捧げる恵み ~振起日礼拝 ~
【 コリント人への第2の手紙 8章1節~8節 】
8:1兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。
8:2すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。
8:3わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、
8:4聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
8:5わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。
8:6[そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである。
8:7さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。
8:8こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。コリント人への第二の手紙 8章 1節~8節
今朝は、捧げるということについて。特に、捧げる恵みについて、御言に聞いてまいりたいと思います。これを2回に分けて行いたいと考えています。その第1回目です
さて、「捧げるということは恵みである」それが今日の一番のポイントです。捧げるということは、実は、その捧げること自体が、そのものが恵であるということ。それを私たちが身につけることは、私たちの人生が祝福されるために。とても大事であるということです
この8章から第二コリントの後半に入ります。ちょうど、1章から7章は前半で、8章から後半になります。パウロは前半で、イエス様の救いにあって、コリントの教会の人たちと、今、救いの絆、イエス様の愛の絆で、確かに結ばれている、ということを確かめてまいりました。
コリントの教会の人々は、長くパウロにとっては、大きな心の重荷でした。彼らは、なかなか御言に従順にならないところがいくつかありました。不品行や結婚、に関すること。偶像礼拝に関すること。ユダヤ主義、そして分派。つまりイエス様を頭と仰がず、自らを高め、上に置きこの世的な評価のために人を集め、また兄弟姉妹をこの世的な評価で判断し、差別するするといったようなことです。
しかし、パウロやテトスの働きかけを通して、コリントの教会の人々の心が溶けて、そして本当に御言に従順になり、悔い改めた、という知らせが、パウロが一番つらい時にもたらされました。7章の5節あたりに記されています。パウロがマケドニヤにいて、様々な患難にあい、本当に前に行くのも、後ろに戻るのも辛い、というような時です。テトスがコリントから戻ってきて、先のコリントの改心の知らせを伝えてくれました。
そこで、パウロはこの手紙の前半で、イエス様によって救われたということは、どんなに素晴らしいことか。神さまにある愛の絆、それをコリントの人たちに確かめるために、実際に会うことはできないのですけれど、磨きあうために前半を書いています。第二コリントの前半は、心の手紙。パウロのクリスチャンとしての愛が、そのまま吐露されている、その言葉があふれているところがたくさんある手紙となります。
そして、後半になって、パウロはここから一転して具体的な、「捧げる」という行動について、悔い改めたコリントの教会を導いていきます。パウロは時間を。無駄にしません。本当に、コリントの教会の人たち、その救いの喜び。またイエス様の愛を確かめあった。それが十分になったら、この手紙の後半から、それを改め、直ちに仕事にかかります。悔い改めたコリントの教会を、新しい愛に導くわけです。
そして、きわめて具体的な訓練の話に、話が進んでいきます。それは、「捧げる」ということになります。捧げることは、信仰の祝福であり、恵です。実は、クリスチャンは、捧げることによって、貧しくなり、失うのではなく、捧げる、ということを知って、本当に身につけることによって、成長します。祝福されます。パウロはそれをコリントの教会に教えようとしています。
コリントの教会が本当に悔い改めて、心が一つになって、そこでこれから一緒に働くために。「捧げる恵み」という、信頼。今日はそれをコリントの教会と共に、パウロを通して、捧げる恵みについて教えられていきたいと思います。
8:1兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。
8:2すなわち、彼らは、患難のために激しいを試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。
8:3わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、
8:4聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
1節から8節の間に、「恵」という言葉が実は4回出てきます。口語訳では3回ですけれども、4つ目が隠れています。これは後で述べますが。1節のところで、マケドニヤ。北ギリシアで、パウロが今いるところですが、マケドニヤの諸教会が神さまから与えられた、神の恵み。それは一体、なんのことでしょうか。それを、コリントの人たちに伝えようとしています。
2節から4節を読んでいきますと、これは彼らが、試練の中、貧しさの中にあっても、喜びがみちあふれて、惜しみなく施す富になる。これが恵だといっております。そして施しをして、捧げて、4節でまた「恵み」が出てきます。ですから、マケドニヤの教会に与えられた恵みというのは、喜びから惜しみなく施す富。惜しみなく捧げるという、そして、聖徒たちを支える、交わりの恵みにあずかる、という、その恵だ。捧げる恵みだ。彼らの心に、神さまから。神さまから彼らに与えられた「捧げる」という「恵み」。そのことについて、ここは語っています。
