御言をのべつたえなさい

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御言をのべつたえなさい

1)神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。2)御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。3)人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、4)そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。5)しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。テモテへの第二の手紙 4章 1節から8節

<1)神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。2)御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>


テモテへの第二の手紙 4章1節、2節の御言葉であります。新しい年を迎え、今このようにこの世の支配から解放されて、主なる神様への礼拝をもって始めることができる。この幸い。大きな恵みを深く感謝いたします。昨年は、近年、経験したことが無い、感染症の脅威がもたらされ、いまだ終息の様子が見えてまいりません。この困難の中で新たな一年を始めるにあたり、あらためて、この「御言を宣べ伝えなさい」という、パウロの勧めから、御言から、教会がみ心にかなって前進していくことができるよう、導かれたいと願います。


この手紙は、パウロの最後の書簡であります。これを書いたのち、パウロはローマで殉教することになります。そのこと、厳しい状況はパウロも感じており、7節以降にそれを感じることができます。特に21節では<急いできてほしい>と言っていますように、自らの死を、間近に感じたパウロによる、愛する弟子、自ら亡き後、伝道の御用を受け継いでいくであろう、若者に残した、遺言と言える手紙であります。同時にそれは、残された教会と、キリスト者全てにあてられた、メッセージでもあります


ですから、手紙全体には、テモテに対する愛情、感情的なあたたかさが表れております。短い手紙中には、共に働いてきた多くの信仰者の固有名詞も出てまいります。それらの間に、教理的な教えを、非常に鋭く、端的に記してテモテを指導し、励ましている。そのような手紙であります。


このような手紙の、終盤。最終章の始めにあたり、パウロは極めて強い言葉で、教えを始めています。第1節の<おごそかに命じる>という言葉。これは大変強い、命令の言葉、口調であります。テモテが勇気と忍耐とにやや弱さを持っていることをパウロはよく知っていましたので、あえて強く、厳しく命じています。何を命じたかといいますと、「宣べ伝える」ということであります。ここでの命令は、「宣べ伝える」という行動に、全てかかっています。それも、鋭く強く、緊急を要することとして扱われていることを覚えたいと思います。さらに、ただパウロが個人的に命じているのではない。「神とキリスト・イエスの御前で」という、使徒の権威により、誓いともとれるような非常に厳かな、重要な命令としてであります。


1節の前半の、パウロの強い語調は、日本語や英語では伝わりにくいところがあります。ギリシャ語を直訳しますと、「私は厳かに命じる。神とキリスト・イエスの御前で」となります。神とキリスト・イエスの間の「と」は「και」ですから、意訳しますと「神と神なる救い主イエスの御前で」ということです。イエス様が真の神であることを強調して命じています。パウロは、長い伝道生活における経験。教会の混乱や堕落。人の弱さ。いま置かれている厳しい状況、迫害の時代。それらを予見し、人と教会に対する神の裁きを思っていたことが伺えます。ですから、「このキリストは神なるキリストで、生けるものと死ねる者とをさばかれる方だ」と表現しているわけであります。


さて、このように厳かで、強く命じられた。パウロの心からの願いともいえる「宣べ伝えなさい」と言われておるその内容は、ただ一つ、2節にの最初にある「御言」であります。御言と言われているのは、言うまでもなく、神様の言葉あります。神様の言葉は、すなわち記されて、聖書として今日私たちに与えられているものであり、神様による特別な啓示であります。そして、聖書の中心は、イエス・キリストを信じる信仰による救いを、私たちに与えてくれるものであります。「御言を宣べ伝えなさい」ということは、キリスト・イエスによる救いを宣べ伝えなさい、ということで、もっと凝縮すればイエス・キリストを宣べ伝えなさいということです。


ここで大切なのは、聖書に明かされたところのイエス・キリストでなければならない、という点であります。ですから「御言」とパウロは言っています。そのために、この4章の直前。3章の15節から16節で、パウロは聖書そのものを証ししています。お読みいたします。(335頁)


<また幼い時から、聖書に親しみ、それがキリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である>


 このように、正しく、明確に、端的に教えています。そのうえで、一言、御言を宣べ伝えなさい。聖書、すなわちイエス・キリストによる救いを宣べ伝えるように命じているわけであります。


 これは、キリストの教会が、また私たちが宣べ伝えるべきことは、この御言のみであって、そこに自分のメッセージを選ぶ権利はないということであります。宣べるべきことは神からくる、ということを心に刻みたいと思います。自分の研究結果や知識でも、また考えや感想でもありません。ましてや、この世の知恵や常識、社会的な道徳や古来の教訓、人間の美しい言葉を宣べ伝えるのではなく、ただ御言。神の言葉を宣べ伝えなさいと言われているのであります。


