聖霊の証印
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。エペソ人への手紙 1章 13節から14節
「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」
エペソ人への手紙、1章13節、14節のみ言葉であります。先々週から、連続してこの、エペソ人への手紙の1章のみ言葉に聞いてまいりました。
3節から6節では、父なる神の永遠のご計画。私たちが生まれまえから。いやこの世界、宇宙が作られる前から、私たち一人一人を選んでいて下さり、永遠の死からの救いに定めていて下さった。したがって、その選びと救いは、何一つ、私たちにふさわしい資格や、基準があるのではない。善良であるからとか、よい行いをしたとか。信仰や行い、能力や富に関係なく。また傷の無い者ではなくて、ただただ、神の自由で一方的な恩寵。ただし、深い憐れみと愛に満ちた選び。ご計画であったことが示されました。
このことは同時に、この選びに定められないものが存在するという事実と、それが誰かということは、私たちには分からない、測り知れない神のご深慮の内にあるということです。そして、ヨハネによる福音書の6章でイエス様は次のように言われました。新約146頁。6章37節
<父がわたしに与え下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない>
続く39節で
<わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである。>
このように、御子にあたえられたものが、すべて満たされるまで。欠けることなく、一人残らず揃うまで。イエス様のもとに集う時まで、待っていて下さっているのであります。そして彼らをイエス様の身元へと招き寄せるのが神の言なる聖書であり、聖書を通して働かれる聖霊であります。
次に、7節~12節では、天地創造以前の神のご計画が、イエス・キリストがこの世に来てくださった、その時。パウロにとっては、いま現在まさに実現したことが明かされます。それは、まことの神であって、天において全ての権威をゆだねられた、神の御子でありながら、まことの人となられ、この世の人生において、父なる神への全き服従を果たされ、罪なくして十字架にかかってくださった、神の血による贖いの御業でありました。
このイエス様の贖いによって、イエス様を信じる者は、許しを得、神の呪いから解放されました。アダムの犯した原罪。命の契約違反に対する裁きと賠償とが、イエス様によって為された。イエス様は第2のアダムと言われます。それゆえ、イエス様につながるものは、新たに造られた、新生した、神の民なのであります。さらにイエス様の御業はそれだけにとどまらず、天地のすべてを、ことごとくキリストにあって一つに集められるという、主なる神の壮大な、宇宙的規模の、和解と救いの御業であったことが明らかされました。
このキリストをかしらとした、その体なる教会。またその一致を考えますと、このかしらなるキリストはどのようなお姿を示して下さったかを覚えたいと思います。神であられ、私たちの頭であられるキリストは、その弟子の足を洗われるお方でありました。もっとも尊い方は、幼子、弱者、この世的にはさげすまれる者、欠けたるもの、貧しい者、罪深い者、そのようなものに仕える、そのような頭でありました。その意味で、そのような頭を仰ぐ、体なる私たちもまた、仕える者でありたいと願うのであります。仕え方は、みなそれぞれ。体の一部が他の弱いところを補うように。体に不要な部分がないように。それぞれ役目と賜物があり、貴賤がない。教会の一致は、決して全体主義的な一致ではなくて。道徳主義的でもありません。一匹の迷った子羊を探して下さるように、一人一人を見て、共にいて下さる主の愛と慈しみ。どこまでも父なる神に従順であられたイエス様のお姿。すなわちこの世での謙卑。これを覚え、感謝し、喜び、少しでも従っていこうと願うところに、神を愛し、兄弟姉妹を愛する教会の一致が表れてくるのだということであります。
さて、今朝、聞いてまいりますエペソ人への手紙13節から14節。ここでは、聖霊が私たちに証印を押して下さった。さらに、神の国を継ぐ保証をしてくださった。そして、それはやはり神の栄光を褒めたたえるに至るためである。と教えられています。13節から見てまいりますと、
<あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。>
とありますように、救いはまず、真理のことば。福音を聞くことであります。つまり聖書です。聖書に記された、キリストを見て、キリストの言葉を聞いて、これを信じた者に、その魂に聖霊が、証印を押して下さる。ということであります。選びの民へと召されていることの、確認と確証。これは、キリストを救い主と信じることでありますが、そこに至る手段は唯一で、これは神様が定めたもうたところの手段であります。神の言葉として聖書に聞くということ。
そして、聖霊が証印を押されるということは、最近は何でもデジタル化して、印鑑を押すことは少なくしようということですけれども。それでも本当に大切なものには印鑑をお押します。証印とは字の通り、証しする印であり、証明書であり永久免許証というか、そういうようなものです。神なる聖霊が押された証印は消えることも、期限もないのであります。そして、この証印は、キリストを信じると同時に押されます。
み言葉を一回聞いて、信じたというならそれでもう、クリスチャンです。1000回聞いても、どれだけ聖書を研究して、難しいことをよく知っていても、キリストを信じなければ、それはただの研究者であって、クリスチャンではありません。救われたものではないとうことです。なぜかと言いますと、この信じるという信仰、そして信じるに至る神の言葉を聞くということ。このどちらも、私たち人間主体の行為ではないからであります。罪の内にあっては、聖書が神の言葉と受け止められない。イエス・キリストを、自らの救い主と受け入れることはかなわないのであります。