8:5わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。
そのことによって、彼らはまず、自分自身を主に捧げて、また私たちに捧げました。そして6節
8:6そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである。
ここに実は「恵み」という言葉が隠されています。「テトスがすでに募金を始めた」とありますが、この「募金」という言葉は、これまで出てきた「恵み」という言葉と同じギリシア語が使われています。 直訳すると「恵みのわざ」ということになります。
その活動は、大変困窮していたエルサレム教会を救うための献金を募っていたので、募金と意訳されてますが、言葉はやはり「恵み」です。エルサレム教会は、非常に貧しかった。信仰の、そして伝道のいわば源と言えるような、エルサレムの聖徒たち、使徒たちが、経済的に非常に困窮していました。そこで、ギリシアや小アジアにある教会が、そのために捧げて、施して支援しようとした。その仕事を、テトスはしていました。そしてコリントの教会でも、それをもう始めていました。そのことを言っています。そしてそれを完了させるように勧めています。
7節のところでは、コリントの教会の人たちに、あなた方は、いろんなことに豊かですけれど、富んでいるけれど、この「恵みのわざ」にも富むようになって欲しい。6節の募金と同じ言葉です。つまり、支えるために、捧げる。惜しみなく施す、という、この「捧げる恵み」のわざにも富むようになって欲しいといっておるわけです。
それで8節
8:8こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。
これは命令ではない。命令するものでもない。ただ、愛の証。愛の発露、あふれ出る表現として、して欲しい、ということです。ここまでで「恵み」ということをキーワードとして考えると、6節を含めて4回ほど出てきます。そしてこの恵みは、捧げるということについていっているわけであります。
今日、ご一緒に、その捧げるという恵みについてきいてまいりますが、捧げるということは義務だ、と考えることもできます。捧げることは善行、善い行いだと考えることもできます。しかし、捧げることは、「神さまからの恵みなのだ!」と聖書は教えています。
私たちの人生は、お金を捧げるだけでなく、色々な場面で、自分を捧げることで前進していきます。本当に、神さまにお捧げする恵みを、知っているかどうかということは、それは人生が前向きに、本当に前進するか、ということを教えてくれるわけであります。
コリントの教会の、イエス様にある愛の交わりへの、招きの内に、イエスさまの愛の絆に立って、パウロは実践の指導にすぐ入っていきます。その芽が出て、そして芽が大きくなってきたら。つまり悔い改めて、本当にお互いの信頼関係が、心の絆の芽が出てきたら、すぐに、それが根を張り、葉を伸ばし、実を結ぶように。成長するように、具体的な訓練にパウロは移ります。イエス様を信じて、子とせられたものは、子、子供ですから。成長していくわけであります。そのための、霊的な適切な訓練によってということであります。
このイエス様にある愛の交わりは、単なる社交、社交辞令の社交で終わってはなりません。必ず、共に主のために、奉仕することで成長させられていくようにならなければなりません。パウロはここで、すぐに最も具体的な、献金ということを取り上げています。そして、エルサレムの教会とクリスチャンのための支援献金が、コリント教会の成長のための、最初の奉仕の場だ、訓練の場だ、と定めるわけです。非常に具体的です。ここから第二コリントの後半が始まります。
もちろん、その土台は、コリント教会の人たちの、心からの悔い改めでした。この前まで、不従順であったところからの、悔い改めでした。その悔い改めによって、本当にパウロとコリントの教会の人たちが、愛情と、信頼の関係に入りました。それが、この共に働く。捧げる恵みのわざの基礎であります。
なぜなら、この捧げるわざというのは、これは信仰の告白のわざだからです。本当に悔い改めてイエス様に信じるという、霊的な信仰告白。そこから出てくる献身だからです。この捧げるわざというのは、信仰のわざであり、愛のわざです。ただの人間の善行ではありません。悔い改めた会衆を、パウロは、ただちにこのわざに導いて、信仰の定着を図っています。イエス様への信仰を、具体的な実践によって、表すことによって、定着させることを目指しているということが言えます。コリントの教会を主の器として整え、安定して成長していくように、ここで奉仕。献身による、献金による具体的な訓練が計画されています。
訓練はいつも具体的です。ということは、具体的な必要があるということです。お金と、体のこと、私たちの家庭や、結婚のこと、仕事のこと。そこにおける、自制、自制心:セルフコントロールの自制です。それが具体的に、イエス様への献身が問われる訓練です。
「そうしなければ救われない」じゃありません! 私たちは、罪びとで、お金についても体についても、家庭についてもセルフコントロールについても、本当にできない。不十分なんです。ですけれど、イエス様を頼って、御霊に導かれてその罪を告白して、悔い改めて、イエス様に頼って生きています。イエス様に頼ったら、もう救われているんです。その救いに立って、だけど、本当に私たちが成長するクリスチャンになって行くためには、聖なる、聖化の道を、少しでも神さまに進めていただくためには、具体的なことが問われます。
コリント教会の罪の、心における罪の悔い改め。本当に心に現れた変化。それとうらはらに、具体的な献身が、本当に彼らのこれからの信仰の定着になる。善きわざ、というのは、私たちの救いのためにあるのではありません。根本的に。善きわざというのは、私たちの信仰が定着し、安定し、揺るがなくなるためにあるのです。私たちが、自分を捧げることは、私たちが本当に揺るがない、確立した人生を歩んでいく、そのことと直結しています。
