5:11このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。


 このように、聖霊の御業によって、新しくせられたものは、やがて、自然にイエス様の愛に迫られて、人々に説き勧めるよう、駆り立てられるのであります。


 


 今朝は、14節から19節について、17節の「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」という御言から始めて、どういうことか、何故か、そしてどうなるのかということを、少し帰納的に遡って、御言に聞いてまいりました。前から普通に読めば、非常にわかりやすく、するすると読み流してしまいそうになるのですが、一つの聖句を中心に前後に読み広げていくことで、かえって見えてくる、御言の豊かさに気付かされることもあると思います。


 


 「人々に説き勧める」ことは、これは強制的なことではなくて、私たち罪人には、また欠けの多いものには重く感じられるかもしれません。しかし、19節に「和解の福音をゆだねられた」とあります。福音をゆだねられたということは、この世においては、私たちしか福音を持っていないわけであります。ですから、この福音。すなわち神の御言である聖書を、聖書のメッセージである福音を、たった一人にでも届けることができるならば、このような幸いは無いわけであります。


さらに、このあとの20節には「神が私たちをとおしてなさるのであるから」と言われております。神さまがなさるのですから、私たちは、御言にきいて、祈り。また主を讃美し、信仰生活を歩んでおれば、信仰の成長を願って進んでおれば、それでもう神さまご自身が私たちを通して、御自ら証してくださるのであります。


 


5:17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。


 私たちは、今朝、イエス・キリストによって、すでにこの世の基準から解き放たれた、全く新しいものとされている恵をあらためて思い起こし、感謝と、祈りとをもって、ゆだねられたところの福音、イエス様の愛の大きさを表していくことができますよう、聖霊の一層のお導きを祈ります。


 

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