 このことは、この後の3節につながってまいります。この世にあって、世の人々は、様々な思いや要求をもって、教会というものを評価しようとします。キリスト教徒になれば、自分にどのようなご利益があるか。この仕事がうまくいくか。病が癒されるだろうか。困窮から逃れられるか。あるいは、世界的な常識でもある聖書についての知識は得たいとか。自分の考え、世界観に合っているという自己正当化のためとか。いずれにしましても、自分中心的なさまざまな要求を持っています。教会とは、社会的なサービスを提供する場だと断言する人達もいます。これは人間的な意味ですが、やはりその基はどうしても人間中心であり、自分中心。これは神様の上に自分を置くことであります。


しかし、教会が提供するのは神の言葉、聖書であって、聖書はイエス・キリストを宣べ伝えているのであります。この御言を宣べ、伝えるのが教会の使命であり、クリスチャンが選ばれて、身に余る恵みと光栄を与えられている、その理由は神の一方的なあわれみ、恩寵でありますけれど、その目的は神の栄光を表し、喜ぶこと。表すとはすなわち、宣べ伝えるということであります。


以前、コリント人への手紙1章22節で学びましたが、<ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。>という御言があります。このように、人は目に見えるもの、自分にどんなご利益があるか、を期待します。また、自分の理性や理解の中に収まりきるもの、有限な人間の知恵や教訓であることを求め、評価します。しかし、これに対して、目に見えない霊なる神様、その一人子、救い主イエス・キリストを宣べ伝えるというところに、本当のキリスト者の意味があります。この世的には愚かに思われてもです。そこで教えられるのは「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強いから」だということでした。


 そして、この私たちが宣べ伝えるべきキリストとは、いかなるキリストかと言いますと、私たち滅ぶべき人間の罪を、その身に負われて、十字架にかかられ、贖って下さった、真の神であられ、人となって地上に来られた、唯一の救い主。そして死んで黄泉に下り、三日目に甦られ、死へぼ勝利を示し、天に昇り、今や神の右に座し給い、天地の全てのご主権を持ち、やがて再び来たり給う、神の御子、キリスト。この方を宣べ伝えるのであります。


 この世で罪人として十字架刑に処せられたキリストを救い主と仰ぐことは、確かに愚かなことであったはずです。しかし、それは本当に何千年も前から、聖書が予言していたことであり、その成就であります。その刑は人間社会の刑罰ではなく、主なる神、創造主なる神のみ怒りによる、人類全体に対する刑罰を、一身に引き受けられたということでありました。イエス様の十字架の死の恐ろしさということ。イエス様が味わわれた苦痛と恐ろしさは、如何ほどであったかを思います。イエス様は肉体的な一時的な死だけでなく、黄泉に下りというように、父なる神から切り離された、闇に内の、苦しみの中に置かれました。確かに神なるキリストは、常に父と一体であられますから、その御心、ご計画は全てご存じではありますけれども、それ故に、一層、人なるキリストの苦しみと絶望感は、誰よりも大きかったということを、忘れてはなりません。イエス様は、人の罪の重さ、その報いの恐ろしさを誰よりもよくご存じで、それを経験されたのであります。


私たちもいずれは死を迎え、召されます。おそらく一時的な怖さ、苦しさ、辛さといったことも避けられないかもしれません。しかし、私たちは既にこのイエス様によって、永遠の死、地獄からは解放されており、召された後、御国の永遠の命が保証されているわけでありますから、死においても光栄があり、平安が備えられているわけであります。


聖書を通して、聖霊の導きによって、この、真の救い主、神なるキリストを、まず自らの救い主と受け入れ、信じること。そこから宣べ伝えることが始まります。信じるまでは、イエス・キリストは、歴史の教科書で習うような、一人物。教祖や、聖人君子や、ユダヤ教の改革者。あるいは愛を説いた道徳的な歴史上の、この世の人物。この世は、立派な人としてのキリストしか認めません。しかし、御言が、聖書が証しするのは、真の神であり人であられた、唯一の救い主イエス・キリストであります。このことを信じていなければどうして宣べ伝えることができるでしょうか。宣べ伝えることは、まず御言に聞いて、信じて伝えるということでもあります。私たちの信仰が、御言によって、しっかりと支えられ、揺るがないものとされるよう、祈りたいと思います。


宣べ伝えるという使命、教会の伝道の御用は、この世に置かれている教会は、様々なこの世の状況や、問題に左右されるように思われます。けれども、本当に教会の伝道を左右するものは、教会員である私たち自身の、キリストに対する信仰であります。キリストを唯一のかしらと仰ぐ、教会の姿は、その体として、宣べ伝える働きにおいてのみ、かしらの栄光を表し、体の健康を保つことができるのであります。これが果たせないとき、体は衰弱せざるを得ないわけであります。まず、一人一人が、御言を通して、御霊によって、キリストを本当に主とあがめる信仰と生活が守られ、支えられ、さらに導かれるように、さらに祈りまた吟味したいと願うのであります。