私たちは、それぞれ賜物を持っています。お金にしろ、体にしろ、家庭にしろ、仕事にしろ、いろんな賜物を持っています。それで、それを家族のため、もちろんそのために与えられます。また自分のため。しかし、自分だけのため、自分の回りのためだけにその賜物を考えると、それは、その賜物が生きません。
主のために捧げるというのは、どういうことか。主のために捧げるとは、人のために、どういうふうに用いることなのか。捧げるということは、本当に私たちの人生が確立されていく、鍵です。パウロは捧げることを、ここでは端的に、お金。それを、献金を訓練の場としてとりあげます。その捧げることを、捧げる恵み、と言っています。捧げることは、実は私たちにとって、一番基礎になるべきことだ、ということです。
捧げることは義務だから、善いことであり、すべきことだから、果たさなければならない。そういうことではなくて、むしろ、それ自体が恵みである、と言う悟りは、とても、私たちにとって必要であり、助けになります。このことを、まず最初に覚えたいと思います。
捧げることが、恵みであることを悟って、理解して、本当に捧げることを恵みとして、願って実践するところに、私たちの、それぞれの賜物を捧げていく、それによって私たちの賜物が、本当に、生かされる。そして、私たちが恵み、即ち神さまから賜物をゆだねられた、神さまの使いになって行く。それによって、真に成長する道があるということです。捧げるということ。自分の方にだけ持っていくのではなくて、与えられた賜物を、捧げて生かすということ。私たちは身につけていかなければなりません。
そうしなければ救われない、そうすることによって救われる、というのとは全く違います。イエス様を信じた、私たちのような罪びとは、もう救われています。しかし、この救われた罪びとが、ちょうど悔い改めたコリントの教会が、これから本当に成長していくために、その献身していくために訓練をしていく。捧げることが恵みである、ということを身につける必要があります。このことを、本当によくわかりたいと思います。身につけたいと思います。
私たちは、本当に山ほどの賜物を、賜物として与えられています。でも、今、私たちが自分の家で持っているもので、本当に要るものは、本当の意味でいるものは、一部です。私も、最近続けて引っ越しをしましたが、前回から開けていない段ボールがいくつもあります。それでも特段の不足なく、生活できています。こんなことをいうと、中身を知らんくせにと、管理してくれている妻に、あとで叱られるのは間違いないです。実際、要らないわけではないです。一部でいいのかなと思います。
しかし、与えられている豊かなもの。それらが、与えられた意味があります。それをどう生かすのか。使うのか、私は知っているでしょうか。皆さんが、持って、与えられているもの。その生かす大事な一つのこととして、捧げる、という使い方。生かしかたがあるんです。捧げることは、それ自体が恵みなんです。私たちの信仰と、愛を表すわざであり、私たち自身が、それを身に感じ、体験するわざです。もし、私たちがそんなに賜物を持っていなくても。
実は、この8章のマケドニヤの諸教会のケースは、賜物があんまり無かったケースです。「極度の貧しさにもかかわらず」と書いてあります。「あふれ出て惜しみなく施す」。たとえ、そういうものがなくても、捧げることは、捧げる恵みが与えられると。それは、本当に様々なことを生かすことになります。
この施すことについて、岡本契約教会の瀧浦先生が話してくださった、先生のご経験があります。瀧浦先生は、当教会が母教会でしたから、まだいらっしゃった頃のことですが、太田さん。太田イトさんという方がいらっしゃいました。もう、とうに召されていますが、私はほんの短い間の交わりしか、持つことは叶いませんでしたので、皆様の方がよくご存知だと思います。ご高齢で、いつも和服を着ておられた覚えしかないです。その和服と言っても、訪問着とか派手な高価なものでなく普段着としての和服です。瀧浦先生のお話では、太田さんは早くに、いわゆる、やもめになられて、当時の長老のお宅の庭に、簡単なプレハブのような部屋を建てて、そこで住んでらっしゃいました。内職で、縫物の内職をして、そして少しずつお金を稼いで生活していらっしゃった。その方が、瀧浦先生が大学を出て、改革派神学校をでられて、アメリカに留学することになった時、もう50年近く前でしょうか、その当時のお金で、10万円を渡されたそうです。太田さんの、毎月の縫物による収入から考えたら、その10万円は相当お金でした。だけど、それが、先生ご自身の留学を支える心になったそうです。姉妹が捧げられたのは、本当に捧げる恵みだった思います。
神さまから頂いた恵み。恵みの心を、先生を、自分の教会から出た神学生を支えよう、その祈りを、そしてそれを、何年か貯められたと思います。祈りをもって貯めて下さって、そして先生に下さったとのことです。それは、決して忘れることができない、と仰っていました。その祈り。そして捧げることは恵みだということです。その信仰の恵み。信仰と愛の証の恵み。このお話を伺ったとき、私も心が震えました。今でもそうです。
本当に必要なものっていうのは、普通、大きな声を出しません。ここに必要ですよ~っていいません。しかし、どこにでも転がっているかもしれません。私たちの回りの奉仕者や、神学生や、教会の働きや、教会関係でなくても私たちの回りの必要。しかし、その私たちの持っている賜物が、本当にそれらの人を、生かすガソリンになることがあります。私たちは、持っているものを、与えていただいて手にしているものを、全て、本当に生かしているだろうか? 捧げる恵み余地は、私たちにはないか、それを今日考えさせられました。
捧げる恵みについて、日を改めて、引きつづき御言に聞いてまいりたいと思います。(以上)