それを可能にしてくれるのが、御霊。神様である聖霊の御業ということであります。み言葉を通して働かれた聖霊が、私たちの心に、魂に、聖書の言葉が、唯一のまことの神が自らを啓示してくださっている書であることを証され、イエス様を信じる信仰を与え、私たちとイエス様をつないでくださる。その御業をなさる唯一のお方が、聖霊であります。聖書はあちこちで証しています。<聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」ということはできない>。また<神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである>。このように、信仰を告白できること自体、聖霊が証印を押して下さっているということです。神なる御霊のわざですから、これほど確かなものは無いわけであります。
私も会社でいくつか資格をとらされて、証明書やらもらいましたが、中には何の役に立つのか分からないようなものもあります。何とかマネージャーとか。ハンコ押してもらっていますけど、全然向いてないですし、使うこともないです。しかし、この聖霊の証印は違います。証印という言葉のもともとの意味は、押されたものの所有者を示す、だれのものかを示す印のことで、その安全を保障するものということです。目には見えませんけれども、聖霊が私たちの心のうち押されたこの証印は、キリストの民である証明書であり、永遠の命にいたる永遠のパスポートなのであります。
この13節では、<約束された>とあります。訳によって表現が違って微妙に意味も違います。言葉的には「約束されていた」とも、あるいは「約束の聖霊」。という風にも訳せます。前者だと、これも神様の昔からの約束、定めの内にあった、ということです。聖書を一カ所、ガラテヤ人への手紙3章14節をお読みいたします。新約聖書296頁です。
<それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された聖霊を、私たちが信仰によって受けるためである。>
ここは同じ言葉を使っていますが、文脈からすると「予てから約束されていた」という意味が強いと思います。新改訳では後者の「約束の聖霊」としています。この場合は、もしかしたら将来的な約束というニュアンスが読めるもしれません。
それは、14節に進んでみますと
<この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。>
ここで書かれていることは、明らかに未来のことであります。やがて召され、キリストの再臨の後には御国を継ぐものとされる。5節にある、神の子たる身分を授けるとあるように、御国、つまり天国の相続人とされる、という栄光の約束であります。しかも、ここで言われていることは、ただの口約束ではありません。聖霊が「保証」である。聖霊が保証して下さっていると表現されます。この保証という言葉は、もともとは商業用語で「手付金」という意味です。契約の証拠金ですね。契約を、約束を必ず実行しますよ、という真実性を証しするものであるということです。
このように、聖霊なる神が、み言葉を通して、私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えて下さり、その後もまた、私たちを、み言葉を通してキリストとの深いつながりに導き、将来、やがて来るべき時には天国に入れて下さる。そのための手付金を払って下さった、というと微妙ですが、保証してくださっている。というこれも恵みの御業であります。
14節の最後にはその目的、6節、12節にもございました「神の栄光をほめたたえるに至るため」ということが宣言されています。ほめたたえるとは、栄光を表すこと、讃美すること、ハレルヤの声を上げることです。天国でキリストの下に集められて、神様との交わりの内に、永遠の平安と愛の内に置かれて、主の栄光をほめたたえる。人間が創造された、本来の目的。その姿に回復して下さるという、未来の保証がここでなされているわけであります。
ここまで、1章の3節から14節まで、見てまいりました。そうしますと、ここにはパウロによって、主なる神様の「三位一体」というご本質が明らかにされていることが分かります。この神様の三位一体ということは、本当に深い神様の奥義であり、人の理性で完全に理解することの難しい、教えではありますが、聖書が、神様ご自身が語っておられる、大切な教えであります。三位一体の神様の交わりの内に永遠のご計画がなされ、世界がつくられ、人が創造され救いの御業が行われます。この教えが、教会内で、しっかりまとまって、正統で大切な教理として固まったのは4世紀後半になります。ですから、この手紙を書いていたパウロは「三位一体」という言葉、表現をまだ知らなかったわけであります。
しかし、この1章前半読んでみますと、パウロが三位一体ついて、しっかりこのことを理解していたことが分かります。イエスさまの霊に教えられ、聖霊に導かれて、三位一体を、その救いの御業において見事に表現しています。
「神の栄光をほめたたえる」という、人の生きる主な目的であるところのキーワードを、6節、12節、14節に配置し、3節から6節は、父なる神による永遠のご計画、選びの予定の御業について。7節から12節では、そのご計画に基づいて、今や実現された、御子キリストによる贖いの御業について。そうして、13節から14節では、聖霊なる神による、救いの適用。やがて来るべき御国への保証について。過去、現在、未来にわたる、父、子、御霊なる神さまが、私たちのために示し下さった、救いの御業。三位一体のそれぞれのご人格の深く、強いつながりと交わりをあかし、父子御霊が、少しずつ幾重にも重なるように、それぞれの役割を果たして下さり、私たちを救いの確かさへと導く愛が示されています。
また、繰り返される、「キリストにあって」と言う言葉。また「定め」という言葉。これらのみ言葉にも目を止めながら、あらためて、このみ言葉を味わい、罪深く欠けの多い私たちが、御霊の導きによって、主を讃美し、褒めたたえ、またその証に用いられますよう祈りたいと思います (以上)