次に、4章の2節です


<御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>


 このみ言葉は、有名な個所で、私たちにとっても大きな励ましであり、慰めを与えてくれるところであります。今年の標語聖句の案としてもご提案いただいています。まさに、今、この時にふさわしい御言と言えると思います。特に「時が良くても悪くても」という、あらゆる生活、活動が困難の中に置かれている現在、この「悪い時」という言葉が心に浮かぶのではないでしょうか。


 この「時が良くても悪くても」と言う教えは、多くの先達が様々な解釈をしています。カルヴァンは「いついかなる時も、絶えず熱心に」と訳しています。神学館で習ったペニントン先生もこれに近いです。牧会書簡と言われる手紙の性格から「説教者はいつでも御言を語ることができるよう備える。御言をどんな時も同じ様に、全ての機会で、常に宣べ伝える」と言う風に教えられました。


また別の註解者は、「時と所をかまわず、と言う意味ではなく、キリスト者がこの使命を一時も忘れることが無いよう」と言われます。更に「私たちの都合も、聞く人たちの都合も、社会的事情と言うものの都合がどのようなものであっても、キリストを宣べ伝える」と説明されています。


結局、私たちの見えるところの、周囲の状況に左右されないで、伝道と言うことは時が良くても悪くても、良いか悪いかの問題ではないということが言われております。パウロが手紙を書いていた時は、まさしく伝道によって、その命が危うい、いつ絶たれるかという状況でありました。そのような中で、宣べ伝える使命のために、与えられた賜物を総動員して、また知恵を絞り、祈りつつ前進していったわけであります。


そして、この4章2節の「時が良くれも悪くても」と言うことは、言葉通り、伝道と言うものは、迫害や戦争や、今日の疫病のように、必ずしも、いつもいつも良い時ではないとうことを示しています。いかに一所懸命教会が伝道しても、いかに私たちが真実なる礼拝を捧げても、その伝道の効果は期待するようにはあがらない、とここに言われています。しかし、


<時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>


と言う、この御言の中に、主なる神様がそのことをよく知っていらっしゃる。教会が力をつくして御用を果たしても予期したように進まない場合でも、神様が良くご存知だから「良くても悪くても、御言を宣べ伝えなさい、励みなさい」と言うことが示されています。


 すなわち、その伝道と信仰の効果が、たとえ成果が得なくても、不成功な時であっても、御言を宣べ伝えるということに変わりはない。つまり、その働きが進歩しているかどうかということに問題があるのではなくて、宣べ伝えているか、伝道しているかどうかと言うことが、私たちにいつも問われているということであります。


 控えめで、謙虚で慎ましいことは、これは一つの美徳であります。しかし、私たちの内に、キリスト・イエスにたいする愛と思いがあるなら。与えられているなら。心の奥に、魂に神の御言を少しでも聞くことができるならば、私たちはその内なるキリストを隠してしまうことは、決して良いことではありません。頂いた恵みを、大きな愛を、どうして独り占めできるでしょうか。教会の中だけに隠してしまっていて、どうして召され意味があるでしょうか。それは大きな貪りであります。 


たとえ自分が雄弁でなくても、言葉少なく、静かなつたない言葉をもってしても、イエス・キリストを伝えることができます。大勢の前で、立派に語ることはできなくても、一人の魂に静かに語りかけること、問いかけることはできます。なぜなら、その働きはみ心にかなう業であって、実は、主ご自身がなさることだからであります。主は、私たちの弱さも賜物もすべてご存知であります。自分自身が知らないことも主はご存知で、それを用いて下さるのであります。また、主は、見ていても見えず、聞いても聞こえないこの世の不信仰もまた、よくご存知であります。そのうえで、私たちを愛して下さり、私たちの愛する主の御言が、厳かに、強く命じておられます。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」と。


主がお命じになるとき、お命じになること。それは、私たちは本当に、完全に果たすこと、お応えすることが適いません。しかし、主がそれをご存知の上でお命じになる時、それは私たちが、少しでもお答えしようと願って、願って従う時、必ず主ご自身が、御手をのばして下さり私たちを助けて下さる、あるいは主ご自身が先頭に立たれて、働いてくださる。そのようなものであること覚え、感謝したいと思います。


まだまだ先の見えない、新たな一年の始まりにあたり、本日の御言に励まされ、第一歩の歩みを進めたいと願います。


<神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>

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御言をのべつたえなさい

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